第43話 何度でも
朦朧とした意識の中、温かなものが身体を包み、痛みが消えてゆく。
心地良さにホウと息を吐いて、目を開いたトリアンは、真上からこちらを覗き込んでいる青銀色の丸い瞳に驚いて飛び
そして、軽く自由に動けたことに驚いて、自分の身体を見直した。
毛皮は汚れているが、擦り傷一つない。
〔トリアン、大丈夫?〕
呼ばれて、ムルナとテオドルが側にいることに気付いたが、トリアンは鼻の上にシワを寄せる。
〔ムルナ!? アンタ、なんだいその目。気持ち悪い〕
〔キ、キモチワルイ……?〕
ムルナが月光神に授けられた神聖力は、トリアンの傷を簡単に癒した。
しかし、自分の新しい姿をまだ見られておらず、“気持ち悪い”と言われてガーンとショックを受ける。
〔そ、そんなこと後でイイから、トリアン、手を貸して。
なんとか持ち直したムルナの言葉を聞いて、トリアンはさっと揺れる段層縁へ走る。
大きく開いた
〔どうすりゃいい!?〕
魔穴の縁に立ち、トリアンがムルナを見上げる。
〔ラッツィーが一緒にいるはず。気付くように呼んで!〕
魔穴を通ってこちらの世界に来たムルナは、魔穴がどんなものか知っていた。
魔力を読めなければ、迷い続けてしまう。
〔トリアンの魔力なら、ラッツィーは気付くはず!〕
〔任せな!〕
トリアンは力強く頷き、四肢に力を入れると魔穴に意識を集中し、ラッツィーを心の中で強く呼んだ。
全て、光に包まれていた。
ヘッセンは、何度も瞬き、目を擦ったが、眩しい光の他には何も見えない。
いや、時折青銀と赤金が混じって見えたが、それも眩しくて目の奥がチカチカと痛む。
光に埋もれ、立っているのか浮かんでいるのかも分からない。
これが、魔穴……。
魔穴に落ちて、どれ程の時間が経っているのだろうか。
ヘッセンは粘るような空気を吸うが、吸えているのか、これが現実の世界なのかも分からなくなってきていた。
ベルキースを
全てが麻痺し始めていた。
だめだ……ベルキースを、連れて帰らないと……。
そう思うが、既に動きも思考も緩慢になっていた。
身体の感覚が分からず、思考もままならなくなってきていたヘッセンの左腕が、ふと重みを増した。
感じたことのある、温かくて、柔らかな重み。
次に右手の上を、二つの丸いものが代わる代わる跳ねる。
腕を、手を意識した。
足元を素早く通った何かが、足を動かせというように何度も踵を押す。
今度は足を意識し、ヘッセンは足を前に動かした。
動かすと、感覚が戻って来る。
チチッと耳元で声がして右を向くと、肩の上に心配そうなラッツィーがいて、目が合うと嬉しそうに頬に抱きつく。
「ラッツィー、一緒にいてくれたのか……」
声を出すと、更に感覚が鮮明になった。
そして、不思議なことに、姿は見えないのに、左腕にいるのがリリーで、右手を跳ねるのがフールとマナであると分かった。
足元を走るのが、バロンであることも。
一緒にいるよ。
皆が、そう言っていると感じて、ヘッセンはラッツィーの背に手を添える。
ああ、皆、ずっと一緒にいたのだ。
姿は無くなっても、生命を失っても、想いは、ずっと一緒にいる。
「ありがとう、皆、……ありがとう」
ヘッセンは微笑む。
「帰ろう、皆一緒に。ラッツィー、ベルキースを連れて、帰ろう。分かるか?」
チィーとラッツィーが鳴いて、肩を降り、ヘッセンを先導する。
ヘッセンは光に惑わされることなく、ラッツィーを追った。
「……キース……ベルキース」
呼ばれている……。
ベルキースは、意識を浮上させる。
無理を重ね、魔閉扉の起動で使われた身体は、既に限界を超えていたのだろう。
魔穴に飛び込んだものの、思うようにはヘッセンを追えなかった。
魔界へ流されないよう藻掻きながらヘッセンを追う内、意識は遠退いていた。
「ベルキース」
その声が誰のものかを理解して、ベルキースは大きく息を呑んで目を開けた。
目の前には、あの頃と変わらないヘスティアの姿があった。
「……ヘスティア……本当に、ヘスティアか……?」
震える手を伸ばせば、その手が届く前に彼女が寄ってベルキースを抱きしめた。
「そうよ、私よ、ベルキース」
いつの間にか
彼女を再び抱きしめることを、どれだけ望んだだろう。
ベルキースはキツくヘスティアを搔き抱いた。
「どうして……」
「奇跡よ……。今、地下遺跡には月光神の御力が満ちている」
ムルナへ神の
「……私の想いは月に囚われていた。ずっと、貴方を見ていたのよ、ベルキース」
月を見つめて息絶えた時から、ずっと。
ずっと、見守っていた。
「私の選択が、貴方を長く苦しませてしまったわ……ごめんなさい、ベルキース」
「……そうじゃない。ヘスティア、お前が私に心をくれた。お前のおかげで、私は“生きる”ということを知ったのだ」
二人は添っていた身体を離し、見つめ合った。
「もうあまり時間がないわ。
「……許してくれ」
ベルキースが目を伏せて言うと、ヘスティアは軽やかに微笑んだ。
「謝る必要なんてない。貴方が自由に生きること、それこそが私の願いだわ」
目を開いたベルキースに、ヘスティアは口付ける。
甘く、柔らかな口付け。
それだけで、互いの愛しさが、抱え続けてきた想いが伝わる、濃く熱い交わりだった。
「さぁ、行ってベルキース。貴方の苦しみは全部、私が持って行く」
「ヘスティア」
ヘスティアは、ベルキースの背を押すようにして送り出す。
「生きて」
「ヘスティア!」
一度だけ振り返って見た彼女は、情に満ちた微笑みでベルキースを見ていた。
愛している。
その言葉を本人の口から聞きたいと望んでいたはずなのに、今、その言葉がなくても、どれだけ愛されていたのかが理解できる。
ベルキースは前を向いて駆け出した。
気付けば、全てが黄金に見えていた世界は、多くの魔力の流れが渦巻いている。
その中にヘッセンの魔力を感じ、それだけを目指して足を動かした。
いつの間にか犬型に変態していた身体は不思議と軽く、駆けるほどに、四肢に力が漲る。
こんな状況であるのに、なぜだか、胸が熱い。
生きようと思うことが、生きてと願われることが、こんなにも力になるとは知らなかった。
まるで今、新しい何かが生まれるようだ。
生きる者は皆、こうなのだろうか。
苦しいことがあった時。
もう二度と立ち上がれないと思うような、悲しみを抱えた時。
それでも、再び、前を向いて進めるものなのか。
何度でも、やり直して走り出そうと思える、そんな風にして、誰もが生きているのか。
ヘッセンに尋ねてみよう。
テオドルにも、聞けるだろうか。
ムルナや、ラッツィー、トリアンは、私の話を聞いてくれるだろうか。
湧き上がる想いも、疑問も、感情も、共に生きる者たちに打ち明けて、受け入れてもらえるだろうか……。
ベルキースは夢中で駆けた。
そして、光の先に、ヘッセンを見付けた。
驚きに目を見張り、喜びに腕を伸ばす彼の胸に、躊躇わず、心のまま飛び込んだ―――。
地上の狩り場は、地下からの振動で一時騒ぎになっていた。
崩落の危険があるかもしれず、魔閉扉の真上となる亀裂を中心に、協力していたアルドバンの人々は、一旦退避をしていた。
夜が明ける頃に亀裂で崩落が起こり、その後振動が収まった。
おそらく魔閉扉が閉じたのであろうが、危険ですぐには近付けず、確認することは出来なかった。
「私が行く!」
「バカ言うな! 装備を整えたら俺がもう一度降りる」
ハムハムとゆっくりのんびり餌を喰む山羊達の横で、キセラとゼナスが言い争っていた。
皆が避難した先で、テオドル達を置いてきた父に憤慨したキセラが、自分が捜しに行くと言い張っているのだ。
「バカはそっちでしょ!」とキセラが言った途端、後ろの石畳がボゴンッと持ち上がり、砂埃を上げて大きく開いた。
「ゴホッ、ゴホッ!……おっ、地上だぜ! ヘッセン、ちゃんと出られたぞ!」
砂まみれになって、顔を出したのはテオドルだ。
その隙間から、ムルナが青空に飛び上がり、トリアンがすり抜けて出てきてバババッと身体を震わせる。
砂埃が舞い上がって、テオドルが余計にむせた。
「わっ、ぶっ、バカ! トリアン、もっと離れてやれよ!」
「あー…もう、テオドル、何でも良いですから、早く退いて下さい」
続いて出て来たヘッセンとラッツィーを見て、キセラ達が駆け寄った。
「ヘッセンッ! テオドルッ! 生きてたのね!」
勢いよく二人に抱きついたキセラが、すぐに離れて尋ねた。
「ベルキースはっ!?」
ヘッセンが微笑んで、這い出て来た穴を振り返る。
そこには、真っ白な毛を砂埃で汚した中型犬の
《 第四章 手を伸ばせば 終 》
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