第42話 祈り
「バチェクッ!」
床から怒声を上げたディメタの側に、山羊型魔獣に乗ったゼナスが近付いた。
その肩に頭上を旋回していた
己を襲うもの、抑えつけるものを、跳ね除けることが出来ないなど、生まれて初めてのことだ。
そこで初めて、ディメタは己が今どれほど削られていたのかを自覚し、慄く。
魔界の絶対王者が、頂点から陥落した瞬間だった。
「バチェク! なぜだ! お前は
憤怒の中に、僅かな焦りがディメタの声に滲む。
しかし、梟の嘴から響くバチェクの声は、低く冷静だった。
「尊重することと、専横を許すことは違うぞ、ディメタ。お前は自己の利害のみで多くの人間を危機に陥れた。
真っ直ぐにディメタを見据える梟の目は、確かに魔獣のものであるのに、
「変態を命じる。蛇型となってゼナスと一旦戻れ。今、魔界へ帰ることは許さない!」
バチェクの命と共に、ゼナスがテオドルの長剣を引き抜いた。
「オオオォォォ……ッ!」
抑えつけられ、跳ね除けることの出来ない驚愕の事実と屈辱。
ディメタは空気を震わせて吠えながら蛇型へと変態する。
図らずもディメタは、過去ベルキースが味わった辛苦をここで理解することとなったのだった―――。
しかし、長い時を経ての起動が祟ったか、ディメタの暴動が響いたのか、不気味な振動が止まらない。
遺跡内のあちこちで、古くなった層の縁が欠け、破損していた岩壁が剥がれ、小さな
「ゼナス、これは不味いんじゃないのか? 下手をすれば崩落の危険も……」
山羊に乗って一緒に降りてきた魔獣使いが、上を見上げて顔を引きつらせる。
今のところ大規模な崩落は起こっていないが、とにかく古い遺跡内だ。
いつどこが壊れてもおかしくはない。
「最悪の場合……」
生き埋めに…という言葉は、恐ろしくて口にできなかった。
ゼナスも分かっているはずで、ゴクリと喉は鳴らしたが、魔閉扉が開いて黄金の池のように見える
魔穴に落ちたヘッセンとベルキースは、閉じれば二度と戻ることが出来なくなる。
しかし、助け出す手段はゼナス達にはない。
ゼナスは拳を握り声を張る。
「クソッ! 正規のルートから脱出する。急げ! テオドル!」
声を掛けられたテオドルは、石の地面に蹲っていた。
そこには、青い羽根を散らしたムルナが倒れている。
「……行ってくれ、オレはヘッセンが戻るのを待つ」
「テオドル!」
「どうせ、これじゃあ山羊には乗れないんだ」
ムルナを左腕でそっと掬い上げたテオドルは、顔を上げて眉を下げる。
「折れてる。……利き手だ」
テオドルの右腕はだらりと下がったままだった。
ギリと奥歯を噛んだゼナスは、奥の一段上の階層を指すと、長剣を押し付ける。
「俺達の見立てでは、あそこが一番丈夫だ。何かあればあの下で助けを待て! いいな!」
「ああ、……世話になった」
テオドルの肩を叩き、ゼナスと魔獣使いは、身動きの出来ない蛇を括り付けた山羊を連れて去る。
地上の別の入口へと繋がる方へゼナス達が姿を消すと、テオドルは腕の中のムルナを見下ろした。
たくさんの羽根が散り、美しい青の翼が欠けてボロボロになった、優しい鳥。
「ムルナ……、ムルナ、頼むよ、目を開けてくれ……」
まだ生きている。
だが、既に呼吸は弱々しい。
呪いで苦しんでいるわけでもなく、ただ、生命が尽きようとしている。
「ムルナ、死なないでくれ……」
◇ ◇ ◇
温かく、優しい腕に抱かれて、ムルナは細く目を開ける。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったテオドルの顔が見えた。
……ああ、テオドル。
テオドル、ワタシ、分かったよ。
呪いの真実は、“寂しさ”。
ワタシが呪いを受けた場所は、遥か昔、多くの人間が渇きによって亡くなった場所だった。
どうしてそんなことになったのかは分からない。
でも、渇きに苦しんで亡くなった人々の苦しさと、誰にも気付かれずに弱っていった寂しさが、呪いとして残っていたの。
誰もが得体の知れない“呪い”を恐れた。
渇きに引きずられて、自分が分からなくなるのが、余計に怖い。
ワタシも怖かった。
とても、とても怖かった。
でもネ、分かった。
テオドルが呼んでくれたから。
怖くて怖くて縮こまったワタシを、テオドルはいつだって呼んでくれた。
さっき、この怖さに呑まれてしまいそうだったワタシを、やっぱりテオドルは呼んでくれたから。
それで、呪いとして残っている人間達の想いも、本当は寂しくて見つけて欲しいんだって、分かったんだ。
そう、寂しいのは、ミンナ、嫌だ。
誰だって、寂しいのは怖い。
怖くて、辛くて、“呪い”になった。
うん、だから、その
一緒にいよう。
テオドルがちゃんと、見つけてくれるから。
ノドが渇いたら、美味しいお水をくれるよ。
いつだって。
うん、いつだって。
……だから、だからね、大丈夫。
ありがとう、……ありがとう、テオドル。
テオドルの涙が、ムルナの上に落ちる。
ムルナは、地表の割れ目から美しく姿を現した月を見上げた。
清廉とした青銀の光を放つ、月光神の化身。
その姿に、ムルナは神殿で感じた気持ちを思い出す。
ああ、カミサマ、ワタシはシアワセです。
この優しい人が、ワタシの為に泣いてくれる。
生まれてきて、良かった。
この世界に飛ばされたことも。
呪いを受けたことも。
全部、良かった。
テオドルに会えたから。
ありがとうございます、カミサマ。
だから、全部、差し上げます。
ワタシの全部、何もかもあげるから、だから、この優しい人を、もう泣かないでいられるようにして下さい。
笑っていてくれるように、シアワセで、いてくれるように……。
どうか……。
クル……
ムルナが鳴いた。
振動で欠けた割れ目から、落ちる
それは青銀の輝きを持って、最下層へ届き、ムルナを刺し貫いた。
◇ ◇ ◇
「……うっ!」
ムルナを抱えていたテオドルは、目も眩むような青銀の光と、突如として身動きの出来ない圧力を感じで、息を詰めた。
ほんの僅かにも動けず、呼吸さえままならない、それ程の圧力であったのに、次の瞬間には、まったくの夢であったかのようにそれは去った。
思わず大きく息を吸ってしまい、力んだ身体はバランスを崩して、咄嗟に右手を地面についた。
「え……、動く? 痛くない……」
つい先程まで折れていたはずの右腕が、少しの痛みもなく思うままに動いて、テオドルは驚きに目を見張る。
そして、左腕の中で確かに柔らかなものが動いたのを感じ、弾かれたように顔を向けた。
艷やかな青い羽根が、ふわりと膨らみ、美しく翼が広げられる。
垂れ下がっていた首を気持ちよさそうに伸ばし、ムルナが頭を天空へ向けた。
光を弾く翼で数度羽ばたくと、神が祝福するように、月光が地表の割れ目から幾筋も地底に差し込み、青白く眩しい光で最下層を照らした。
「ムルナ!?」
呼んだテオドルを見返したムルナのつぶらな瞳は、魔獣の証である血の色ではなく、青銀色だった。
それは、
クル、と嬉しげに鳴いて、ムルナがテオドルの腕に嘴を擦り付けた。
テオドルはくしゃりと顔を歪めて、ムルナを抱きしめる。
「ムルナ!」
クルッ!
元気よく応えた声は確かにムルナのもので、これがどんな変化かなんてどうでも良いと、テオドルはただ愛しい鳥を抱きしめたのだった。
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