第39話 魔閉扉 ⑴
冷たい石床の上に、だらりと身体を伸ばしたトリアンの鼻先に、ラッツィーは小さな手で触れる。
〔トリアン、トリアン、大丈夫?〕
〔大丈夫なもんか。痛くてたまんないよ〕
はぁと息を吐いて、トリアンが言った。
あの時転移した先は、この位置の上。
ヘッセンと二匹は、宙に投げ出されたのだ。
元々の転移陣がそうだったのか、長い年月で正常に動かなくなっていたのか、それとも起動時にディメタが邪魔をしたからか。
どんな理由かは不明だが、まさかの宙に投げ出された瞬間、魔術波動の影響か、
そのまま落ちれば
トリアンは咄嗟に自分が下敷きになり、地面に降り立った瞬間に、自分の背を使い渾身の力でヘッセンを跳ね返したのだった。
そして、その瞬間にトリアンの腰骨と後ろ足は損傷した。
「トリアン……」
状態を察したヘッセンが顔を歪めたが、トリアンはフンと顔を反らした。
〔放っときゃ自由になれるとこだったかもしれないのに、助けちまうなんて。……アタシもヤキが回ったね。……ああ、どっちにしろ、もう自由になれるか〕
〔トリアンってば……〕
憎まれ口を叩かれても、今は怒る気になれず、ラッツィーは三角の耳を倒した。
魔獣に神聖魔法は効かない。
自然治癒に時間がかかる程の怪我を負えば、多くの魔獣使い達は従属契約を破棄する。
そんな従魔を手元においても、役には立たないからだ。
トリアンの怪我は軽いものではない。
例え時間を掛けて直ったとしても、今までと同じように駆けることは出来ないだろう。
役立たずの
途端に、ズズズと微弱な振動を感じて、ヘッセンとラッツィーは下を見た。
〔……
〔え?〕
〔この下にあるでかいモンと言えば、魔閉扉しかないよ。ベルキースの奴、動かし始めやがったんだ〕
ヘッセンもまた、眼下で魔閉扉が起動し始めたことを察したようだった。
「降りなければ……!」
言って、トリアンの背にそっと手を置く。
「すまない、トリアン。置いて行く……」
分かりきったことを聞いたと言うように、トリアンは小さく鼻を鳴らした。
そして、前足でラッツィーを押す。
普段なら長い尻尾を動かすのに、おそらく今は自由に動かせないのだ。
〔アンタは一緒に行きな〕
〔トリアン、でも……〕
〔アンタの
再び前足で押されて、ラッツィーはギュッと小さな手を握った。
そしてヂッ!と鳴くと、階層際まで走ってヘッセンを振り返った。
「ラッツィー、お前はトリアンと……」
チィーッと鳴き、早く来いと言うようにふさふさの尻尾を何度も動かす。
〔主、早く!〕
ヘッセンはラッツィーとトリアンを交互に見て、覚悟を決めたのか立ち上がりかけた。
しかし、腕を伸ばしてトリアンの顔を両手の平で包み込むと、驚きに目を見張る顔を正面から見て言った。
「必ず迎えに来る。必ずだ! だから死ぬな、トリアン!」
そして身を翻し、階段状の層を一段飛び降りる。
追いかけて跳ぼうとしたラッツィーが振り返った。
〔トリアン、絶対に死なないでよっ! トリアンもオレの家族なんだからねっ!〕
言うだけ言って、一人と一匹は去った。
トリアンはしばらくその方角を呆然と見つめ、細く細く、息を吐く。
〔なんだよ、ふたりしてサ……。アタシはまだ契約破棄されてないんだから、“死ぬな”って命令されちゃ死ねないだろ、まったく……〕
ブツブツと言いながら、クククと笑った声は、とても柔らかだった。
◇ ◇ ◇
最下層には、鎌首を上げて床を見下ろすディメタの姿があった。
いや、見下ろすのはただの床ではない。
長い長い時を超えて、再び魔力を通し始めた巨大な扉―――魔閉扉だ。
十二枚の扇状の扉が合わさり、一つの大きな円形を作る魔閉扉は、その一枚一枚に小さな窪みがあった。
窪みにはまっているのは、魔力を失くし、黒炭のような塊に見える、元虹霓石だった石。
役割を果たして魔力が消失した後も、魔閉扉の一部として置かれたままだった。
ディメタが大きく瞳孔の開いた深紅の瞳を動かせば、黒い石は一つ浮き上がり床に転がる。
続けて僅かに首を振ると、足元の小袋から淡い虹色の光を放つ虹霓石が浮き上がり、空いた窪みに落ちた。
一瞬光が膨れ上がり、そこから赤く細い光が扇状の扉に走り始める。
一つ、また一つと、十二枚の魔閉扉が動力を取り戻し、微弱な振動が地下遺跡を伝い始めていた。
ディメタのてらりとした錆茶色の身体は、抑えきれない苛立ちの為か、僅かに鱗が立ち上がったり元に戻ったりしながら、波打つかのように動いていた。
太い身体の下には、荒く呼吸を繰り返すベルキースがいる。
白い毛は縺れ、血と砂にまみれて汚れきっていたが、歪に変形していた身体は、腫れが引くようにその形を元に戻していた。
しかし、全て長い毛で覆われていたはずの身体の一部は毛がなくなり、赤みのある肌が見えていた。
見えているのは顔周りから首に掛けて。
いや、よく見れば肌には毛がなくなっているだけではなく、細かな鱗が生えていた。
ディメタが首を下ろし、ベルキースの身体を舐めるようにして見回すと、満足そうに言った。
「馴染んできたようだな」
魔石の過剰摂取による弊害は深刻だ。
摂取直後なら吐き出させることも可能だが、既にベルキースは生命に関わる状態まで取り込んでしまっていた。
こうなってしまっては、魔力を受け入れる器が、摂取した魔力を受け入れられるだけの器になる他、手立てはない。
つまり、ランクを上げる。
中ランク程度に落ちていたベルキースを、最低でも高ランクに引き上げねばならなかった。
魔獣のランクを上げる方法は、魔獣を取り込むこと。
ディメタは
別の魔獣に取り込まれた部分は、傷が治っても元通りには戻らない。
ディメタは今でも最高ランクの竜だが、無欠ではなくなった。
ベルキースに分け与えた分だけ、弱くなったのだ。
魔閉扉の方へ視線を向けていたベルキースは、フゥフゥと息を吐いてディメタを見上げた。
「……己の一部を与えてまで、なぜ助ける。私はもう、キサマとは生きられない」
「いいや、お前はこれからも我と生きる」
ディメタは次々と虹霓石を魔閉扉の窪みへと落とし込みながら、徐々に増えていく赤い光に身体を染める。
「この世界の契約は、魔界へ戻れば破棄される。
言葉の意味を察してベルキースが息を飲めば、ディメタは開いていた瞳孔をキュウと狭めて赤い舌を出した。
「魔閉扉を開き、お前を魔界へ帰す」
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