第26話 御力
平屋造の神殿には、どの部屋にも必ず明かり採りの天窓がある。
月光神殿の一室で、椅子の背もたれを止まり木代わりにしたムルナは、天窓から見える丸い月を見上げていた。
元々は別の用途で使われていた部屋なのだろうが、ムルナにはどんな部屋であったのか分からない。
神殿に入ることに、ムルナ自身はなんの期待もしていなかった。
しかし、こうして神殿の中で月光を浴びると、思いの外安らいだ心地になって、驚いた。
太陽光と月光は、兄妹神の
しかし、今まで外で光を浴びても、ここまでその恩恵を感じたことはなかったというのに、やはり神殿という場所は特別なのだろうか。
実際のところ、神殿は効率的に光を室内に取り込むよう、特別な設計をされているからなのだが、ムルナには知り得ないことだった。
神殿にはムルナのように呪いを受けた従魔があと一匹いると聞いたが、呪いを受けた者同士が接触すれば影響があるかもしれないと懸念され、別々の部屋に分けられていた。
だからムルナは今、ひとりきりだった。
考えてみれば、ひとりきりの夜は久しぶりだ。
……寂しいな。
そう考えた途端、身体の奥底にゾロリと蠢く呪いを感じて、身を竦ませた。
しかし、すぐに深呼吸をする。
大丈夫、大丈夫……。
正直に言えば、自分の中にある、あの昏くドロドロとしたものは怖い。
でも、ワタシの側には、テオドルがいてくれる。
ちゃんと胸の中に、温かい光を感じるもの。
『いつでも俺が側にいる。だから、怖がるな』
……うん。
繋がっているの、分かる。
うん、テオドル、ワタシ、頑張る。
再び見上げれば、丸い月には薄く雲が掛かり始めていた。
ムルナはふと、ベルキースを想った。
いつも皆と離れて、ひとりきりで月を見ていたベルキース。
今夜もどこかで、この月を見上げているのだろう。
一晩テオドルと離れただけでこんなに寂しいのに、愛した人と二度と会えない彼の悲しさは、一体どれ程のものだったのだろうか。
……カミサマ、ベルキースにも、この安らぎを分けて下さい。
ムルナは、初めて世界の主たる“神”というものを強く意識した。
神殿という特殊な場所にいるからかもしれない。
ベルキースに少し共感できたとしても、自分には何もしてあげられないことくらい分かっている。
それでも、今は願わずにはいられなかった。
その時、後ろで部屋の扉が開いた。
驚いて振り返ると、男神官と共にテオドルが部屋に入って来るのが見えて、ムルナは椅子の背もたれを強く蹴って飛んだ。
◇ ◇ ◇
部屋に入った途端にムルナが突っ込んで来て、抱きとめたテオドルは大きく笑う。
「ははっ! 驚かそうと思ったら、俺が驚かされたぜ」
ムルナを両手で抱き上げ、テオドルはその顔を覗き込んだ。
「顔見に来ちまった。一晩我慢しろって言ったのは俺なのに、ごめんな」
そう言うと、ムルナは嬉しそうに、何度もクル、クルと鳴いた。
一人と一匹の様子を微笑ましく見守っていた神官が、ムルナが落ち着いたのを見計らって口を開いた。
「突然来られて驚きました。……ただ会いたいだけだったのですか?」
神官をはじめとする聖職者達が生活するのは、神殿の裏に建つ住居棟だ。
先程テオドルはそこを訪ねて、神官にムルナに会わせて欲しいと頼み込んだのだった。
「あー……、実は神官さんに頼みがあって来たんだ」
「私に、ですか?」
テオドルはムルナを前腕に止めて、神官に向き合った。
「ああ。
ムルナが驚いたようにテオドルを見上げた。
「神聖魔法が魔獣には効かないとご存知なのでは?」
「聞いたことはある。だが、実際に見たことはないんだ。だから……」
テオドルはどうしても試してみたかった。
魔獣に神聖魔法が効果を発揮しないことは、この世界では常識だ。
しかし、バチェクの屋敷で聞いたことが本当ならば、その常識は既に変わり始めていてもおかしくないではないか。
もしも、世界の変化に伴い、少しずつでも神聖魔法が魔獣に効果を表すようになっていたら……。
そのごく僅かな可能性を想像してしまい、テオドルは居ても立ってもいられなかったのだった。
神官は、テオドルと向き合ったまま少し考えていたが、一度小さく頷いて首元から細い革紐を引き、神官服の内から、小さな金色の珠を取り出した。
それは、聖職者達が必ず身に着けているものだった。
神官はその珠を左手で握り込み、右手をテオドルの前腕に翳す。
その手から、仄かに金の光が溢れると、井戸の側でムルナの爪に傷つけられていたテオドルの腕が、スウときれいになった。
神聖魔法で治癒されたのだ。
しかし、その腕に止まっているムルナの足に付いている傷は、全く変化がなかった。
「司祭以上の聖職者でなければ“解呪”は出来ませんので、“治癒”を試しました。しかし、これが効かないということは、やはり……」
神官が珠を服の中に仕舞いながら、申し訳無さそうに言うので、テオドルは急いで首を振った。
「いや、分かっていたんだ!……ありがとう、無理を言ったな」
神聖魔法は、やはり魔獣には効かない。
それを目にして、分かっていたはずなのに、テオドルはやはり落胆する自分を感じた。
クルル、と柔らかく鳴いたムルナが、テオドルの腕に頭を擦り付ける。
テオドルはその頭をそっと撫でた。
「我々が神聖力をどうやって得るのか、ご存知ですか?」
唐突に神官に問われて、テオドルは瞬いた。
「神聖力?……魔術素質を持ってる者が、学校に行くか、弟子入りして神聖魔法を使えるようになるんじゃないのか?」
魔術士になりたい者は、大体そうするはずだ。
「いいえ。魔術士と聖職者は根本的に違います。神聖魔法は、神から直接神聖力を与えられた人間にしか使うことが出来ないのです」
聖職者となる者は、ある日突然神託を受けて神聖力を与えられる。
生まれ持った魔術素質とは、全く別の力だ。
「神聖力は、間違いなく神の
神殿にいれば呪いの威力が弱まるのは、まさにその証拠だろうと、神官は考えているのだ。
「神の力を直接受けなければ……。ってことは、やっぱり現状は神殿にいなきゃならないってことか」
テオドルは呟いて、ムルナを撫でる。
『神々の行うことなんて、理不尽なことばかりでしょう』
いつだったか、ヘッセンがそう言った。
「本当にその通りだぜ……」
温かく柔らかい、唯一つの清らかな生命。
手の中のそれを、どうやって足掻いても守れないことが、こんなにも悔しい。
テオドルが睨み上げた天窓からは、既に月影は見えなかった。
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