第9話 疑心
昨夜は、ベルキースと共に大木に留まっていたムルナだったが、心配して探しに来たテオドルに連れられて、夜の内にテントへ戻っていた。
テオドルの側で眠り、朝起きると彼の手から水を飲む。
普段ならそうして朝一で水を貰うと、今日も頑張ろうと元気が出るところだったが、今朝は多く飲まなければ喉の渇きが癒えなかった。
飲み終わって顔を上げた途端、テオドルの顎の下にうっすらと残る一本の傷が目に入った。
鼓動が早まる。
目が離せない。
テオドルに傷をつけてしまったことが、心苦しい。
そう、きっと心苦しいから、身体の奥がザワザワするのだ……。
「……ムルナ、調子が悪いか?」
その声に我に返った。
テオドルに気遣うような瞳で見つめられると、胸がキュウと縮まったような気がする。
ふるふると首を振って、努めてクルと明るく鳴く。
これ以上、心配も迷惑もかけたくない。
しかし、テオドルは一瞬目を見開いて唇を噛み、ワタシを持ち上げて頬を寄せた。
「…………ごめんな……」
どうしてテオドルが謝るのだろう。
悪いのは、心配を掛けてばかりのワタシなのに……。
◇ ◇ ◇
「アルドバンへ向かうだと? なぜ? まだ
朝の身支度を終え、朝食の準備に取り掛かっていたテオドルは、ベルキースの固い声が聞こえて顔を上げた。
昨夜キセラを交えて三人で話した結果、ヘッセンはドンズ丘陵地帯の探索を止め、アルドバンへ向かうことに決めた。
その決定をヘッセンから聞いての反応だろう。
今キセラは少し離れた沢にココとマリソーを連れて行っており、ここにはいなかった。
「アルドバンから北に抜けて、遺跡近くで探索しようと思う。この一帯の魔力脈の回復に望みを賭けるより、間違いなく魔力が満ちている場所を狙おう」
ベルキースは
「遺跡? 商業連盟を出るつもりか?」
「ああ。
アスタ商業連盟から出て別の国にいけば、その国の制約に囚われることになるが、遺跡ならその縛りはない。
ただ、遺跡の中心に近付けば近付く程、地場は不安定で魔獣の出現も増える。
どんなに質の良い魔石が埋まっているとしても、落ち着いて採掘するには不向きだ。
「キセラがアルドバンで案内人を紹介してくれると約束したのだ。採掘が可能な場所も見当が付いていると……」
「見返りはなんだ」
ヘッセンの言葉を遮って、ベルキースは低く言った。
苛立ったように、紫灰色の尻尾が地面を叩く。
「見返り?」
「人間は大して親しくもない者に、見返りなしに施しはしない。アルドバンの者達は、専有する知識と経験を何の見返りを
「それは……」
言い淀んだヘッセンを見て、ベルキースは確かに何らかの“見返り”が存在するのだと確信した。
「…………私、か?」
ベルキースはジリと半歩下がった。
魔術士アルドバンの話と、ヘスティアとの過去を強く思い出したことで、己がこの世界に引き出されてから強いられてきた様々なことが、鮮明に甦っていた。
不意に、この世界で最初に見た光景が頭を
こちらを満足気に見下ろして、値踏みする魔術士達の瞳。
従属させた
私は、魔力を宿したただの器。
……物だ。
そう感じて己を閉じざるを得なかった年月。
ベルキースは疑心暗鬼に囚われる。
ヘッセンもまた、何かを得る為に自分を削ぎ取るようにして使うのではないか。
テオドルという人間の仲間ができ、従魔達との距離は再び縮まり始めた。
そうして、更にキセラと、
ブルと全身に震えが走り、ベルキースは無意識に竜へ変態を始める。
周囲の空気が揺れ、少し離れた場所にいたラッツィーは、
ムルナも魔力の圧を感じて震えた。
「ベルキース!」
ヘッセンは飛び付くようにしてベルキースの顔を両手で掴み上げた。
不安定に揺れる深紅の瞳を覗き込み、声を張る。
「馬鹿を言うな! お前は私の大事な相棒だ! 差し出すわけがない!」
間近で見るヘッセンの薄い水色の瞳は、ヘスティアと同じだ。
「一緒にヘスの願いを叶えるのだろう!?」
グゥとベルキースの喉の奥が鳴り、地を踏みしめた足に力が入った。
変態が止まり、一回り大きくなっていた身体が縮む。
ヘッセンはそれを確認すると、安堵の息を吐いて首を抱いた。
「……私が独学で身に付けてきた、魔獣使いの全てを教える約束をしたのだ。見返りと言えるなら、それがそうだ」
「全て……」
ヘッセンが身に付けてきた全て。
それはリリー達を従属させて過ごした日々も含まれるはずだ。
それを差し出すことは、ヘッセンにとって苦しみを伴うのかもしれないと気付き、ベルキースは項垂れた。
ヘッセンもまた、ベルキースのことを『大切な生命』だと言ってくれる人間だ。
ヘスティアへの想いとは質が違っても、ベルキースにとって大事な者であることに変わりはない。
それなのに疑ってしまった。
「何があっても、
真っ直ぐに見つめられた瞳と、偽りのない言葉に、ベルキースの波立っていた胸の内が静まっていく。
「すまない」と言いかけて、ベルキースは人の気配に気付いて口を
木陰から、キセラと二匹の魔獣が姿を見せる。
キセラは、この場に漂う雰囲気を察して、軽く首を傾げてヘッセンを見た。
「戻って来るタイミング悪かった?」
「いえ。……昨夜の決定通り、ここを引き払ってアルドバンへ向かいます。ベルキース、それでいいな?」
膝をついたヘッセンに添ったままだったベルキースは、一度キセラを見てから頷いて離れた。
「そう。良かった。きっと、出来るだけ早い方がいいと思うから」
キセラはヘッセン達から視線をテオドルの方へ移す。
彼の肩の上の青い鳥は、昏い瞳でこちらを見ていた。
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