第8話 芽生え ⑵
「ベルキース、疲れてる?」
いつものように窓際に座っていたベルキースの側に来て、ヘスティアが尋ねた。
歳は十四。
成人の十六歳に近付き、顔付きも仕草も大人びてきていた。
窓枠に身体を倒すようにして夜空を見上げていたベルキースは、数度瞬いた。
日の入り前まで雨が降っていた今日は、夜空にも雲が多いのか、ぼんやりとした月影を見せるのみだ。
だから、自然と窓に顔を寄せていたのだが、疲れて凭れ掛かっているように見えたのだろうか。
「いや、疲れてなどいないが?」
「うそ。今日も魔力をいっぱい売ったって聞いたもの……」
ヘスティアは俯いて唇を噛んだ。
この頃のトルセイ家といえば、家長であるヘスティアの父は病で寝込むことが増えていていた。
親族達は魔術素質がない、又は低い者ばかりで、魔術士としての働きも期待できない。
ヘッセンが掘り出した魔石は、家門の収入に充てられ始めていたが、まだ年若い身体で行う採掘では、魔石採掘士を名乗れる程に安定していなかった。
主な収入源とされていたのは、ベルキースの魔力だ。
人間の生活に欠かせない魔術具には、もちろんその動力として魔石が使われる。
多くの魔石は、使用して魔力が空になれば、魔力を充填することが出来た。
繰り返す程に劣化し、最後は破損するが、平民にとっては、空になる度に新しいものを購入するよりもずっと手頃だった。
大昔には、駆け出しの魔術士達が受け持ったとされる魔力の充填。
今は“魔石屋”と呼ばれる者達が、店を構えて行っている。
そしてベルキースは、時々そこで魔力を売るのだった。
ヘスティアは俯いたままだ。
ベルキースには、ヘスティアがなぜそんな反応をするのか分からなかった。
家門の者達は、ベルキースの魔力によって収入を得ることを喜んでも、表情を曇らせたことはない。
「なぜお前が元気を失くすのだ……」
思わず漏らした疑問に、ヘスティアはパッと顔を上げて言い放った。
「心配してるの!」
「…………心配? 何を?」
「ベルキースの身体のことに決まってるじゃない! ずっとこんなことしてたら……」
くしゃりと顔を歪ませたヘスティアを見て、ベルキースは焦りを感じた。
泣かれたくない。
ヘスティアが泣くと、何やら落ち着かないのだ。
「私を何だと思っている? 少々魔力を放出したところで、何の損傷もない。月の光を浴びていれば回復などすぐだ」
「月光なんて、今日はちっとも届かないじゃない……」
ヘスティアは項垂れてベルキースの腕を掴んだ。
そのままそっと身を寄せるので、ベルキースはその細い身体を抱きしめ、背を撫でてやる。
数年前初めて経験したその行為は、何度も繰り返す内に、どこか心地よいものになっていた。
「……ベルキース、死んじゃったりしない?」
俯いたヘスティアから発せられた問いは切ない。
父親の死を想像して、心細くなっているのかもしれない。
彼女は既に、次の家長と定められているのだから。
「当然だ」
「ずっと側に居てくれるんだよね?」
「お前が家長である限りは」
再びヘスティアは顔を上げた。
「私が家長でなくなったら……?」
「………………家長が私の
それは、家門に従属する契約を課されているベルキースには、どうしようもないことだった。
ヘスティアが家長となれば、正式に彼女の従魔となる。
しかし、彼女がその次の代を設ければ……。
不意に胸が痛み、ベルキースは抱きしめる腕に力を込めた。
腕の中の少女は抗うことなく、自身の腕をベルキースの背に回して応える。
その痛みの意味を知らず、ただベルキースは薄い月光を浴びていた。
それは、ヘスティアとヘッセンが成人した年のことだ。
トルセイ家の家長であった二人の父が亡くなり、正式にヘスティアがその座を継いだ、その日。
家長の証である、家紋の入った
「酷い……こんなこと……」
なぜ泣いているのか分からないベルキースは、両手に顔を伏せるヘスティアに添って、その肩に手を置いた。
家長の証である指輪は、トルセイ家の祖先であり、ベルキースを召喚して家門に従属させた大魔術士の作った物だ。
ベルキースを従属させた際の魔術契約や、家門の受け継ぐべき歴史などが封じられており、家長となる手順を踏んだ者に与えられる。
つまりは、家長にのみ受け継がれている、トルセイ家秘伝の知識の塊というわけだ。
「ヘスティア」
名を呼んだ途端に抱きつかれ、ベルキースは面喰らう。
十六のヘスティアは、ベルキースを正面からしっかりと抱きしめられる程に成長していた。
「こんな酷いことってない! ベルキースを鍵にするなんて、どうして……!」
ベルキースは、ヘスティアが何に憤っているのか理解した。
フルブレスカ魔法皇国の貴族家門が作りあげた
二つの世界の間に作られた魔術物質。
その製作の核には、どちらの世界の要素も持つ物が必要とされた。
そこで選ばれたのがヴェルハンキーズだった。
魔界で生まれ、こちらの世界の物を長く摂取して生きている、巨大な魔力を持つ魔獣。
当時のトルセイ家の家長は、失う恐れがあることも覚悟して、この大事業にヴェルハンキーズを差し出した。
かくして“最古の従魔”はその魔力の多くを抉り取られ、魔閉扉の鍵となったのだった。
扉に取り込まれてしまわなかったのは、小型とはいえ、さすが
そうして中ランク程度に残ったヴェルハンキーズは、それからも家門の従魔として存在し続けていたのだった。
「
ベルキースの胸に額を擦り付け、ヘスティアは慟哭する。
「ベルキースは物じゃない! 生きてるっ! 心があるのにっ!」
血を吐くように叫ばれた言葉。
背中で強く長衣を握る細い指。
胸に染みる熱い涙。
全てがベルキースの心を強く震わせる。
長く長く生きてきて、これ程までに心を寄せてくれた者があっただろうか。
知らぬ間に薄く削られ続けてきた心身を、精一杯の力で包もうとしてくれる腕が、こんなにも……。
幼竜の頃に召喚され、状況を理解する前に従属を強いられてしまったベルキースには、得ることの出来なかった心の触れ合い。
ああ、ヘスティア。
ずっとこうしていてくれ。
ずっと、どうか、側に……!
身体の奥底から、どうしようもなく込み上げる感情を抑えられず、ベルキースはヘスティアを強く掻き抱いて名を呼んだ。
「ヘスティア……、ヘスティア……!」
執着も、願いも、無意識に感情を抑えて生きてきた彼が、初めて感じる魂の想いだった。
どれ程そうして抱きしめ合っていただろうか。
二人が身体を離した時、ベルキースの長い髪は紫灰色に変化していたのだった。
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