第7話 芽生え ⑴
「ねぇ、ベルキース、魔界ってどんなところなの?」
ベッドに転がって、足下の毛布を蹴飛ばした少女が、興味ありげに問うた。
窓際で空を見上げて佇んでいた
「……ヘスティア、私の名前はヴェルハンキーズだ」
「だって、呼びにくいんだもの」
うつ伏せに寝転がったまま両手で頬杖をつき、幼いヘスティアはその桃色の唇を尖らせた。
「呼び難いからといって、勝手に名前を変えて良いものではない。そもそも、私の名前を決められるのは
幼い子供相手にも真剣に言葉を返した男は、溜め息交じりに言って軽く額を押さえた。
その手の甲に掛かる髪は艶のない白一色で、ヘスティアやヘッセンの銀髪に近い白髪とは質感も異なる。
ヴェルハンキーズの主人は、現在ヘスティアとヘッセンの父親だ。
しかし彼は、あまりヴェルハンキーズを側に置きたがらない。
一族の中では魔術素質が高めとはいえ、それ程魔術士にも人の上に立つにも向いていない彼は、ヴェルハンキーズが常に側にいると気後れするらしい。
それで、出来る限り、次の家長になるであろうヘスティアの側にいろと命じられた。
ヘスティアは、この何代かのトルセイ家の血筋の中で、最も魔術素質が高いのだ。
と言っても、彼女はまだ幼子なのだから、子守に付けられたようなものだった。
ヘスティアは不満を
「名前を変えたんじゃないわ。呼び名を変えたのよ」
子供はそういうものなのか、この少女は、よくこうして屁理屈をこねる。
ヴェルハンキーズには理解で出来ないことばかりだ。
「…………一体何が違う?」
「友達に、愛称をつけたってこと!」
ぴょんとベッドの上に飛び起きて、ヘスティアが胸を張った。
その振動で、隣に転がっていた弟のヘッセンが落ちそうになって、慌てて手の中の小さな鼠を抱え直した。
「……私が、友達?」
「そうよ! ベルキースは魔獣なのでしょ? ヘセの
ヘスティアが顔を向ければ、ヘッセンは大きく頷いた。
「うん、友達だよ」
ヴェルハンキーズは思わず言葉を失った。
この子供達にかかれば、自分は低ランクの中でも最下層の小鼠と同じ扱いなのか……。
若干の苛立ちも含めて、深紅の瞳で冷たく見下ろし、突き放すように一言落とす。
「あいにく、私はお前達の友達になる気は一切ない」
キッパリと放たれた言葉が理解できるまで、少しの間があった。
その間の後、ヘスティアはワッと泣き出した。
面食らったヴェルハンキーズの前で、大声でわんわん泣く。
驚いたヘッセンも、しばらくすると共鳴したように泣き出してしまった。
聞きつけて来た使用人が宥めようとしたが泣き止まず、母親も来て理由を尋ねるが、二人はただヴェルハンキーズを指差して泣くばかりだ。
小さな子を号泣させる悪者に仕立て上げられたヴェルハンキーズは、もう堪らないとばかりに降参した。
「…………分かった。もう友達で、良い」
パッとヘスティアの顔が輝いた。
涙と鼻水まみれの顔で「うん!」と答え、ようやく泣き止んだが、その日からヴェルハンキーズの呼び名はベルキースに決定されたのだった。
双子にベルキースと呼ばれるようになって二年。
その間に、双子はすっかりベルキースにベッタリになった。
それなりに距離を保ってきた人間との関係は、この二人によって少しずつ変化してきた。
従えるべき魔獣でありながら、どこか怖れを持っていたはずの
……もしや、愛玩動物か何かだと思い始めているのだろうか。
この世界に引き出されて、契約を課されたことを“仕方なし”と諦め、思考を狭めてきたベルキースにも、それは看過できない事態だった。
それである時、ベルキースは
瞳に強い炎の色を揺らし、鋭く尖った牙をギチを鳴らしてみせた。
要は、脅したのだ。
目玉が飛び出しそうに目を見開き、双子が息を呑んだ。
ようやく魔獣が人間とは違うのだと分かったか、と思った瞬間。
「なんて素敵なの!!」
「すごくカッコいい!」
「は?」と声を上げる前に、ベルキースの首と背に双子がへばり付いていた。
人間に遠慮なく抱きつかれるなど初めてのことで、ベルキースは仰天して完全に固まってしまい、二人に散々撫で回されたのだった。
深夜、窓枠に腰掛けて月を眺めるベルキースの側に、ヘスティアはそっと近付いた。
「どうした、眠れないのか?」
ベルキースはチラと視線を向ける。
子女教育も始まって数年経った
彼女は、まだ幼さの残る横顔で空を見上げて尋ねた。
「ベルキースはいつも月を見ているでしょう。どうして?」
「……魔界を思い出すものは、
本来魔獣の住む世界は、魔界だ。
ただ、兄妹神の
過去、幼竜の段階でこの世界に引き出されたベルキースは、もう月を眺めることでしか魔界を思い描くことが出来ないのだった。
「……魔界が懐かしい?」
不安そうに尋ねるヘスティアを尻目に、ベルキースは軽く首を傾げた。
「さあ、どうか……。ただ、この世界が本来生きるべき場所ではなかったことだけは確かだな」
双子のせいで僅かな変化があったとはいえ、ふとした拍子に必ず向けられる畏怖や忌避の視線。
過去には侮蔑的な態度を示されたこともある。
いや、人間との関わりだけでなく、この世界の環境全てが魔獣にとって優しいものではない。
「……もしかして、帰りたいと思ってる?」
「帰りたいと思っても、帰れるものでもない」
重ねられた問いに鼻で笑って答えた途端、ヘスティアのしゃくり上げる声が聞こえて、ベルキースは驚いて見下ろした。
ポロポロと溢れる涙を拭いもせず、ヘスティアはベルキースと目が合うと彼に抱きついた。
「な……にを……」
ベルキースは驚いて見下ろした。
なぜこの娘は、いつもこうしてすぐに身体を寄せてくるのか。
「
「さ、寂しい?……そんなことを考えたことはない」
答える声が上擦った。
「うそ。そんな顔してたもの。一人で月なんか見るから余計寂しいんだわ。これからは私が一緒に見てあげる」
抱きついている少女を離すことも出来ず、ベルキースは両腕を所在なさ気に上げたままだった。
「ぎゅってして!」
言われて、弾かれたように腕を下ろす。
ぎこちなく手を置いた少女の背中は、小さくて、力を入れたら壊れそうだった。
ヘスティアはぎゅうと腕に力を込める。
「一緒に見てあげるから……ここにいて」
涙声で呟く少女の身体から、感じたことのない温かさが流れ込んでくる。
少女の背をぎこちなく
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