第四章 手を伸ばせば

第1話 一度きり

今夜は雲も少なく、風はない。


暗闇にポカリと浮かぶ月は、その光に神の御力みちからを満たす。

それは魔力にも似て、冷えた空気の中、その光を浴びる魔獣達の身に、じわりじわりと染み渡る。



人間の住む世界は、魔界とは異なり、魔獣にとって負担になることばかりだ。

この世界に広がる魔力量は魔界よりも少ない為、怪我をしても治りは遅い。

人間達にはうとまれ、常に生命を脅かさせる。


彼等を癒やしてくれるのは、兄妹神の象徴である太陽と月の光だけだが、闇に紛れ込むことの出来る夜の方が、ゆっくりと御力魔力を取り込める。

だから魔獣達は、昼よりも夜を好む者が多いのだった。




岩と石だらけの寒々とした景色の中、ベルキースはひとり、上空の月を見上げる。


この世界で生きるようになってから、どれだけこの月を見上げてきたことだろう。

全てにおいてこちらの世界とは異なる魔界で、変わらないものといえば、太陽と月だけだ。

望郷の気持ちがあるのか、自分ではよく分からない。

ただ、月を見上げれば魔界の空気を思い出し、時を忘れて見入ることも多かった。



しかし、ある時からその時間は別のものとなった。

共に見上げ、「今夜の月はきれいね」と笑ってくれる者が出来たから。


ヘスティア。


ベルキースにとって、唯一人の特別な人間。



ベルキースは、グルと小さく唸った。

ヘッセンから聞いた言葉が、ずっと頭の中を巡っている。


『ヘスティアは、お前を愛していた』


―――そんなはずはない。


ベルキースは再び唸って強く尻尾を振る。

紫灰色の毛先が鋭く小石を跳ね上げ、離れた場所でカツリと乾いた音を響かせた。



ベルキースの毛の色は白だが、耳や尻尾、足先は紫灰色だ。

それは魔獣特有の特徴である、性別を定めた証に他ならない。

ほとんどの魔獣は生まれた時から雌雄同体で、その毛色はほぼ一色だ。

それが変わるのは、つがいを選んで性別を定めた時なのだ。


ベルキースの毛が、白一色から今のようになったのは、ヘスティアが十六歳を迎えて成人し、正式にトルセイ家の家長となった時だ。


魔獣についてそれなりに知識のある者ならば、ベルキースのその変化がどういうものであるのか理解出来ただろう。

もちろん、ヘスティアにも理解出来たわかったはずだ。


しかし、それからヘスティアが二十歳前で亡くなるまで側にいたが、彼女がベルキースの気持ちを受け入れてくれたことはなかった。


ただ一度きりの口づけでさえも……。





「今夜も月がきれいね」

そう言ってバルコニーの手摺りにもたれたヘスティアは、薄く色付く頬を青白い月光に晒して微笑んだ。


「そうだな……」

「なぁに、その、どうでも良さそうな返事」

気の抜けた返事を返した途端、くつくつと笑ってベルキースを見た。

その楽しそうな笑顔を見て、ベルキースはホッとする。



幼い頃からヘスティアは、よく笑い、よく怒り、よく泣き、そしていつでもあちこち動き回る、いわゆる“お転婆”と形容されても良い娘だった。

成人して家長となっても、感情豊かな様は変わらなかったのに、最近では思い悩んでいる様子で、笑うことが少なくなったように感じている。


ヘッセンが虹霓石こうげいせきを掘り出してからだ。


最近は、ヘスティアの指示でヘッセンの採掘に同行するようになったので、彼女の側にいる時間も減った。

しかし、それだけが理由で、笑顔を見る機会が減ったわけではないことは分かる。

何より、何かに思い悩んでいるような顔を見ることが増えているのだ。


「ヘスティア、虹霓石を集めることは、どうしても必要か?」

思い悩む原因が虹霓石にあることは確かだろうと、ベルキースはとうとうその疑問を口にした。


不意に掛けられた問いに、楽し気に緩められていたヘスティアの頬が張る。

それを見て、尋ねるべきではなかっただろうかと、僅かに悔いる気持ちが湧いた。

しかし、口に出した以上は、追求せずにはいられなかった。

「家門の宿願など、今までどうでも良いと思っていただろう」

「言ったでしょう? 願っても叶わないなら諦めた方が良いと思っていたのよ。でも、虹霓石が手に入るなら話は別でしょう?」


固く言ったヘスティアが、そのまま室内に戻ろうとするので、ベルキースはその腕を取った。

「嘘を付くな」

「あら、どうして嘘だと思うの?」

「ずっとお前の側にいたのだ。それくらいは分かる」

「ふふ、勘というわけ? 魔獣もなかなか人間臭いのね」

ヘスティアが薄く笑んだ。


どこか一線を引いたような物言いが、ベルキースを苛立たせた。

無意識に腕を握る手に力が入る。


ヘスティアとヘッセンが幼い頃から、ベルキースは常に側にいた。

それはベルキース自身が望んだものではなかったが、双子は魔獣である彼を友人として受け入れてきた。

そしてその間、ヘスティアは一度だってベルキースのことを魔獣だと区別して突き放すような言動をしたことがなかったのだ。

ベルキースが雄の性を選んでからの数年も、だ。

それが今になって、なぜこうも変わってしまうというのか。



「……痛いわ、ベルキース。離して」

その言葉に我に返ったベルキースと、ヘスティアの目が合った。


“魔獣”だと今突き放したくせに、『離して』と言ったヘスティアの瞳があまりにも寂しそうで、ベルキースの胸が詰まった。

この胸の詰まりをどうすれば良いのか分からず、咄嗟に彼女の腕を引き、薄紅色の柔らかな唇に己の唇を合わせた。



僅かな間で離れた唇から、細く息が吐かれた。

「…………どうしてこんなことを?」

「……人間は、愛しい者にこうするのだろう?」



ヘスティアは、初めて見る表情で、諭すように言った。


「友達相手には、頬にするの。……唇にはしないものなのよ、ベルキース」


その苦しそうな表情が、決して口づけを喜んでいるものではないと言うことだけは分かり、ベルキースはその時、去って行く彼女の背中を黙って見送ることしか出来なかったのだった。

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