第16話 決意
一度溢れた涙は、止めることが出来なかった。
〔……っ、……っ〕
〔ムルナ、ムルナ泣かないで……〕
ラッツィーはムルナをギュウと抱きしめた。
〔テオドルのバカ! ムルナを魔界に帰すなんて駄目だ! オレ、後でアイツのこと叩いてやるから〕
一生懸命撫でながら、そうやってラッツィーが言えば、ムルナは弱く首を振った。
〔……っ、……叩いちゃだめ〕
〔ムルナァ……〕
そっと離れたラッツィーに、ムルナは小さくクルと鳴く。
〔だってワタシ、もう蹴っちゃった……〕
ムルナは再びクルと鳴く。
つぶらな瞳から、またポロと涙が落ちた。
キセラの言葉を聞いてから、テオドルの心を占めているのは“ムルナの死”だ。
テオドルがムルナにとって特別な存在になったように、テオドルにとってもまた、ムルナは特別な者だ。
ムルナが思う
そしてそういう存在が、テオドルにとって初めてであろうことも。
だから、その死が怖い。
目の前で、何も出来ずに生命を落とされるのが怖いのだ。
だからこそ、
しかしそれは、テオドルの“逃げ”でもある。
生き物は、必ずいつかは死ぬ。
呪いがなくても、ムルナはテオドルよりもずっと寿命は短いのだ。
テオドルが隷属契約を結んだ以上、いつかは必ずムルナを看取る時がくる。
そこから逃げることは出来ないのに。
〔意気地なし……〕
ムルナは呟く。
でも、口に出したら後悔して、悲しくなった。
誰だって、初めてのことは怖い。
きっと、人間でも、魔獣でも。
悲しくなったムルナの胸に、それでも今も流れ込んでくるのは、テオドルの温かな想いだ。
……大好き。
ポロ、とムルナの瞳から、また涙が溢れる。
どうか、最期まで側にいさせて。
お願い、テオドル……。
涙を溢し続けるムルナの呼吸が、徐々に荒くなっていた。
〔ムルナ、戻ろう。水が欲しいんでしょ?〕
〔……うん……〕
気付いたラッツィーが声を掛けるが、既にムルナは動くのが億劫そうに見えた。
〔動くの辛い? 待ってて、テオドルを呼んで来る〕
〔私が連れて行く〕
〔え!? ベルキース……〕
珍しい、という次の言葉をラッツィーは辛うじて飲み込んだが、言いたいことは伝わってしまったようで、ベルキースはフンと一度鼻を鳴らした。
〔私と
〔うん、分かった!〕
ベルキースがムルナの身体を背に掬い上げるのを確認し、ラッツィーはピョンと枝から跳び下り、岩壁を駆け下りて行った。
〔落ちるなよ〕
ベルキースが背に乗ったムルナに言って、岩壁を降り始める。
ムルナは両方の翼でベルキースの首を挟むようにしてバランスを取った。
〔ムルナ、明日の探索から、あの採掘士達が言っていた魔力脈をよく見ろ。……もし
岩壁を慎重に降りるベルキースは、下を見つめたまま言った。
〔……どんなに、深くても……〕
〔そうだ。どんな深い場所でも、必ず私が掘る〕
ムルナはベルキースの背で息を呑む。
例え強い力を持つ魔獣であっても、硬い岩盤を掘り進めるのは簡単なことではない。
実際、ムルナは以前、ベルキースが岩盤を抉るように深く掘削するところを見たことがあるが、その際には随分無理をしていたように見えた。
事前に魔石を取り込み、短時間に
それは、見ていてハラハラするような行為だった。
虹霓石を手に入れる為、ベルキースは今回もそれを行うつもりなのだ。
そして、ムルナにその決意を突き付ける為に、わざわざここに来たのだ。
しばらく逡巡していたムルナは、意を決して尋ねる。
〔…………危険ではない?〕
〔
ベルキースは突っぱねるように言ったが、ムルナはなおも言葉を重ねる。
〔確かに
〔……何が言いたい〕
〔本当は、
以前、谷底でガス爆発事故が起きた時、ベルキースが竜の姿となって驚いたと、ラッツィーから聞いた。
ムルナだけは、その時離れた場所で待機させられていたので、直接その姿を見たわけではない。
しかし、だからこそ、その違和感を正面から受け取った。
あの時、ベルキースの魔力量は殆ど変化しなかったのだ。
それこそ、ムルナやラッツィーは身が竦んで側にも寄れない。
トリアンだって、今のように軽々しく口答えなど出来ないはずだ。
しかし、皆当たり前のようにベルキースと接している。
果たしてベルキースは、本当に竜型の魔獣なのだろうか。
竜の姿を見ていないムルナは、そこに疑いを持っている。
だからこそ、今回の掘削方法は心配しかない。
危険な方法を選ぶベルキースは、本当に大丈夫なのか……。
ベルキースは、グルと低く唸った。
〔余計なことを考えるな。お前は、言われた通り探索すれば良い〕
〔でも……〕
〔呪い持ちのお前に、他を心配する余裕があるのか?〕
岩壁を降り切って、地面に立ったベルキースは、前からやって来る人の気配に目を細めた。
どうやらテオドルが近付いて来ている。
ヘッセンも一緒のようだ。
大人しく待っていられないから、
〔迎えが来たぞ〕
ベルキースは頭を下ろして身体を傾け、わずかに草が生えている所にムルナを降ろす。
そして去り際に、鋭くムルナを見下ろして言った。
〔お前は今もヘッセンの探索魔獣だ、ムルナ。虹霓石を見つけるのだ。……いいな?〕
荒い呼吸だけで、返事も出来なかったムルナは、ベルキースと入れ替わりに近付くテオドルの姿を見て、身体の力が抜けるのを感じた。
「ムルナ! 大丈夫か!?」
しかし、テオドルが大きな器になみなみと水を注いで差し出すと、音が聞こえるほど喉を鳴らしたのに、顔を背けた。
「ムルナ? どうした、飲め」
さらに器を近付けられても、ムルナは
『飲め』と命を下された為に、それに背く行為は苦痛を伴う。
それでもムルナは、ぶるぶると震えながらも決して嘴を開かず、そして、その目だけはテオドルをじっと見詰めていた。
それは、ムルナの決意表明だ。
何があっても、テオドルの側で生きる。
苦しかろうが、死が近付こうが、例え命令に背こうとも、どこにも行かない、と。
「分かった! 分かったから!」
テオドルは堪らずムルナの身体を掬い上げた。
「俺が悪かった、どこにもやらない! ずっと俺と一緒にいろ!」
だから飲んでくれ、とテオドルが手の平に掬った水を、ムルナは急いで喉に流し込んだ。
灼けるようだった喉に水が沁みて、ムルナはポロポロと涙を溢す。
「ごめんな。……ムルナ、ごめん」
絞り出すように言ったテオドルの声は、水よりもなお、ムルナの胸に沁みた。
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