第15話 迷い
採掘士の一行と別れてから、ヘッセン達は西へと同じ様に探索を進めていた。
特に変わったことはない。
しかし、アルドバンの魔獣使いキセラと話した内容で、ヘッセンとテオドルは、それぞれに心に引っ掛かりを覚えていた。
風の季節の日暮れは早い。
ヘッセン達はこの日の探索を早々に終えて、道から少し外れた場所に、今夜の野営地を設けた。
焚き火を前に、鍋に乾燥肉を千切り入れていたテオドルは、手を止めないままヘッセンに尋ねた。
「ヘッセン。ムルナを魔界に戻せば解呪できるって、アンタは知っていたのか?」
側で小さな座布団の上に収まっていたムルナが、ピクリと身体を震わせて顔を上げた。
唐突な問いは、おそらく予想されていたことだったのだろう。
ヘッセンは間を空けず頷いて、口を開いた。
「ええ。しかし、それは人間が意図的に行えることではないと思っていましたから、解呪する為の方法としては除外していました」
帰してやりたくても、魔界へ繋がる
「……ムルナを魔界に帰すことを考えているのですか?」
少しの沈黙の後、静かに降ってきた問いに、テオドルは顔を上げる。
炎の赤に照らされた表情には、明らかな困惑と迷いがあって、力なく視線が揺れる。
「……解呪出来ないままだと、ムルナは本当に……?」
「正直私にも分かりません。実際に呪いを受けた魔獣を見るのは、ムルナが初めてですから」
ヘッセンは溜め息をついた。
ヘッセンにとっても、魔獣については分からないことが多いのだ。
火に掛けた鍋の中で、熱されたスープがクツクツと小さな音を立て始めると、テオドルもまた同様に小さな声を出した。
「俺の
キューッッ!
ムルナが突然鳴いた。
静かな宵の空気を、鋭く切り裂いたようだった。
皆の視線が向いた時には、ムルナは大きく翼を広げて飛び上がっていた。
驚いたテオドルの顔面を両足で交互に蹴ると、ムルナはその勢いでさらに高く飛び上がり、道を跨いだ向こうの岩壁に向かって飛んでいった。
「ムルナ!」
追いかけようと、顔を押さえて立ち上がったテオドルの片足に、トリアンが素早く尻尾を巻き付けた。
つんのめって、地面に片膝をつく。
「トリアン、お前っ!」
振り返って抗議の声を上げたテオドルだったが、冷たく目を吊り上げたトリアンとテオドルの間を、ラッツィーが無視して駆けて行った。
側に来たヘッセンが、トリアンの背を軽く叩く。
テオドルの足首から素早く尻尾を離すと、トリアンは尻尾が汚れたと言わんばかりに、数度大きく払ってから毛繕いを始めた。
「ムルナがどうしたいのかは、今のではっきり分かりましたね」
そう言われたテオドルは、再び立ち上がって追い掛けることが出来ず、その場に
ムルナに蹴られた額を押さえて、項垂れる。
自分の隷獣になったことで、ムルナの基礎体力は上がった。
確かに度々水を与えなければならない状態ではあるが、それでも元気で毎日を過ごせている。
だから、このままずっとこの状態を保てるのではないかと、漠然とそう感じていた。
「……だが、放っておいたら、ムルナは……」
テオドルは重く口にする。
『その子、放っておいたら、きっとその内自我を失くして死ぬよ』
キセラの言った言葉が、テオドルの耳から離れない。
もしかしたら呪いが進行して、生命に関わることになるかもしれない……。
その可能性を、ずっと意図的に意識外に置いていたのだと思い知らされたのだ。
ムルナが死ぬかもしれない。
嫌だ。
死なせたくない。
今その気持ちが、テオドルの頭を支配している。
「……どんな生き物も、いつかは死にますよ」
側に立ったヘッセンの静かな言葉に、テオドルは顔を上げる。
ヘッセンは、ムルナとラッツィーが去った方を真っ直ぐに見つめていた。
「生きられる間、どう生きたいか。それを決められるのは、自分自身でしょう。例え主人の命令に背けない従魔でも、その意志はある」
どこか苦さが滲んだ声だった。
ムルナは、テオドルを
テオドルにも、それは痛いほど感じられた。
「……それでも、
そう言ってヘッセンは口を閉じた。
テオドルもまた、キツく唇を引き絞る。
ベルキースが音もなく立ち上がり、徐々に濃いさを増す薄闇に向かって歩き出した。
「ベルキース?」
「辺りを見回って来る。先に休め」
チラと顔を向けて言い、紫灰色の毛先を揺らして、ベルキースは歩いて行く。
その先は、ムルナとラッツィーが去った方角だ。
人間二人と一緒に残されたトリアンが、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
◇ ◇ ◇
風のない夜だ。
辺りはすっかり暗くなり、墨を流したようなのっぺりとした空に、ポカリと穴を開けたように丸い月が浮かぶ。
ムルナは、崖の途中に斜めに突き出した樹木の枝先に止まり、青白い光を降らせる月を見上げていた。
魔獣の世界である魔界は、この世界と同様に、太陽と月の兄妹神が創った世界だ。
風景や流れる空気、魔力、そしてその世界に根付いている魔獣という生き物達、全てがこの世界とは違うが、神の
だから、魔界からこの世界に飛ばされてから、ムルナは何かあればいつも月を眺めた。
魔界で生まれ育ったムルナには、魔界を懐かしむ物はそれしかなかったからだ。
月を見上げ、二度と帰ることの出来ない故郷と仲間を、何度も想った。
だが、望郷の為に月を見上げることは、この数年間はなくなっていた。
ヘッセンに従属して、この世界に居場所を見つけた気がしていたからだ。
ラッツィーにベルキース、トリアンという、仲間も出来た。
そして、今はテオドルがいる。
ずっと、側にいたいと願った相手。
それなのに…。
『いっそ魔界に帰してやる道を考えてやった方が……』
弱々しいテオドルの声を思い出して、ムルナは羽根をパララと震わせた。
〔わぁっ!〕
〔ラッツィー!〕
ムルナを見つけて崖下から駆け上がってきたラッツィーが、その動きに驚いて一歩ピョンと下がった。
〔ごめんね、大丈夫?〕
ムルナが近寄って心配そうに尋ねると、ラッツィーは三角の耳をペタリと倒した。
三本の尻尾を撚り合わせ、ふわりとしたその先で、そっとムルナの頭を撫でる。
〔……ムルナこそ、大丈夫?〕
ラッツィーの尻尾が上から下へと撫でると同時に、ムルナのつぶらな瞳から、ポロと涙が溢れた。
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