第10話 願い ⑴
ベルキースはテントを離れ、草むらに突き出した固い岩の上に立った。
周りに似た岩が幾つも見え、仄かに月光で照らされた辺りは、静かでとても寒々しい。
風の季節の空気は、日に日に冷たさを増す。
細く吹く風がベルキースの白い毛を揺らし、体温を削いで奪っていくようだった。
今夜の空は、薄く雲が広がっていた。
とろりと広がる闇色の中に、星は見えない。
ただ輪郭をぼんやりとさせた丸い月が浮かび、空にポカリと穴を開けたようだ。
月光神の
いつ見ても、変わらない月。
だから月を見上げれば、ヘスティアと共に見上げた空を、どうしたって思い出すのだ……。
「……ヘッセンに付けだと?」
古ぼけた屋敷の二階。
突き出したテラスで、隣に立つヘスティアに思わず問い返したのは
欠けた手摺りに白い両手を置き、月光にぼんやりと照らされた庭園を見下ろしていたヘスティアは、思い詰めたような表情のまま頷いた。
年相応に、日に日に美しさを増していくその横顔は、最近こうした憂いを帯びて見えることが多い。
幼い頃からあれ程快活で笑いの絶えなかった娘が、こうして度々笑みを忘れてしまうことに、ベルキースの胸には言いようのない不安が渦を巻く。
「ベルキースは常にヘセに付いて、
ベルキースはきつく眉根を寄せ、数歩下がった所に立つヘッセンを振り向いた。
「なぜ私が? ヘッセンにはヘッセンの従魔がいるだろう。あれ等は皆、探索魔獣だ」
指されたヘッセンの左腕には、両手両足でひしと抱きついた猿型魔獣のリリーがいる。
足元には赤い
二匹の鼠型魔獣は、既に就寝しているのかここにはいなかった。
「ええ、彼等は優秀な探索魔獣たちよね。でもね、貴方と違って、直接人間と言葉を交わせないでしょう? 伝えたいことがなかなかヘセに正しく伝わらないらしいの」
言って、ヘスティアは振り返る。
ちょうどヘッセンの腕にしがみついているリリーが、眠くなったのか目を擦り、キィと小さく鳴いて甘えるように
ヘッセンは黙ってリリーを腕から離し、抱き抱えてトントンと優しく背中を叩き始めた。
目を閉じ、親指を口に含んでチュッチュッと吸い始めたリリーを見て、ベルキースは苦い物を噛んだような表情になる。
「十分過ぎる程に伝わっていると思うが」
「あはは、確かにね。ヘセとこの子達は信頼し合っていて、気持ちも通じ合っている」
口元に手をやって楽しそうに笑ったヘスティアだったが、すぐに笑いを収めてベルキースを見上げた。
何かを決断したような真剣な瞳に、ベルキースは困惑する。
「でも、採掘の時には、それだけでは駄目なの。虹霓石を採掘するには、探索魔獣が読み取った魔力の流れを、逐一詳しく把握しながら掘り進めなければならない。そうよね、ヘセ?」
話を振られたヘッセンは深く頷くが、しかしどこか気後れした様子でもあった。
「繊細な採掘には、微弱な魔力の流れも読み取れる
「だからベルキース、貴方が間に入って、伝達する役割を担って欲しい」
言い淀んだヘッセンの言葉を継ぎ、ヘスティアが言った。
ベルキースは両者を見比べる。
提案していることが冗談ではないと分かって、額に手を置いて軽く首を振った。
「……それ程に、虹霓石を得たいのか?」
「ええ」
「何故?」
「決まっているわ。再び扉を動かす為よ」
迷いなく言い切ったヘスティアを、ベルキースは信じられない思いで見下ろした。
「扉を……家門の宿願?……なぜだ。貴族家門であることなど、忘れてしまえば良いとあれ程……」
ふ、とヘスティアはわずかに笑った。
「どうやっても願いが叶わないのなら、いっそ捨てて忘れてしまえば良いと思っていたのよ。…………でもね、願いは叶うの」
「虹霓石さえ手に入れば」と言ったヘスティアは、その色素の薄い瞳に月光を映し、ひたとベルキースを見た。
「ヘセの採掘に付き従い、虹霓石を手に入れる手助けをして。ヴェルハンキーズ……お願い」
◇ ◇ ◇
テントの中、寝床に横になった
ラッツィーが主人の懐に入りたくても、これでは無理だ。
おかげでトリアンは、普段通り横這いになった腹の部分にラッツィーを引き寄せて満足そうにしている。
ラッツィーはちょっぴり不満気だったが、望み通り主人の側にはいられたので、我慢していた。
なかなか寝付けない様子だった主人は、少し前に寝息を立て始めていた。
しかし安心した矢先、毛布の中から籠もった苦しそうな声が漏れ聞こえた。
今夜もまた、悪夢を見ているのだろうか。
ラッツィーは立ち上がって主人の側に駆け寄ると、三本の尻尾をできるだけ柔らかく膨らませて、毛布から出ている額を撫でた。
〔大丈夫、大丈夫だよ
何度か撫でて、ふとトリアンの方を向くと、興味なさそうに大きくクワと
〔そうだ! トリアンも一緒に撫でてよ〕
〔はあぁ? なんでアタシが?〕
〔だって、トリアンの尻尾気持ち良いもん! オレ、トリアンの尻尾、優しくて好きだし!〕
ラッツィーはつぶらな瞳をキラキラさせてトリアンを見つめた。
グ、とトリアンの喉の奥が鳴ったのは気のせいか。
それでも知らんぷりを決め込んで、眠ったふりをしてやろうと考えたが、目の前の
巻き付けられた毛布には、隙間がない。
おそらくそれは、隙間があればラッツィーが懐に入り込むからで、トリアンの側にラッツィーを置いておくための、主人なりの配慮なのだと気付いたのだ。
……まったく、小賢しいったら。
トリアンは溜め息をついて立ち上がり、ラッツィーにグイと身体を寄せて再び横這いになった。
そして長い尻尾を持ち上げると、芋虫のように毛布に包まっている主人の身体を、トン、トンと赤子をあやすようにリズムよく、軽く叩き始める。
〔トリアン?〕
〔バカだねぇ、二匹で顔を撫でたらさすがに目が覚めちまうだろ〕
ピピッとラッツィーの耳が立ち、両手を組んで再び目をキラッキラとさせる。
〔ほら、尻尾がお留守だよ〕
ツンと顔を上向きにして言われ、へへと笑ったラッツィーは、主人の寝息が穏やかになるまで、トリアンの身体にくっついて尻尾を動かしたのだった。
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