第9話 涙
テントの中に駆け込んだラッツィーは、ベルキースの尖った気配に一瞬
しかし、勇気を出して
そして、あっと言う間に肩の上に辿り着くと、小さな手で襟元にヒシとしがみつき、三本の尻尾をできるだけ柔らかく膨らませて、主人の頬をひと撫でした。
〔
言ってラッツィーは、何度も尻尾で頬を撫でる。
実際は、ヘッセンは泣いたりしていなかった。
だが、ラッツィーには彼が辛く悲しい想いを外に出さないように抑え込み、見えない涙を流しているように思えてならなかったのだ。
〔オレがいるよ。一緒にいる。だから泣かないで……〕
何度目か頬を撫でた時、ヘッセンは眼鏡を外して細く弱く息を吐いた。
その息と共に、身体がわずかに弛緩したように思えて、ラッツィーもまた安堵して息を吐く。
「……ラッツィー、心配はいらない」
ヘッセンは肩の上でラッツィーに顔を寄せ、その温かな頭と背をひと撫ですると、小さな身体を軽々と掬い上げてテントの入り口辺りに下ろした。
チ、と小さく鳴いて振り返れば、主人は微かに笑んでそっと背を押す。
「トリアンが寂しがる。さあ、一緒にいてやるといい」
谷で主人が抱きしめてくれてから、ラッツィーは何度かテントの中で、主人と夜を過ごした。
くっついて眠る夜は幸せだ。
そしてそれは、自分だけのことでないようだった。
横で丸まるラッツィーを、そっと手の平で懐に引き寄せてくれる主人も、同じように温もりを欲しているのだと分かって嬉しかった。
しかし、ラッツィーがヘッセンのテントに入る時、トリアンは決まって、テントから少し離れた所で一匹で眠っている。
それに気付いてから、主人はラッツィーを懐に入れて眠らなくなった。
共にテントに入っても、眠る時にはトリアンの所へ行けとラッツィーを外に出してしまう。
ラッツィーと一緒にいるとトリアンの安定が増すから、と主人は言う。
しかし本当のところは、トリアンの抱える喪失と痛みを
主人は、そう見せようとしないだけで、本当はいつだって優しい。
だからこそ、ラッツィーは主人の悲しみや辛さを和らげてあげたいと願うのだ。
〔主、オレ一緒にいる〕
ラッツィーは、イヤイヤと大きく首を振った。
いつもは大人しくテントを出てトリアンのところに戻っていたが、今夜は離れないでいたかったのだ。
「ラッツィー……」
少し困ったように背を押す主人を見上げて、ラッツィーは堪らず、主人には聞こえない声で外に向かって叫んだ。
〔トリアン! トリアン、来てよ! お願い、今夜はこっちで一緒に寝て!〕
その言葉に唸ったのはベルキースだ。
最近よく出入りするラッツィーには不満だったが、すぐに大人しくテントを出るなら、まあいいと大目に見てきた。
しかし、トリアンまで内に引き入れようとは、看過できない。
〔ラッツィー、出ていけ。主人に従え〕
苛立ったベルキースの声に、ラッツィーはビクリと身体を跳ねさせた。
恐ろしくて、身体中の毛が逆立つ。
それでも両手を握りしめ、ラッツィーは声を上げた。
〔イヤだ、今夜はここにいる!〕
〔邪魔だ、出ていけ!〕
耐えようと思っても、勝手に身体がぶるぶると震える。
しかし、ラッツィーはギュウと両目を瞑って叫んだ。
〔イヤだイヤだ! ベルキースはズルい! 主の
強く閉じたラッツィーの瞳から、
声が聞こえないヘッセンは仰天して、急いでラッツィーを掬い上げる。
「ラッツィー、どうした……。ベルキース、ラッツィーはなんと言っている?」
ヒシとヘッセンの服を握りしめ、開いたつぶらな瞳から次々と大粒の涙を零すラッツィーに、ヘッセンは困惑してベルキースを見た。
しかし、ベルキースは薄く牙を見せて唸るだけだ。
〔あぁ〜あ、子供を泣かせちゃって、偏屈な年寄りはこれだから困るよ〕
テント入口の隙間からスルリと入り込み、トリアンが呆れたように言った。
〔出ていけ、トリアン〕
〔あれぇ? アタシに命令を下せるのは、確かご主人様だけだったと思ったけど〕
なおも低く唸るベルキースを無視して、トリアンはヘッセンの足元に近付き、首を伸ばしてラッツィーを見上げた。
〔仕方ないねぇ。今夜は一緒にここにいてやるよ。だから、もう泣くのはおよし〕
トリアンがラッツィーを見上げているので、ヘッセンは手の上のラッツィーを下ろす。
トリアンはベロリとラッツィーの顔を舐めてから首の皮を
「……? トリアンも今夜はここで眠るのか?」
わけが分からずヘッセンがそう聞けば、フン、と鼻を鳴らしてトリアンは目を閉じ、ラッツィーはその首周りにギュウと抱きついて、涙目でコクコクと頷いた。
「……ベルキース、どうなっている?」
白髪の頭を掻いて、ヘッセンが瞬きながらベルキースの方を振り向くと、紫灰色の尻尾をピシリと一度振り下ろし、ベルキースはテントから出ようとしているところだった。
「ベルキース」
「…………二匹がお前と眠るそうだ」
それだけ言い置いて、ベルキースは出て行く。
……こうも苛立つのは、なぜなのだろう。
従順でないトリアン。
初めて歯向かったラッツィー。
生き残ってまだ側にいるムルナ。
ひとつひとつは、取るに足らないことだ。
テントから出ると、まだ焚き火の側に腰を落としているテオドルと目が合い、ベルキースは足を止めた。
傭兵は固い表情であるが、目を逸らさない。
……この傭兵を雇ってからか。
全てを失くし、ヘスティアの最後の願いを叶えると誓った八年前から、ずっとヘッセンと二人で世界は完結していた。
求める
だというのに、ここに来てヘッセンの様子が変わってきている。
ただの主人として従魔を使うと宣言していたのに、明らかにラッツィー達に気持ちを寄せ始めた。
まるで、ヘスティアが亡くなる前の、あの幸せだった頃のように……。
不意にベルキースの背が冷えた。
真っ暗で冷たい闇の中に、ただ一人取り残されているように、わずかに震える。
ベルキースはギチと牙を鳴らし、傭兵から目を逸らして歩いて行った。
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