第20話 夜明け
ヘッセン達が見下ろす先で、トリアンは荒く呼吸をしながら、満足に動くことが出来ずに転がっている。
石塊と共に落ちたせいか、美しいはずの毛並みは泥だらけだったが、苦し気である理由は落下したことだけでなく、従属契約に反したことによるダメージのせいであろうと思われた。
ラッツィーが近付こうとすると、トリアンは牙を剥き、シィィと威嚇の声を上げた。
どこか投げやりな様子のトリアンは、もうラッツィーと目を合わせずに、ベルキースを見上げる。
まるで、早く殺せと言っているようだった。
大型犬の姿に戻って濡れそぼっていても、ベルキースの目にだけは、主人を陥れようとした
黙って見下ろしていたヘッセンが、トリアンに近付いて膝をついた。
左手に持った小粒の魔石を、トリアンの口元へ運ぶのを見て、ムルナを抱えていたテオドルは思わず口を開く。
「許すのか?」
「……今回のことは、トリアンが魔力を読み違えただけの事故です」
「違う! トリアンは意図的にやった。
「事故だ、ベルキース」
ベルキースが憤りを含んだ声を発したが、ヘッセンはキッパリと言い切る。
真の姿を晒した為か、言葉を発することを
しかし、張り詰めた雰囲気に口出しは出来ず、震えるムルナを抱いたまま見守った。
「違う。トリアンは主人に悪意を持って行動した。その証拠がこの
「従属させてすぐの頃は、必ず何かしらの反発があるものだ。今回は
「ヘッセン!」
「
ベルキースはグルルと唸って牙を見せた。
その決定が不満であることは誰が見ても明らかだったが、ベルキースはそれ以上口を開かず、フイと身体を捻ると、そのまま大岩から飛び降り、その向こうへ姿を消した。
「……トリアン、食べなさい」
ベルキースを横目で見送ってから、ヘッセンは魔石粒を差し出した。
差し出された手に、トリアンは苛立ったようにガブリと噛み付く。
しかし、作業用手袋を付けたままの左手は、トリアンの牙を通さなかった。
ヘッセンはそのまま、トリアンの口中に魔石を押し込んだ。
◇ ◇ ◇
ギギと唸って、トリアンは魔石を吐き出そうとした。
しかし、駆けて来たラッツィーが、その口に三本の尻尾を巻きつける。
〔何なんだ! 離せっ!〕
〔ダメだよ! 飲んで! 死んじゃイヤだ!〕
尻尾だけでなく、ラッツィーは両手でもトリアンの頭にしがみついた。
〔離せ! アタシは従魔になんかなりたくなかったんだ! あの時食べなきゃ良かった! あのまま死ねば良かったんだ!〕
〔違う、違う!〕
頭を激しく振るトリアンに必死にしがみつき、ラッツィーは叫ぶ。
〔トリアンは生きたかったんだよ! 寂しかったんだ!〕
〔お前に何が分かるってんだ!〕
〔わかるよ! 何度も触れたから分かる! トリアンはオレと同じだ!〕
胸を温めた愛情を、家族を。
それを失うことの辛さがどんなものか、ラッツィーはよく知っている。
それでも、生きてきた。
死ねば、思い出も残された想いも全て消えてしまうから。
自分の胸に残された温もりを消さずに、いつかの先の為に持っていたくて。
この温もりを、再び誰かと分かち合いたくて、その想いだけで、今も生きている―――。
〔だって、トリアンはオレのことが好きだもんっ!〕
ゴクリ、とトリアンの喉が鳴り、魔石が喉を通った。
トリアンの頭が動かなくなったので、ラッツィーはそろりと目を開ける。
〔……は……はは…。アンタ、そこはさ、〘オレはトリアンが好きだもん〙だろうよ……〕
目の前のトリアンの瞳から、ポロリと涙が溢れた。
雨粒と一緒に、まるで濁りを洗い流すような涙を見て、ラッツィーは両手を緩めた。
途端に、首の皮を噛んで放り投げられた。
驚きにチィーッと鳴いて、それでもクルリと回転して大岩の下に着地し、急いで立ち上がる。
〔トリアン!〕
〔……うるさいねぇ…。飲み込んじまったんだから、もう死ねやしないよ……〕
岩の下からトリアンの姿は見えなかったが、その声から、苦しさは薄れているように思えた。
ラッツィーは安堵して、その場にペタリと両手をついた。
そして、その四肢から感じるものにハッとする。
ピピッと三角の耳を立てると、積み上がった大小様々な石塊をポイポイと放り投げ始めた。
「何だ?」と上から覗き込んだテオドルとヘッセンに向けて、穴掘りの要領であっという間に石塊を掘り進んだラッツィーは、そこで見つけた物を持って駆け出て、両手で掲げて見せる。
その両手には、ヘッセンが落とした虹霓石が淡い虹色の光を放っていたのだった―――。
深夜、声にならない苦痛を感じて、ラッツィーは目を開けた。
ザーザーと振る雨を避けるため、大岩と大岩の間に
雨の為に焚き火はなく、暖と灯りを得る為に、魔術具のランプの覆いを外し、炎属性の魔石が加えられている。
その側には、テオドルがムルナを抱いて毛布に包まっていた。
「………っ…」
再び感じた気配に頭を上げ、大岩の横に立つテントを見る。
この気配は、主人がまたうなされているのだ。
〔お行きよ〕
側でだらりと伸びるトリアンが、目を開けずに言った。
〔トリアン〕
〔あれはさ、
〔え?〕
〔
時には、互いの状態が影響し合う程に。
〔アンタの“おまじない”は、なかなかイイ感じだからさ……〕
ラッツィーの耳がピピッと立ち上がる。
〔うん〕
サッと軽く駆けて行ったのを感じて、トリアンはフンと鼻を鳴らすと、ラッツィーが今までくっついていた腹の辺りを、尻尾で撫でた。
◇ ◇ ◇
ヘスティア…、ヘスティア…。
苦しくも哀しい叫びが耳の奥でこだまし、ヘッセンの胸を締め付ける。
片割れを失くした痛みと悲しみはヘッセンのものだが、それに上掛けるように、ベルキースの哀哭が心を覆い尽くす。
ベルキースが
冷えた胸に、温かなものが細く弱く流れ込むような気がして、は、とヘッセンは息を吐いた。
時折感じるこれはなんだろう。
柔らかく、温かなものが、額を撫でる。
労りと慈しみ……苦しさが少し軽くなる……。
いつもならゆるゆると覚醒するところだったが、今夜は肩と頭の痛みを感じて、ヘッセンはハッと目を開けた。
目の前にラッツィーがいた。
突然ヘッセンが目を開けたからか、驚いてピョンと飛び上がり、ボッと毛羽立った身体を
「ラッツィー、待て」
見上げる目は、叱られるのを恐れる子どものようだ。
ヘッセンは半身を起こして、痛みに顔をしかめた。
その様子に気付き、ラッツィーがチチと鳴いて側に寄る。
床についた左手の甲に、ふわりと尻尾の先が触れ、その感触が、ついさっき己の額を撫でたものだと気付いた。
「…………お前だったのか」
ラッツィーが、不安気につぶらな瞳を揺らす。
ヘッセンは左手でラッツィーの頭を撫でた。
その手の平の下で、ラッツィーは嬉しそうに目を細め、ピピッと耳を震わせる。
ここに在るのは、信頼と無償の情を寄せる、温かくて小さな生命だ……。
ヘッセンはラッツィーを掬い上げると、そっと抱きしめた。
◇ ◇ ◇
あ、
想像もしていなかった事態に、身体を強張らせる。
「何もしない。大丈夫だ……」
主人は小声で言って目を閉じる。
「ありがとう」と更に小さく呟いて、大きな手で身体を支えたまま、親指で後頭を撫でられた。
〔…………主。主、オレの家族……〕
きっと、もう二度と一人の寂しい夜は来ない。
そんな願いにも似た確信と共に、ラッツィーは小さな手を精一杯開き、主人の胸の辺りをぎゅうと握り締めたのだった。
《 第二章 この尻尾の先 終 》
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