第17話 邂逅
周囲を警戒しているテオドルは、言いようのない緊張感から、襟を引っ張り首元を緩めた。
少し前から弱く風が吹き、暗く濁った雲が薄っすらと広がり始めている。
体感温度は変わっていない。
いや、むしろ気味の悪いような
そのせいなのか、どことなく雰囲気が良くない。
何かが起こりそうな気がして、隙なく周囲に視線をやる。
傭兵として生きてきた、ただの勘だ。
そう思って深く息を吐いた時、突然悪寒を感じ、テオドルは
この感覚は、ムルナが狐に襲われた時に感じたものと似ている。
少し前、ラッツィーが小川の方へ駆けて行ったのを見た。
その後に、トリアンが向かい、ムルナが降りてきたのも。
三匹が一緒なら、何かに襲われるようなことはないだろうと思ったが、胸騒ぎがする。
テオドルは、手近にある大岩に手を掛け、軽く駆け上がる。
下よりも視界が開けた途端、トリアンが岩壁へ駆け戻って行くのが見えた。
「トリアンだけか…?」
転がる岩々の向こうに細い小川は見えたが、特に変わった様子はない。
ラッツィーを殊更気にしているように見えるトリアンが、何かあるのに放置しては戻らないだろう。
悪寒は一瞬であったし、杞憂だろうか……。
それでも胸騒ぎが収まらず、ヘッセン達が作業を再開したことを確認しつつ、再び周囲を見回した。
目を
ポツと頭に小さな雨粒が落ちると同時に、サアと風が吹いた。
視界の端に、岩場の色とは明らかに違うものが、チラと動いたのが見えた。
「あれは…!」
テオドルは作業場を気にしながらも、出来る限りの速さでそこへ近付く。
腰高さの岩と岩の間、その隙間に押し込められるようにして、ムルナとラッツィーが寝かされていた。
「ムルナ! ラッツィー!」
駆け寄って抱き上げれば、
さっき見えたのは、この水色の布の端だったのだ。
「ムルナ!」
意識がなかったムルナは、しかしテオドルが抱き上げて揺らすと、ビクリと身体を震わせて目を開けた。
目が合うと、ギュギュ、とわずかに声を漏らし翼をばたつかせたが、負傷しているのか、翼は畳みきれないようだった。
なおも翼を動かして、何かを訴えようとするムルナを、テオドルは宥める。
「ムルナ、落ち着けっ。何があった!?…って、クソ! 聞いても分からねぇな。ラッツィーは大丈夫なのか」
ラッツィーはといえば、目は開けているが、身体を強張らせて、わずかに四肢を動かすのみだ。
揺すってみても、様子は変わらない。
これはヘッセンの所に連れて行くしかないのか、とテオドルが思った時だった。
ムルナがテオドルの手首についた、金の腕輪を
いや、正確に言えば、腕輪に付いた極小の魔石を突付き、ラッツィーを見たのだ。
魔石をラッツィーに与えてくれと言っているのだと気付いて、テオドルは念の為魔石を三つ嵌められる仕様にして良かったと思いながら、その中の一つを外してラッツィーの小さな口に押し込んだ。
◇ ◇ ◇
ラッツィーは、口に押し込まれた魔石から力を得て、麻痺の効果を跳ね除けた。
身体が動くようになると、痺れが残る手足を叱咤して即座に駆け出す。
つんのめって転げ、一回転した時、心配そうなムルナと目が合った。
〔ごめん、ムルナ! 置いていくね〕
そう言って起き上がり、再び駆け出す。
後ろでテオドルの声が聞こえたが、無視して駆ける。
口に押し込まれた魔石のせいで前歯が痛かったが、ムルナをちゃんと助けてくれたら許してやるから!
目の前に、雨粒が落ちる。
雨が降り始めたのだ。
あそこまで掘り出せていれば、主人はもう採掘を止めない。
雨が降り出したなら、すぐにでも採るだろう。
待って。
待ってトリアン!
必死で駆けながら、ラッツィーは心の中で叫ぶ。
オレの大切な
ラッツィーは両親を亡くしてから、ずっと一匹で生きてきた。
同種の仲間は見つからず、日々
一人ぼっちで眠る夜は寂しく、暗闇で小さくなって、尻尾を抱きしめて過ごす。
そんな時は、いつかまた両親のように、自分を抱きしめて撫でてくれる者が現れるだろうかと、まだ知り得ぬ先を夢見て朝を待ったのだった。
そんなある日、ラッツィーは好物の木の実を見つけて、たくさん採った。
尻尾で抱えられる限りの量を抱え、更に口にも咥えて、上機嫌で駆けていた。
いつもは他に木の実を狙う獣や鳥に邪魔されて、こんなにたくさん得られることはない。
今日はひとつも邪魔が入らなくて、幸運だった。
今考えれば、それは近くにベルキースが来ていたからで、察した者達は姿を消していたのだろう。
しかし、生きることに必死であったあの頃のラッツィーは、目の前の食べ物に夢中で気付かなかったのだ。
そして、咥えた木の実で視界が悪く、その先が断崖であったことにも、気付くのが遅れた。
ラッツィーは足を踏み外し、気付いた時には絶壁に近い岩壁を駆け下りていた。
突き出した部分に足を取られると、空中に投げ出され、次の瞬間には何か毛深い物の上に落ちてバウンドし、地面に落ちて転がった。
何かにぶつかって止まり、ふらふらの頭で目を開けると、白い毛の狼みたいな魔獣が顔を近付けた。
ヂヂーーーッッ!
叫びを上げて、逃げようと必死で動いたが、萎縮した四肢はもつれるようで少しも走れない。
目の前の魔獣が、クワと口を開いた。
ーーッ!!
死んだ、と思った瞬間、「ベルキース、脅かすな」という声と共に、首の後ろを掴まれて持ち上げられた。
ぐんと視界が上がった先に、人間の顔が近付いた。
ラッツィーは、自分の身体が人間の手に掴まれていると気付いて、奇跡的に尻尾に残っていた、最後の木の実をポロリと落とした。
生まれて初めて間近に見る人間。
魔獣を狩る、恐ろしい生き物!
ジョーー……
「……ぶっ!」
人間は、堪らずといった様子で噴き出し、ラッツィーを乾いた地面に降ろして手を離した。
笑いが収まらない様子の彼を見て、隣に立つ
気付けば側に鳩のような青い鳥がいて、心配してくれているようにクルと鳴いた。
わずかに震えたまま、放心していたラッツィーに気付き、人間はそっと手を伸ばしてきた。
「何もしない。大丈夫だ」
大きな手が、頭を撫でた。
固い指先が、頭の上で思いの外優しく動かされ、思わず人間の顔を見上げる。
厚い眼鏡の奥で、彼の瞳が、自分に向けて柔らかく細められるのを、あの時ラッツィーは確かに見たのだった。
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