第11話 坊や

今夜は雲のない空で、丸い月から降り注ぐ青白い光は、遮られることなく地表を照らす。

その明かりと持ち前の器用さで、テオドルは歩き難い岩場を、小川に向けて難なく進んだ。


先にここを歩いたはずの偏屈な男は、ベルキースを連れず、転ばずに進めたのだろうかと想像して、思わず笑ってしまった。


密かな笑い声が聞こえてしまったようで、テオドルが小川に出たところで、水辺で屈んでいたヘッセンが振り返った。

「ムルナは?」

「……今は落ち着いてる。水を汲みに来たんだ」

テントの側には火もあるし、ベルキースが周囲を警戒しているので、少し離れても問題はない。



ベルキースの側を通り過ぎる時に、テオドルは「水を汲みに行く間、ムルナ達を頼むな」と声を掛けてみた。

しかし、“自分は物言わぬ犬です”と主張するように、ベルキースは紫灰色の尻尾を一振りしただけで、口を開こうとすらしなかった。

こうなると、あの一言は幻聴だったのかという気すらしたが、ヘッセンが『特殊』だと言って、喋れることを否定はしなかったのだから、喋れることは間違いないのだろう。




テオドルは、ヘッセンの側まで歩いて、持参した水筒に水を汲む。


「さっきの、説明しろよ」

きびすを返して野営地に戻ろうとするヘッセンに、テオドルはしゃがんだまま声を掛けた。

今さっき、テオドルの姿を確認した途端に発した『ムルナは?』という言葉で、テオドルは彼が従魔に対して持っているであろう気持ちを確信した。


やはりヘッセンは、従魔に愛着を持っている。

彼と、ちゃんと話をするべきだと思った。



立ち止まったヘッセンは、肩越しにテオドルを見る。

とは?」

「『魔獣使いでない貴方には、分からない』ってやつだよ」

「……言葉通りですよ」

「ああ、そうだろうな。俺には魔獣使いのことは分からない。だから、説明しろよ」

立ち上がって向き直るテオドルを、ヘッセンは肩越しのまま、眉根を寄せて見ている。


「言ったろう、アンタはいつも説明不足だ。どうせ言っても分からないって、勝手に切り捨てるな。……俺は、ちゃんと聞くから」

「……なぜです? 貴方に関わる魔獣は、ムルナだけなのに」

「阿呆か。隷獣れいじゅうはムルナだけだが、アンタとその従魔は、俺の大事な仲間だろうが」

当然のようにキッパリと言い切られた言葉は、ヘッセンの動揺を誘うのには充分な威力だった。

目を大きく見開いたまま、しばらく口をパクパクと開け閉めしてから、ようやく小さく咳払いして平常を装う。


「貴方という人は、本当に……」

口から漏れた小声には、もう拒絶の雰囲気はなかった。




◇ ◇ ◇




ラッツィーは足音を立てずに、テントから少し離れた岩の影まで駆けた。

そこまで来ると、焚き火の明かりは届かず、月の青白い光だけが辺りを照らしている。


その光さえ避けるようにして、岩にピッタリとくっついて伏せたトリアンは、岩影で艷やかな毛並みを暗色に染めて闇を睨んでいた。


近寄るラッツィーの気配を察し、トリアンは耳をピクリと動かすと顔を上げたが、それ以上は動かなかった。



トリアンはあの時、ヘッセンから魔術でダメージを与えられただけでなく、その後にベルキースから押さえ付けられ、魔力を取り込まれた。

主人が与えた罰で地に貼り付けられても、興奮状態のまま、一向に殺気を収めなかったからだ。


魔獣にとって、魔力は生命に直結するものだ。

トリアンは、強い倦怠感でほとんど動けない状態だった。


〔ラッツィー。どこも怪我はないかい〕

張りのない声で尋ねられて、ラッツィーはコクコクと頷いて、もう少し側に寄った。

〔なんともないよ。ムルナが守ってくれたし……トリアンも来てくれた。ありがとう〕

トリアンは満足そうに目を細めた。

いつもは怯んでしまう吊り上がった目が、今は柔らかく見えた。



〔トリアン、なんでオレのこと、助けに来てくれたの……〕

少し距離を開けたまま、ラッツィーは思い切って聞いた。


ラッツィー達が狐に襲われたことを、誰よりも早く気付いて助けに来たのはトリアンだった。

しかし、主人から罰を受けたということは、許可なく助けに来たのだ。

なぜそこまでして助けに来てくれたのか。

そもそも、なぜトリアンは、自分だけを特別に扱うのか……。



トリアンは、しばらく黙ってラッツィーを見つめていた。

あまりにもじっと見るので、居心地が悪かったが、何となく動いてはいけないような気がして、ラッツィーは小さな両手を揉みながら、その場に立っていた。


〔……あの子を思い出すんだ、アンタを見てるとさ……〕


不意に吐かれた言葉に、ラッツィーは手を止めて瞬く。

〔あの子って?〕

〔坊やさ。アタシの可愛い坊や。アンタみたいに小さくてね、アンタと同じ薄茶の毛だった。光が当たると、黄金色に輝く毛並み……いつもアタシが舐めて、キレイにしてやってねぇ〕

トリアンはいつも通りククと笑ったが、少しも怖くは見えなかった。



〔その坊やは、どうしたの?〕



聞いてはいけなかったのかもしれない。

ラッツィーがそう思ったのは、直後だった。


暗い岩影で、トリアンの短いたてがみがざわりと揺れた。

〔アタシのつがいと一緒に、人間に殺されちまった。……可愛い坊や〕

柔らかく見えた目に、チラチラと怒りの火が燃え始める。


〔アタシ達は、人間に害を与えたことなんてなかった。それなのに、人里近くで生きていたってだけで、アタシ達は“害獣”だと追われて、狩られたんだ。……坊やも。……あんなに小さくて無力だった坊やも!〕

ハアと吐かれた息からも、黒い怒気が漏れ出る。

変わらず地面に伏しているのに、トリアンが触れている石から、空気から、憎々しげな気配がドロドロと滲んでいくようで、ラッツィーは思わず一歩後退った。



〔人間なんて、化け物だ。アタシ達が魔獣ってだけで、狩って、殺して、奪って。憎たらしい、誰も彼も噛み殺してやりたい!……それなのに、アタシは……、アタシは飢えに負けてヘッセンの手に落ちた……〕



ギギギ……と喉の奥から、トリアンが声を絞り出すように鳴く。

ラッツィーの方を向いているようで宙を睨んでいる目からは、まるで血が流れるように、黒く影になって涙が落ちた。


〔人間なんて、化け物だ……!〕


トリアンの憎悪に満ちた声が響く。


〔あ、あるじは違うよ、主は……〕

〔同じさ!〕

トリアンは黒々と流れる涙をそのままに、掠れた声を張る。

〔あの男だって、アタシがアンタを助けたことを許さなかったじゃないかっ! どんな理由があったって、言うことを聞かなきゃ殺されるのさ! アタシも! アンタもっ!〕



ラッツィーは、“あるじはそんな人間じゃない”と言いたかった。

しかし、止めどなく溢れ出る黒い黒い気配を前に、もう少しも口を開くことが出来なかったのだった。



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