第二章 この尻尾の先
第1話 深夜
「………っ…」
声にならない苦痛を感じて、テントの隅で眠っていたラッツィーは、暗闇の中で目を開く。
魔獣のラッツィーには、昼ほどに色彩はなくとも、闇は大した視界の妨げにはならない。
野営のテントの中には、主人であるヘッセンが、毛布にすっかり
人間でいえば長身の身体を、小さく折り畳むようにしている様は、まるで大きな芋虫のようだとラッツィーは思う。
しかし、毛布の端から見えている手は、毛布をキツくキツく握り締めていて、これが芋虫でなく主人であると教える。
ラッツィーは足音もなく近寄った。
主人は目元の辺りまで毛布を引き上げていて、顔はよく見えない。
しかし、深く溝を刻んだ眉間から、その表情がどんなものであるのかは想像が出来た。
テントの中には、他に誰もいない。
護衛役の
そもそも、以前から寒い時期以外はテントで寝ていなかったと話していたから、主人に言われるまでもなく、一緒に寝るつもりはなかったのではないだろうか。
粗雑な
青い鳥のムルナは、知り合った時から外で寝ている。
大体は、葉が生い茂る大木の枝の上だ。
夜中は狐や狸だって鳥を襲う。
戦う
日中のように下生えの上で眠っていれば、どんな獣に襲われるかは分からない。
それに、今はそれだけが理由ではない。
テオドルの
今もきっと、テオドルが眠っている場所に近い木の上だろう。
もしテオドルがテントの中で寝ると言ったら、ムルナも中で、眠るのだろうか。
もしそうなら、ムルナと一緒に眠れるのに、とラッツィーは考える。
ラッツィーは、ムルナがふわふわに羽根を膨らませているところを抱きしめるのが好きなのだ。
一緒に眠れたら良いのに、とは思うが、枝の上で眠るのは不安定で嫌だ。
だから、テントの中に一緒にいて欲しい。
本当は誰かと寄り添って眠りたいから。
そう考えたところで、再び主人の声にならない息が聞こえた。
悪い夢を見ているのだろうか。
こんな風に苦しそうに眠る姿を見るのは、初めてではない。
声を殺して身体を小さくしているのは、悪夢に耐えているからなのかもしれない。
そしてこんな夜は、決まってベルキースの姿がないのだった。
もちろん眠る時も、隣に寝そべって一緒にいる。
起きて周りを警戒している時だって近くにいるというのに、どうしてこんな夜は側にいないのだろう。
しかし、触れる寸前で止める。
ラッツィーの指先には、小さいながらも鋭い爪がついている。
伸ばすことは出来ても、完全に仕舞い込むことは出来ない。
この手で触れたら、痛いかな…。
そう考えて、ラッツィーは小さな手を引っ込めた。
代わりに、3本の尻尾を
そーっと、そーっと……。
ここには怖いものはないよ。
主、大丈夫だよ…。
◇ ◇ ◇
ヘッセンがテオドルと護衛契約の延長をしてから、季節一つ分を過ぎた。
土の季節の六十日が終わり、今は風の季節に入ったところだ。
これからは、年末に向けて日に日に寒さが増していく。
ヘッセンがテオドルを連れて、二度目の採掘に出たのは、フォグマ山の
フォグマ山は、昔から火の精霊の聖地と呼ばれていて、山の周辺は一年中、比較的気温が高い。
現在の位置は、山から北に随分離れていているが、寒さはそれ程感じない。
しかしこの辺りは、五百数十年前に魔界から出現した巨大魔竜によって、大きく地形を変えた場所の一つだ。
地形の起伏は激しく、魔竜によって破壊しつくされた土地の上に、長い年月を掛けて生い茂った木々の為、場所によっては光の当たらないような密林地帯もあった。
今回ヘッセンが目的地としたのは、密林部を避け、切り立った崖に挟まれた谷の底だった。
この場で予定していた採掘を終え、野営地を引き払おうかという日に、ヘッセンは新たな魔獣と従属契約を結ぼうとしていた。
仄かに赤く光を放つ契約魔術陣の上には、一匹の
鼬鼠と言っても、キツネと同じくらいの大きさで、中ランクの魔獣だ。
全身小麦色の艷やかな毛色だが、後頭から首、肩に掛けて、焦げ茶色の短い
その魔獣に、ヘッセンが乾燥肉を注意深く差し出した。
この地にテントを張って、数日後に捕らえられた鼬鼠は、それから三日経った今日まで、水も食事も与えられていなかった。
初めて従属契約を見るテオドルが、興味津々で覗き込む中、鼬鼠は堪らず、という風にヘッセンの手から肉を食べた。
一瞬輝いた魔術陣が消えた後、ヘッセンは立ち上がって口を開く。
「お前の名は、今からトリアンだ」
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