第14話 手段
「このまま手元に置いても、もう役には立たない」
ベルキースはいつも通りの見た目であったが、開く口からは人語が響く。
その声は男性のようだったが、わずかに
「回復させれば、まだ使える」
感情の乗らない声で答えるヘッセンを、ベルキースはじっと見つめる。
「あれは回復できまい。
「時間をかければ…」
「最弱の魔獣に時間をかけて回復させる意味がどこにある。しかもムルナは呪い持ちだ。……従魔は替えがきく。そうだろう、ヘッセン」
心の内を見透かすように見つめ続けるベルキースから、ヘッセンは目を逸らさない。
しかし、続ける言葉はわずかに掠れた。
「今まで……、ムルナほど質の良い魔力を捉えるのに
“虹霓石”という名が出て、初めてベルキースが反応した。
目を細め、考えるようにグルと弱く喉を鳴らす。
「では、ムルナ以上に感知能力の高いものを見つけたら?」
「……その時は、入れ替えればいい」
ヘッセンの答えにひとまず理解を示したのか、ベルキースは立ち上がって、一度強く尻尾を振った。
その毛先で切られた下草の欠片が舞う。
「目的を忘れるな、ヘッセン」
既にテントに戻ろうとしているヘッセンの背を、ベルキースの声が追う。
「忘れてなどいない。優先すべきは、
振り返らないヘッセンの声は普段通りだったが、ベルキースは小さくフスンと鼻から息を吐いた。
テントに戻ったヘッセンは、ムルナの側に胡座をかいて、その濃青の背を撫でているテオドルを見て目を
「何をしているのです?」
「……苦しそうな息が聞こえたからな……。アンタの従魔に勝手なことをして、すまない」
軽く頭を下げながらも、テオドルはその手を止めず、ムルナの背をそっと撫でる。
テントの端で所在なさげにしていたラッツィーが、素早く走って来てヘッセンの足に尻尾を巻き付けた。
「撫でてやれば楽になるとでも? 貴方が親にそうされてきたからといって、魔獣が同じとは限りませんよ」
皮肉たっぷりのヘッセンの言葉に、テオドルはわずかに苦笑いした。
「親に撫でられた記憶なんてないな。いや、親の記憶すらない。……俺は孤児だったんだ。物心ついた時には神殿側の孤児院にいた」
テオドルは細く息を吐いた。
年齢よりはずっと体格の良かったテオドルは、面倒見の良い気質も手伝ってか、成人前には農場の使用人として引き取られた。
その待遇は決して悪いものでなく、真面目に働けば衣食住は最低限保証されていたし、農場主も素朴で真面目な家族で、気遣いのできるテオドルは可愛がってもらえた方だった。
「だけど、どんなに身内のように一緒にいても、決して俺は家族じゃない。……そう変わらない歳の息子が体調を崩した時、農場主夫妻が彼を撫でるのを見て痛感したんだ」
温かなベッドに横になる息子の腹を撫で、微笑んで額に口付ける母親。
柔らかく語りかけ、手を握り、頬を撫でる父親。
見返りなく無条件に与えられる愛情がそこにあった。
求めても決して手に入らない
数年後、農場主が病気で急逝し、残る家族でやりくりができなくなった農場は売りに出された。
既に成人していたテオドルは、農場付近に魔獣討伐で訪れていた傭兵と縁を持ち、傭兵の道へと進む。
「色んな奴と知り合って、いつだってそれなりに仲良くやれているが、ずっと一緒にいようとは思えない。……俺は、深い繋がりを欲している自分を知っている。だが、それを求めて、得られなかったらと思うと、必要以上には踏み込めないんだ。欲しくて堪らないのに、手を出すのは怖い」
一度もこの身に感じたことのない愛情は、どうやって手を伸ばせば良いのか、手を伸ばして良いのかすら分からない。
「何とか上手く生きているつもりで、其の実、臆病な自分の殻を破れないまま生きているのさ……」
「……そんな話を、どうして今私に?」
テントの入口に立ったまま、
「……ムルナは、俺を助けたんだ」
「助けた?」
「ああ、戦う力なんかない、弱い魔獣のこいつが、体を張って俺を助けた……」
鳥が向けられた矢の前に飛び出す。
下手をすれば、即死だったろう。
それでも、主人でもない
その瞬間に、テオドルは感じたのだ。
無償の情というものを。
呪いに侵されたちっぽけな生き物に、怖くても、それでも心のままに生きて良いと、憧れて止まないものに手を伸ばしても良いのだと、教えられた気がした―――。
「……ヘッセン、ムルナをどうにか癒やす方法は、他にないのか? 何とか助けてやってくれ!」
ムルナの背を撫でる手を震わせて、テオドルは声を絞り出した。
貴方に言われなくても…!と、口中で言葉を飲み込んだヘッセンの前で、ムルナがそろりと動いた。
今までされるがままだったムルナは、背を撫でる手の震えを感じ取り、頭を上げて、心配を含んだ瞳をテオドルに向ける。
ヘッセンはそれを呆然と見つめた。
従属契約もなければ、魔術素質のないテオドルには、ムルナの魔力の微弱さも分からないはずなのに……。
「……
「隷属契約? それは?」
呟いたヘッセンを食い入るように見つめて、テオドルが問う。
「従属契約よりも、縛りの強い魔術契約です。受け入れれば、魔獣は主人の生命力に紐付けされます。身体はこの世界に順応し、基礎能力が上がって回復も早くなる」
「それなら、それをムルナに……!」
「但し」
ヘッセンが一呼吸おいた。
「魔獣が一度結んだ隷属契約は、死ぬまで破棄できません。
テオドルは眉根を寄せる。
魔獣を抑え付ける新しいやり方では、隷属契約は課せないということだ。
―――しかしヘッセンなら。
「ムルナは主であるアンタを慕ってる。アンタなら、その隷属契約をムルナと結べるだろう!?」
しかしヘッセンは首を振った。
「隷属契約を結べるのは、一人の人間に対して一匹の魔獣のみ。……私は既に、ベルキースと隷属契約をしているのです」
テントの入口側で、いつからか静かに控えていたベルキースが、ヘッセンの背をじっと見つめていた。
「……それじゃあ、ムルナは……」
呟いたテオドルの左手に、何かがそっと触れる。
下を向けば、濃青の背に添えたままの指に、ムルナが弱く
「ムルナ……」
側に添う
◇ ◇ ◇
早朝。
まだ月が光を失っていない頃、ムルナは抱き上げられ、柔らかな草の上に運ばれた。
薄く目を開ければ、ここ数日、気に入って座っていた、大樹の側の下生えにいた。
「ムルナ。今から話すことをよく聞きなさい。……ここで、お前の従属契約を破棄する」
ムルナを運んできたヘッセンが、下生えに膝をついて言った。
その固い手の平が、ムルナの頭を撫でる。
ヘッセンの話を聞いて、ムルナはわずかに頷いた。
はい、
ああ、ワタシを初めて褒めてくれた時も、こうして頭を撫でてくれましたね。
あの日からずっと、主様の役に立てることがワタシの喜びでした。
……ありがとう、主様。
ムルナは気持ちよさそうに目を閉じた。
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