第7話 違反

ベルキースが一足飛びに距離を詰めた。

牙を剥いたあごが、一瞬でテオドルの眼前に迫る。


テオドルは反射的に長剣を前にかざした。

両手で一文字に持った長剣が、ガキンと音を立ててベルキースの牙を止める。

こころなしか、普段よりも一回り大きくなったように感じる体躯で迫る勢いは、力を緩めれば牙の先が首元に届きそうだ。


獣の熱い呼気が喉から噴き出し、爛々らんらんと光る瞳が濃く血の色を深める。


「ベルキース、よせっ! !」


ヘッセンの制止の声で、ベルキースは開ききっていた目を、わずかに緩めた。

同時にテオドルの両腕に掛かっていた圧が去り、飛び退すさって長剣から離れたベルキースが、ゆっくりと顎を閉じる。


ブフンと大きく鳴らした鼻息は不満気で、紫灰色の尻尾は強く地面を叩いたが、その見た目はとりあえずいつも通りだ。



テオドルは一気に息を吐く。

緊張が緩んでドッと汗が吹き出し、早い鼓動が耳に響いた。




「……分かっていますか? これは契約違反ですよ」

ベルキースの側まで来て、苛立ちを隠そうともせずに言ったヘッセンは、厚い眼鏡を外していた。

色素の薄い水色の瞳が、テオドルを睨みつける。

肘まで袖をまくったシャツは汗で濡れていて、あらわになった前腕は意外に筋肉質で、強くたがねを握ったままの為か筋が浮いていた。

その様子から、寸前までどれ程の熱量で掘削作業をしていたのかがうかがえた。



テオドルは剣を下ろす。

「違反? 確かに邪魔するなと言われていたが、今はムルナが…」

「私の生命に関わらないならば、何があっても、近寄ったり声を掛けたりするなと伝えてあったはず」


護衛契約を結んだ時の規約には、ヘッセンが魔石採掘を行っている間、一定の距離以上には近寄らず、声を掛けたりしてはならない事になっていた。


取り付く島もないヘッセンに、テオドルは強く眉根を寄せた。

「ムルナが相当苦しそうだったから声を掛けたんだ」

しかし、テオドルの言葉にも、ヘッセンは少しも憤りの気配を緩ませない。

「……“生命に関わらないなら”ってのは、アンタだけか、ヘッセン!」

「そうです。従魔は替えがきく」

ヘッセンはあっさり言い放った。


テオドルは、言いようのない腹立たしさでギリと奥歯を鳴らす。


「アンタはっ…うわっ!」

突然、青い翼がテオドルの後頭を叩いた。




◇ ◇ ◇




〔やめて! やめて!〕

ムルナは夢中で翼を広げ、傭兵の頭をバシバシと叩いた。

人間の固い頭に翼を叩きつければ、かえって自分の翼の方が痛みそうなものだが、そんなことは気にせずに何度も翼を動かす。


「ムルナ、やめろ。やめろって!」

傭兵はムルナを払ったりはせずに、両腕で頭を庇うようにして後退あとずさる。

ムルナはそれについて行けず、地面に降りた。

〔ひどい! ワタシはこんなこと望んでなかった!〕


念話の声はテオドルには聞こえない。

それでもムルナは叫んだ。

主様あるじさまの邪魔したくなんかなかったのに!〕



あるじ!〕

ラッツィーがチッと鳴いて、大きな器を運んできた。

ラッツィー自身よりも大きなそれは、テオドルが料理をする時に使う鍋だ。

今は使わないので、少し離れた野営地に毛布等と一緒にまとめておいてあったはずだった。


「……からだったか?」

鍋を一瞥いちべつしたヘッセンが問うので、ラッツィーはコクコクと頷く。

ヘッセンは深く溜め息をついた。


幾分か苛立ちを収めた様子で、テオドルの横を素通りしたヘッセンが近付くと、ムルナは荒い息を何とか抑えて首を下げた。

〔ごめんなさい、主様。ワタシのせいで、お仕事を邪魔してしまった……〕


その声が聞こえるはずもなく、ヘッセンはいつの間にかベルキースがくわえて持ってきた荷袋から、金の指輪魔術の発動体を取り出して右手の中指にはめた。

鍋に指を向け、口中でなにやら唱える。

すると、まるで鍋底から湧くように水が溜まり、みるみる間に鍋の半分まで水位を上げた。


ヘッセンは水の溜まった鍋を、ムルナの前に置く。

出された鍋の水を見て、大きく喉を鳴らしたムルナだったが、あまりの申し訳無さに、その水に飛びつくことが出来ない。

ためらうムルナの様子を見て、ヘッセンは両膝を地面について、鍋を寄せる。

「……あれで足りないとは思わなかった。飲みなさい」

促すように言われて、ムルナはもう我慢できず、鍋にくちばしを突っ込んだ。




「『あれで足りないとは』って、ちゃんと水を与えてたってことか?」

ムルナを見守るヘッセンを見下ろし、傭兵が言う。

ヘッセンは彼を一瞥して、はぁと溜め息をついたが、言葉はない。

まだ苛立ちが収まっていないのか、わざわざ説明する気はないらしい。



〔あったりまえじゃん! バーカ! バーカ!〕

ムルナが必死に水を飲む側で、ラッツィーが悪態をつく。

あるじはちゃんといっぱい入れてくれてたんだから!〕


朝、作業を開始する前に、ヘッセンは鍋の縁までいっぱいに水を入れておいた。

今まであの量で足りていたから、おそらく今回も足りるだろうと思っていたのだ。

しかし今日は、ムルナの渇きがそれ以上だったらしい。

昨夜の魔獣の血がまずかったのかもしれなかった。



テオドルは金髪の頭をガシガシと掻いた。

説明はしてはもらえないが、ヘッセンは自分が想像したほどの無慈悲さで従魔を扱っていなかったらしい。

ムルナとラッツィーの様子を見れば、少なくとも彼等がヘッセンという主人のことを悪く思っていないことは分かる。


いや、むしろ、好意的だ。


「…………悪かった、俺の早とちりだ。作業を台無しにして、申し訳ない」

表情を改めたテオドルが、姿勢を正して頭を下げた。

見上げたヘッセンは、深く長い息を吐いて雰囲気を緩める。

「二度目はありませんよ……」



〔あれ!? 主、コイツのこと許しちゃうの? いつもみたいにクビにするのかと思ったのに〕

人間二人の顔を素早く見比べながら、ラッツィーが言う。

〔まあ、私の牙を止めたのだから、護衛としての腕は良いのだろ〕

ベルキースがフンと鼻を鳴らし、首を巡らせる。



〔……だが、ここの虹霓石こうげいせきは失われた〕

その目線は、先程まで作業をしていた岩壁を向いていた。

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