窓の外の公園

かいばつれい

窓の外の公園

 その老人は、ベッドに横たわり、窓から見える公園の様子を一日中見て過ごしていた。

 ボールを蹴る男の子、隠れんぼをしている女の子、一生懸命に逆上がりを練習している男の子、父とキャッチボールをしている女の子、読書をしている学生服を着た男子、公園の入口の前で難しい顔をしながら電話しているスーツ姿の女性、ベンチで日向ぼっこをする老夫婦。

 公園には、幾多の人生の一場面が点在していた。

 老人の部屋のドアが開き、エプロンを着けた女性が入ってきた。

 「お父さん、また見てたの?」

 「ああ」老人は振り向かずに言った。

 「ここじゃあ、ゆっくり眠れないでしょ。やっぱり私たち夫婦の寝室と交換したほうが」

 「ここでいい。ここがいいんだ」老人は遮るように言った。

 「でも、これだけ騒がしいと落ち着かないんじゃない?」

 「構わんさ。家の中であの公園が見えるのはこの部屋だけだ。私は公園に来る人々を見るのが楽しみなんだよ。余命幾許もない老いぼれの唯一の楽しみを奪わんでくれ」

 「幾許もないって、またそんなこと言って。わかりました。部屋を変えたくなったらいつでも言ってよ」

 「ああ、すまん」外を眺めたまま老人は返答した。

 「ご飯ができたら持ってきます。何かあったら呼び鈴を鳴らしてちょうだい」

 「ああ」

 「ほんと、お父さんって変わってるわね」

 そう言って、娘は部屋から出ていった。

 「変わってる、か・・・」

 変わっているという自覚はないが、寝たきりの身になるまで、人の喧騒が恋しくなるとは微塵も思わなかった。自力で動くことができていた時は、子供の追いかけっこの声や、若者たちの青春の囁きなどやかましく感じていたが、今では生命の息吹の声を聞くことだけが、ベッドの狭い世界を過ごすたったひとつの楽しみとなっている。

 やはり、普通に動ける者には、寝たきりの者の気持ちは分からないだろう。

 娘夫婦は、老人には本当のことを言わなかったが、彼は既に己の命が残り僅かだということを薄々感じていた。

 ならば、最後まで人々の呼吸を聞き続けていようではないか。

 それが自分自身への手向けとなるのだから。

 

 陽が沈み、公園から家へと人々が帰る頃、公園のシンボルになっている大きなシラカシの木の下で、ブレザーの少女が祈るように手を合わせている姿が見えた。

 気になった老人は、呼び鈴で娘を呼び、窓を開けるように言った。

 「何言ってるの。もう日が暮れるのよ。風邪引くじゃない」

 「いいんだ。五分、五分だけでいい。五分経ったら閉めてくれていいから、頼む」

 娘は渋々、父に従い窓を開けた。

 ブレザーの少女の声が聞こえるようになった。

 「妹の手術が無事に成功しますように。貴方が私を救ってくれたように、どうか、妹の命もお救いください」

 少女はシラカシに祈っていた。

 「妹の手術が成功して妹が退院したら、必ず妹を連れてお礼を言いに来ます。ですから、どうか、どうか妹をお救いください」

 シラカシに必死になって祈願する少女に感心した老人は、この少女と妹の行末が非常に気になった。

 「妹思いのいい姉だな」

 老人は、少女が妹を連れて公園に来る日を待つことにした。

 次の日も、その次の日も。そして一週間が過ぎ、一ヶ月が過ぎても一向に姉妹は現れなかった。

 それでも彼は姉妹を待ち続けた。

 

 季節はやがて冬になり、公園で過ごす人はまばらになった。老人は体力がかなり弱っていたが、未だに姉妹を待っていた。

 あの娘の妹はきっと無事だ。彼女の願いはシラカシに届き、手術を成功に導いてくれたはずだ。だから、二人があの公園に来るまでは絶対に死ねない。

 それからさらに何日か過ぎた。

 もう公園を眺めている体力もなく、彼の視界には天井しか映っていなかった。

 「まだだ。我が身よ、二人が来るまで力尽きんでくれ。身体が動かなくとも、耳はまだ機能しておる。この正常に動いてくれる耳さえあれば、二人の声を聞くことができる。頼んだぞ」 

 その日も二人は現れないまま、一日が終わった。

 

 翌朝、よく晴れた朝だった。老人は部屋を照らす陽の光で目覚めた。

 「・・・たね、・・・」

 「きょうは・・・くて、・・・」

 窓の外で声がした。窓が閉まっているため、よく聞き取れない。

 「もしや?」

 老人は力を振り絞り、手をめいっぱい伸ばして窓を全開にした。

 寒気が部屋に入り込み、老人の身体を冷やす。

 しかし、彼は全く気に留めず、声の主を探した。

 冬でも緑の葉を生やしているシラカシの下に、小さい女の子が座った車椅子を押す、あの少女の姿があった。お揃いの緑のマフラーをしていることから、車椅子の女の子は彼女の妹だと老人は確信した。

 公園から二人の賑やかな声が聞こえてくる。

 「お姉ちゃん上着暑い」

 「我慢しなさい。いくら今日は暖かくても、北風が吹いたら一気に凍えちゃうわよ」

 「はーい」と元気に妹は応えた。

 「先生からやっと外出の許可がもらえたからって、はしゃぎすぎちゃ駄目よ。でも、あんたの手術が成功してほんとに良かった。お姉ちゃん、あんたの手術が成功するように、この木に一生懸命お願いしたんだから」

 「このシラカシの木って、お姉ちゃんが生まれてすぐ病気になった時に、お父さんとお母さんが、お姉ちゃんの病気が治るようにお祈りした木なんだよね?」

 「そうよ。シラカシはね、寒さにも負けない強い力を持っているの。だから、お父さんとお母さんは私の病気を治してくれるようにこの木にお願いしたのよ」

 姉は腰を下ろし、妹と同じ目線で木を見上げた。

 「私の病気が治ったのと同じように、きっと、ひばりのことも救ってくれる。そう思ってお姉ちゃん、あんたの手術の前の日にお願いしにいったんだから」

 「お姉ちゃんありがと」照れくさそうに妹は言った。

 「お礼なら、このシラカシの木に言いなさい。今日は二人で木にお礼を言うために、公園に来たんだから」

 「うん」

 「妹を助けてくださり、ありがとうございます。おかげで妹の手術が無事に成功しました」

 「お姉ちゃんのお願いを聞いてくださり、ありがとうございました。私の病気もすっかり治りました。もうすぐ退院できるそうです。本当にありがとうございました」

 二人は木に向かって手を合わせた。

 「良かったな・・・」

 これでいい。少女の願いが成就したのを見届けることができて良かった。これでようやく・・・・・・。

 

 老人の娘が朝食を持って部屋を訪れた時、老人は窓を開けたまま、音ひとつ立てずに眠っていた。

 「お父さん、どうやって開けたのよ。身体が冷えちゃうじゃない。まったくもう」

 窓を閉め、娘は呆れた口調で言った。

 「それにしても今日はよく晴れてるわね。公園に人がたくさん来てるわ。お父さん、そろそろ起きてちょうだい。朝ごはんよ。ねぇ、お父さん。お父さんってば」

 珍しく暖かい日のためか、公園には久々に人々が集まっていた。

 シラカシは今日も公園で過ごす人々を静かに見守っている。

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