第5話 新進気鋭の画家

 準之助が橋本教授に勝負を挑まれることになる一年くらい前から、

「新進気鋭の画家」

 として注目を浴び始めた男がいた。

 その名を、羽村光徳というが、どうやら本名ではないようだ。

 この男、訳の分からない絵を描いている。自らのことを、

「現代のピカソ」

 などと嘯いているが、要は絵の才能に関しては疑問符であった。

 ただ、なぜか売れる。彼の作品を購入する人は後を絶えない。一つには彼のそのアマイマスクが、

「イケメン画家」

 としてまず注目を浴びた。

 彼は芸術雑誌に載るよりも、芸能雑誌やファッション雑誌に載る方が多いと言われるほど、そのポーズや表情も板についていたのだ。

 そんな彼に対して、世間の反応は賛否両論であった。

 誰が言い始めたのか、

「新進気鋭の画家」

 などと評するやつがいたもので、芸術家仲間からは総スカンを食らい、相手にされなくなってしまった。

 これは彼が悪いわけではないのだろうが、そんなことでめげる玉ではなかったようだ。

「私には、イケメンという、他の人にはないものを持っている。つまりは、天は二物を与えてくれたというわけだ」

 などと嘯いたものだから、さらに怒りは爆発する。

「やつは、わざとまわりの興奮を掻き立てているんじゃないか?」

 と言われるほどのあざとさであった。

 ただ、この異端児的な性格であっても、イケメンは得だということだろうか。全体的に見ると、彼は十分に徳をしている。

 絵画も売れているし、週刊誌などの露出も爆発的に増えた。

「画家としてやっていかなくても、芸能界に入ればいいんだ」

 と嘯いたこともあり、それが敵と味方の両方を刺激し、結果、敵味方に移動はないのだから、騒がせて売れた分だけ、彼の一人勝ちで言えるのではないか。うまく世間が操られているように思えて仕方がなかった。

 そのうちに、

「新進気鋭」

 という言葉が、安っぽいものになってしまわないか、そっちの方が芸術家には問題だった。

 もう、あんな男を相手にする芸術家は誰もいない。芸能界だろうが、どこにでもいけばいいという程度のものだった。

 なぜ、そうなってしまったのかというと、彼がどんなに嘯いたことをいおうとも、彼の絵はなぜか売れ続けた。そのせいで、彼の悪口をいうと、それは、

「売れないことでのやっかみ」

 としか思われなくなった。

 他の人ならともかく、あの男に対しての時だけは、そんなことを言われたくないと思うのは芸術家としてのプライドである。そうなると誰もやつの悪口は言わないようになるのだった。

 それでもやつの話題は途絶えることはない。しばらくして、今度は結婚の話題が飛び込んできた。相手はモデルということだが、そのモデルに問題があった。

「結婚相手の方ですが。ヌードモデルの方ですおね?」

 と言われて、普通なら二人とも不快な顔をしてインタビューした相手に怒りの視線をぶつけるのだろうが、二人はニッコリと笑って、

「そうですよ。それが何か?」

 と、相手を怒らせてハプニングを狙っていた芸能レポーターの予想を十分に裏切る回答をしたのだ。

――なんてやつだ――

 と、その場にいた人、そして、中継を見ていた人、そのほとんどがそう思ったに違いない。

 完全にその目は上から目線での笑顔だった。したり顔とも少し違うその表情は、きっと見ている人間、百人いたら、百人すべてに不快感を与えたに違いない。しかも、不快感だけではなく、怒りまで伴わせるので最悪だ。あたかも、怒らせるべくしての演出に思えてならないのであった。

 週刊誌などでは、彼のことを、

「時代の寵児」

 などと持ち上げているやつもいるが、一度その週刊誌の不買運動まで起こったほどの注目度だった。

「何が時代の寵児だ。ふざけるな」

 というのが大方の意見であったが、実はそれもやつの注目を集めるための作戦だった。

 次第に時代は、ユーチューバーなる人物が現れるようになる、中には真面目な情報発信者もいるのだろうが、時代が進むにつれ、

「迷惑ユーチューバー」

 であったり、

「お騒がせユーチューバー」

 などという連中が増えてきて、中には犯罪者であったり、犯罪ギリギリのところで収まっている連中が増えてきた時代だった。

 つまり、世間で叩かれることが、その人の負ではなくなってきたのだ。

 彼らは自分が配信したものを、どれだけの人が見たかで収入が決まる。つまり、アンチであろうが見てくれれば。それがそのままお金になるのだ。よくても悪くても、注目さえされれば、生活ができる。そんな理不尽な世の中になってしまったのだ。

 中には人が取材された人間がどうなろうが関係ないと言わんばかりの迷惑なやつもいて。叩かれることで収入を得ることを正義と考える勘違い野郎まで出てくると、もう収拾がつかなくなる。

 この羽村という男もその走りだったのだ。

 やつは、ユーチューバーというものにはなっていなかったが、明らかに注目を浴びるにはいいことであろうが悪いことであろうが関係ないというスタンスだ。ひょっとすると、今のユーチューバー問題は、間接的にこの男が主犯になるのかも知れないと考えている人も多いだろう。

 だが、昨今では、本当に迷惑ユーチューバーが注目を集めることが多くなり。羽村がいくら表に出ようとしても、後から後から出てくるそんな迷惑ユーチューバーのために自分が目立たなくなってしまった。

「これじゃあ、本末転倒ではないか」

 と思った彼は、自分が先駆者であることを思い出し、先駆者に対して、あるいは跡目争いに対して介入することで自分の注目を浴びようと考えるようになった。

 これが、いわゆる、今回の準之助と橋本教授の間に持ち上がった、

「逆さ絵選手権」

 とでも言おうか、その諍いにちょっかいを掛けることで、自分の注目度回復を狙おうと考えたのだ。

 さすがに迷惑ユーチューバーほどのインパクトはないが、ある筋での注目度はかなりのものである、そこから火がつく可能性と、自分の境遇の似ている感覚がある二人の戦いに打って出ることで、自分の今まで分からなかった実力の一端が分かるのではないかという思いもあってのことだった。

 運営員会への買収は簡単だった。それなりのお金での買収なので、彼らのように、絵画や芸術などウンザリと思っている連中であれば、少々の金でも動くことだろう。

 あとはマスコミだったが、マスコミはそうも簡単にいかない。そのため、以前から自分びいきの人間を一人作っておき、その男に金を渡して、何度か自分の悪の片棒を担がせて、逃げられなくしてあるので、そちらはうまくやるだろう。

「もう、お前は俺と共犯なんだ。一蓮托生なんだぜ」

 と囁くだけのことだった。

 何か大きなことをやるだけの下準備はいつもしていた。そうでなければ、こんなクーデター的なことを起こすなどできるはずもないからだ。

 クーデターとまでは大げさであるが、やろうとしていることは彼の中での、

「正義」

 であった。

 正義をまっとうするための危険な行動は、クーデターという言葉が一番ふさわしい。ただ、クーデターは成功してこそ正義である。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」

 まさにその通りであろう。

「俺は官軍になるんだ」

 と、羽村は思っていた。

 出来レースではないかと思っていた選手権に、思わぬ闖入者が入ってきたことで、いささか橋本教授も戸惑っていたが、それと同時にけしかけたはずだったのに、その自分が一番最初に冷めてしまった。

――俺は一体何をしようとしていたんだ?

 と言わんばかりに独り言ちると、後は、

――あの二人に任せておいて、高みの見物とでもいくか――

 と思っていた。

 どうせ、自分のかわりに出てきたやつは、緒戦目立ちたがりの画家としては大したこともないやつ。そもそも、画家がダメなら、他にいくらでも道はあるとでも思っていたやつではないか、それを思うと、さっさと引き上げた方が身のためだと思ったのだ。

 主役が変わって、却って盛り上がっているようだ。挑戦を受けた方も、やめてもよかったのだろうが、ここでやめると世間が何をいうか分からないし、負けることもないと思うので、せっかくだから、胸を貸してやろうということになった。

 ただ、気になったのは、相手がマスコミに顔の利くやつで、ひょっとすると政財界にまで幅を利かせていると、こちらがヤバいかも知れない。

 だが、このままこちらが負けると世間が黙っていないだろう。それこそネットの威力で、のし上がってきた人間が、ネットで叩かれるということになりかねない。

 いや、叩かれることも計算済みなのだろうから、どっちに転んでもおいしいことに変わりはない、そんな根性のやつに負けるはずもないだろう。

 途中で相手が変わっただけで、あとは、何も変わっていない。主題は逆さ絵を描くということも変わっていない。

 その日になって、いつものように目を覚ました準之助は、半分、茶番劇だと思いながらも、

「まあ、ショーのようなものだ」

 と思って気楽に構えていた。

 実際に会場には、まるで討論会のような舞台が作られていたのだが、客席は無観客だった。それはネットでの配信だけで、そのネットも有料ということなので、どれだけの人間が見ているか分かったものではない。もっとも見ている人間は、ほとんどが羽村のファンであることはいうまでもない。

 それだけに、こっちは気楽なものだ、観客がいないことで緊張するなどという精神は持ち合わせていない。そもそも最初から茶番だと思っているので、問題なかった。

「時間としては、最初決まっていたのは、橋本先生が相手の時でしたが、今回はどうしましょう?」

 と司会の人が二人に訊ねた。

「そうですね。五時間もあれば、デッサンであれば、できると思います」

 と、羽村は言った。

「デッサンでいいのなら、私もそれでいいと思います」

 ということで、五時間勝負になった。

「こちらは、それで構いませんよ」

 というと、

「では、ということで、今から五時間、ご自由に作品を製作してください。拘束はありませんので、どこでされても構いません」

 と言われ、準之助はそそくさと会場を後にし、表に向かった。コンサートホールのようなところだったので、まわりが公園のようになっているので、被写体はいくらでもあった。

 ゆっくり物色していると、羽村も表に出てきた。羽村もさすがに製作に入ると、まわりに人を寄せ付けないようで、

――一応、芸術家としての心構えはあるんだな。それでなくては、あまりにも歯ごたえがなくて面白くない――

 と感じた。

 意識しないように、いつもの感覚で公園の端のベンチに腰を下ろす炉、いつものように、まず目を瞑って、目の前の光景を一度打ち消した。そして再度目を開けて、今度はその光景をしっかりと焼き付ける感覚で見たのだ。そしてまた目を瞑って、今度は瞼の裏に先ほど見た景色を植え付ける。今度は結構長く目を瞑っていたのだ。一分以上は目を瞑っていただろうか。いつものように微動だにしない様子から、目を開けると、そこには、逆さ絵に見える要素がすでに出来上がっていた。

――いつものように、見えている光景をそのままスケッチブックに描き出せば、それでいいんだ――

 と感じていた。

 羽村はそんな準之助の様子を黙って見ていたようだ。

 準之助の見ている世界には、遠近感も空と地平のバランスも、まったくなかった。ただ、見えているのは、立体感ではなく、すでに二次元の世界で、絵画になっている情景だったのだ。

 その情景を、少しずつ写生していく。どこから写生すればいいのか、それはその時々で違っていて、本当は同じ場所から描くべきなのだろう。それはその人の個性であるから。しかし、逆さ絵に関しては、師匠もそうであったが、描き始める位置は一定していないのが定説だと思っていた。だからこその逆さ絵であり、どんな手法を用いようとも、そこは変わらないと思っていた。

 実際に、準之助は勝野先生から、逆さ絵の講習を受けたわけではない。

「逆さ絵というものは、その人の個性で描くものなので、教えることはできないが、結局は捉えどころは一緒なのだということを意識してほしい」

 と言っていた。

 最初は何を言っているのか分からなかったが、後から考えると分かることは多いもので、実際に、今弟子を持つようになると、その時の先生の気持ちも、弟子を持ちたくないという気持ちも分かるような気がしているのだ。

 普通の絵画を描く時は、最初に落とした筆から、なかなか進まないことが多かったが、逆さ絵を描く時は、最初に筆を落とすと、そこからある程度までに一気に描かなければならない。それは筆を落とした瞬間にハッキリと見える光景を忘れないうちに描かなければいけないという発想であった。

 実際に描き始めると、まわりが気にならないのだが、その時は、近くに人の気配を感じた。

――何だ?

 と思ってそばを見ると、自分よりも少し前で、羽村が描いているのが見えた。

 彼は自分とはまったく別の描き方をしている。

――えっ? あんなやり方で描くことなんかできるのか?

 と思うような不思議な書き方だったが、そもそも、逆さ絵というのは、そういうものであり、描き方に定義などない。

 その人がオリジナルで考えたやり方が正となるのだった。

 彼がどのようなやり方をしているかというと、スマホを使って、まずその被写体を撮影していた。

 それは、自撮り棒と呼ばれるものを使って撮影するものなので、自然と逆さになるのだ。

 彼は、そのスマホに映った絵と、実際に目の前に見えているものの両方を見比べながら描いていたのだ。

――なるほど、理屈からすれば、この描き方にも一理ある。いや、一番理に適っている描き方なのかも知れない――

 と感じたほどだった。

 正直、感銘したと言ってもいいかも知れない。彼の描き方は、いくつもある自由な発想を超越している気がした。

 今まで彼のことを、甘く見ていて、芸術家として、舐められているとまで思っていた頭を変えなければいけないと思った。

 彼が描いているやり方は、最初に筆を落とす場所は、彼の場合も結構早く決まったようだ。だが、そこからがなかなか進まない。ここは自分が考えてきた、逆さ絵の描き方とは明らかに違っていたのだ。

 あくまでも、一つを掻く場合でも、実際の光景と、スマホの画像を見比べている。見えているのは、きっと一点に集中して見ているのだろう。

 そう思い、また自分のスケッチブックに目を戻すと、そこには、だいぶ出来上がっている逆さ絵が描かれていた。

 そして、再度目を瞑って、逆さ絵を描くための情景を写し出すことを行う。描き終わるまでは何度でも再生可能なやり方だった。

 瞼の裏に浮き上がる二次元の光景は、最初に比べて、少し小さく、遠いところから見ている感覚に陥る。全体を見渡すにはいいのだが、細部に関しては、最初ほど鮮明に見ることはできない。それはそれでいいのだが、見ていると、疲れが倍増してくることで、その時々で、何かの感覚は一つずつマヒしてくるような気がした。絵を描くのに必要なことがマヒしてくるので、あまり何度も集中しなおすことはしない方がいいというのは、準之助の考えだった。

 だから、いつもであれば、一気に描いてしまう。今回のように短い時間であっても、別ウニ気にならないのだ。

 だが、彼のあの描き方だと、決まっているこの時間でどうやって描き上げるというのか。やれるものならやってみろと言いたいくらいであった。

 出来上がった絵を見たことがあったが、その素晴らしさはなかなかのものだった。

 だが、自分たちの描いてきた逆さ絵とは基本的に違うものなので、自分では比較にならない。ある意味、専門家にも難しい判断かも知れないが、彼らとて、今までの逆さ絵というものを見てきたはずである。したがって、選ぶのは伝統的な自分たちだと考えてしかるべきであろう。

 そう思った準之助は、負ける気がしなかったのである。

 自分のことに集中して描いていると、いつもよりも早く作品が完成できるような気がした。その分、精神的に余裕がでてきた。精神的な余裕というのがどれほど大切なのかということは、前々から分かっていることだった。

「余裕があるからこそ、筆が進むのだし、早く描けているということは、迷いもなく、集中できているということなので、そこに負の要素が入り込むはずはない。このまま集中さえできていれば、おのずと最高に近い作品ができると自負していた。

 自画自賛したくなるほどの作品が目の前のスケッチブックに描かれていく。実は、一度集中を切ったことでマヒしてしまった感覚というのは、

「時間の感覚」

 だったのだ。

 本来であれば、作家にとって、時間の感覚がマヒするということはあまりいいことではない。しかし、準之助に限っては違っていた。時間の感覚がマヒするということは、それだけ早く時間が経過するということであり、普通に描いていると、完成が早いと思うのも無理もないことだ。

 最初はその感覚がないので、それが余裕に繋がってくる。一度身についた感覚は、作品が完成するまで消えることはない。だから、時間の感覚がマヒしたということを分かっても、一度走り出した感覚を狂わすものではなかった。

 当然絵の完成に影響を与えることはない。このまま最後までこの緊張を保ち続ければいいことであった。

 八割がたできたところで時計を見ると、まだ半分の時間しかかかっていなかった。さすがに八割できていると、ほぼ完成と言ってもいいだろう。

 逆さ絵の世界では、八割できていると考えると、残りは本当に二割だった。芸術を奏でていると、

「百里の道は九十九里を半ばとす」

 という言葉のように、完成部分と未完成部分を足して百パーセントにならないということはなかった。

 他の絵を描いている時は、今の百里のたとえになぞらえて考えることもできるのだが、逆さ絵というのは、どこまでもリアルであり、感覚に逆らうことはなかったのだ。

 だが、これもあくまでも自己の考えであり、彼の中では、

――だから、逆さ絵というのは、これほど自由な画風というのはないんだ――

 と感じたものだった。

 リアルであり、計算が立つということは、余計なことを考える必要などないということであり、それだけ完成度も高いと言えるだろう。

 八割の時点で、また羽村の作品を見てみると、そこには描かれているはずの半分も描かれていなかった。それでも、最初の出だしを思えばよく描けたと思うほどで、彼の様子を見ると、集中しているように見えた。

 それでも筆の方はしっかりと進んでいて、相変わらず、正面の光景と、スマホの映像を見比べている。その二つに何があるというのか、

――違いがあるのを探しているのか、それとも同じ場所だけを切り抜いて描いているのか、後ろから見ているだけではよく分からないな――

 と思っていた。

 だがそれは当たり前のことであり、準之助が師匠の描き方を後ろから見ていて感じるようになったのは、弟子入りしてからかなり経ってのことだった。

 あれからだいぶ時間も経っていて、自分が何かの悟りを開き、自分の作風を開花させたという自負を持っているだけに、今であれば、その日のうちにでも、相手の技法が分かるのではないかと思えるほどになっていると思っていた。

 絵がどんどんできあがっていくのが分かると、自分もいくら残り時間があるとはいえ、完成しなければゼロと同じだということが分かっているだけに、また集中しなおした。

 この時に何がマヒしていくのか、一抹の不安は残ったが、怖いという感覚はなかった。――私は、すでに一つの分野において、道を究めた人間なのだから――

 という思いが強いからであった。

 次にマヒした感覚は、バランス感覚だった。これは例えば空と陸の感覚がマヒしたというべきであるが、八割がた完成していると、もう、それは関係ない。

 そもそも、逆さ絵にとって一番難しいところは、水平線や地平線の感覚であった。上下対象の絵を描こうとするのが難しいのは、そのバランス感覚があるからで、実際に上下の逆さ絵というのは難しかった。

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