第5話 鬼門の滝
「あなたが今一緒にいる由香さんという女性はどういう女性なの? いまいち私にはよく分からないんだけど」
と麗子に聞かれた。
「彼女は、僕にとっての『パンドラの匣』だったような気がするだ。決して開けてはいけない箱を開けてしまったことで、お互いに引き合ってしまった。でも、どこかで切らなければいけない仲なのだということは分かっているんだ」
と山内がいうと、
「二人の関係は『パンドラの匣』なの? 開けてはいけない関係なの? 触ってはいけないものに触ったというわけではなく?」
と言われた。
「それはどう違うんだい?」
「開けてはいけないいうものは、誰かに言われたことで、抗いたいという気持ちが強くあったことで逆らった結果に生じた災いであって、触れてはいけないものに触れてしまったのは、単に自分が無知だったことで生じた災いということを象徴して言っている言葉ではないかと思うの。だから、あなたはその由香さんとの出会いは、自分の意志によって道字かれたものであって、偶然ではないと自覚していることではないかと思うの。そう思っているということは、あなたが意識しているのか無意識なのか分からないけど、あなたにとって由香さんは、愛すべき相手だということになるのね。きっとあなたはどんなに奴隷扱いされようとも、彼女を愛し続けようという意思があると私にも思えるの」
と麗子は言ったが、
「僕にはそこまでの意志はないと思っているんだけどな。もし、そこまで考えているのだとすれば、自分の中に覚悟のようなものが潜んでいると思うんだけど、そんなものはどこにも感じられない。もし、覚悟があるとすれば、別の意味の覚悟なんだけどな……」
と、最後は意味深な言い方になった山内だったが、それを聞いた麗子は自分が訝しい気持ちになっていることに気が付いた。
「何をそんなに覚悟にこだわるというの? そのくせ、確固とした覚悟なんかないくせに……」
と、麗子は諫めるようにそう言った。
少し険悪なムードになりかかっていることを、二人は意識していた。最初は相手が何をいうのか分かっていて、それを当然のごとくに感じていたはずなのに、今では相手のいうことが分かっていることが訝しく。苛立ちに繋がっていることに、ムカムカした思いに駆れれるのだった。
「僕が、奴隷として村山に捨てられた時、目の前にいたのが由香だったのかな? って最近は思うんだ。どうして一緒にいるかと訊ねられると、最初のきっかけは忘れてしまったというのか、思い出したくないというのか、そのどちらかなんだろうけど、意外と奴隷という意識さえ持っていれば、何とかなるということなのかも知れないって。思ったほどさ」
と山内は言ったが、それを見て麗子は嫌な気分になっていた。
「あなたが、自分を奴隷として卑下するのは分からなくもない。たぶん、何かのきっかけがあってあなたは奴隷というものを意識して、その地位にいるんだろうけど、今のあなたは、ただ楽をしたいという意識から、奴隷というものに成り下がっているような気がするのよ。かつてあなたが持っていた奴隷というオーラはそんなものではなかった。じゃあ、どんなものだったのかって言われると私にも説明がつかないんだけど、私にとってのあなたという存在だったとしか今の私には言えないの。これも一種の正当性を感じたいがための、いいわけなのかしらね」
と麗子は言った。
「言い訳というのは、少し違う気がするわ。何が自分にとって大切なのか、考えてみる機会があなたを奴隷として生かせる状況だと思うの。それは誰にでもある感情であり、それがあなたにとってはたまたま奴隷だったというだけなんじゃないかって思うのは、違うことなのかしら?」
と麗子は続けた。
自分で言ったことをすぐに打ち消した形だが、それはひょっとすると、自分に何かを言い聞かせるためなのかも知れない。
「僕は今でこそ、奴隷って平気で言えるようになったけど、ついこの間までは、奴隷という言葉が嫌いだったのよ。まさか、自分の中の本質が奴隷だったなんて。思いたくもないからね」
と、山内は言った。
「でも、奴隷って気が楽なんじゃないの? 基本的には相手が面倒見てくれるから」
と麗子は、相手に配慮しないかのように言った。
「そんなことはないさ。最近では、奴隷と主というものを履き違えている輩がいるから厄介なんですよ。それも、主だけが履き違えているだけではなく、奴隷の方迄履き違えているから、二人揃って間違って解釈しているから、問題になる。変なプレイに興じたことで、殺人事件になったりなどというのも増えているらしいんだ」
と山内がいうと、
「まあ、怖い」
と、首を竦めるようにして麗子は言った。
「奴隷というのは、人権もなくて、家畜並みだというのは、歴史上の奴隷のことで、今の風俗的な意味での奴隷というのは、ちゃんと人権を有しているし、自由でもある。だから、逆に、自分の身は自分で守らなければいけない。そのあたりを分かっていないので、主に逆らうだけではなく、世間の人間にも自分の境遇を八つ当たりしてしまう。まわりの人には関係ないのにね。そのために怒りを買うんだよ。で、そのまま放っておけばいいのに、怒りを買ったことに、快感を覚える。それだけマゾヒスとなところがあるということなんだろうけど、怒りを買えば煽りたくなる。それが奴隷としての自分の存在意義だと思いたいんですよ。つまり、人の怒りが自分に向けられるのは、すべて自分の奴隷としての性質のせいだと思うことで、奴隷を正当化させたいという歪んだ気持ちから来ているのかも知れないな」
と、言って、お湯で顔を洗った。
「それがあなたの、奴隷であるがゆえんの理屈なの?」
と麗子に訊かれて、
「ハッキリとは分からない。でも、今は自分がこういう生き方しかできないんだって思うと、それでもいいような気がするんだ」
と言って、山内は、真っ暗な空を見上げた。
「何か、人生の終わりを見てきたって印象ね。何かよく分からないんだけど、要するに奴隷という言葉が悪いんじゃないのかしら? 印象が悪すぎる気がするんだけど、あなたはどうなの?」
と、少し麗子は苛立っているように思えた。
「僕は、意外とこの奴隷という言葉、嫌いじゃないんだ。むしろ、奴隷というのを昔の言葉として、そっちの意味で発想される方が、私には心外な気がするんだけど、これってわがままなんだろうか?」
「わがままというよりも、傲慢と言って方がいいかも知れないわね。過去から脈々と受け継がれてきた言葉を否定して、その言葉を自分中心に解釈しようとするのは、傲慢以外の何者でもないわ」
と麗子に言われた。
麗子は完全に苛立っているようだ。山内が発する言葉の裏に、何が潜んでいるのか、分かりかねているところがある。明らかに山内は相手をイライラさせようという意図を含んで話をしている。その真意がどこにあるのか、麗子にはよく分かっていなかった。
――これ以上話をしていると、のぼせてしまう――
と麗子は感じた。
ここに時計がないので、どれだけの時間が経ったのか分からないが、よくこれだけの会話をするのに、のぼせずにできたものだと麗子は思っていた。
実際に感じているよりも時間は経っているはずで、山内の方も、耳の先から首筋に掛けて、真っ赤になっているのが見て取れた。
「そろそろ上がろうか」
と、声を掛けたのは山内の方だった。
彼は麗子を見ていて、気を遣ったのだ。
「奴隷は気を遣うだけの精神を持っていない」
と思っていた麗子には意外だった。
――ということは、山内さんは奴隷ではないということなのか、それとも彼が奴隷だということであれば、私が考えている奴隷とは種類の違うものなのか、とにかく奴隷に種類があるのだとすれば、どんなものなのか、研究してみたい――
と感じた麗子だった。
彼女が自分の小説に今限界を感じている。そこで、奴隷というテーマで考えてみたいと思っている。今のままの山内を描けば、リアルになりすぎて。発行に引っかかってしまう。だから、彼と話をして、彼の中を小刻みに切り刻むことで、小出しに小説を描いていければいいと思ったのだ。
「ストーリー性を重視した作品を書きたい」
それが、麗子の考えだった。
麗子がこの時、山内に近づいた一番の理由は、
「小説のネタに困っていた」
というものだった。
ふとしたところで見かけた山内(これが面白いところであったが)をネタに小説を書けると踏んだのだが、その理由はその時の彼の雰囲気が、昔と変わらず、奴隷のイメージを醸し出していたからだった。
それで探っているうちに、山内に彼女がいるようだった。数日見ていると、どうやら普通の男女の関係とは少し違っているようだ。
――山内さんは、この女性の奴隷になっているようだわ――
ということが分かり、さらに探ってみると、温泉宿に数泊宿泊するというではないか。
「これはチャンスだ」
と思い、自分も宿泊することにする。
幸い、この宿は秘境と呼ばれるところであり、芸術家が隠れ家のように使用し、まるで自分の書斎のごとく振る舞うことのできるところなので、自分も作家の端くれ、女性一人の宿泊でも、なんら怪しまれることはない。
昔であれば、女性一人の宿泊は警戒されたものだ。
「自殺志願者ではないか?」
という疑いを掛けられるからで、この場所には、ちょうど宿の前に大きな滝もあるので、自殺を図るには、ちょうどいい場所なのかも知れない。
それを思うと、山内を観察しながら、ここで執筆にも打ち込める。何とも一石二鳥な場所であろうか。しかも、英気を養うという意味では一石三鳥。これ以上のいい場所はないと言えるだろう。
さっそく宿を予約し、二人の様子を見ていると、麗子は由香を見ていて、
「どこかで見たことがある」
と思ったのだが、宿で佐山霊山と話をしているのを訊いた時、彼女が以前アシスタントのアルバイトのようなことをしていたのを思い出した。
別に話をしたこともないし、相手も自分の担当以外の人に目をくれる余裕もなかっただろうから、麗子のことを知っているはずもない。そういう意味では気が楽だった。
よしんば覚えていたとしても、自分も佐山先生のように、
「温泉地で静養しながら執筆に励んでいるんですよ」
と言えばいいだけだった。
佐山霊山のようにオカルトを書いている人の気持ちはよく分からないが、佐山霊山の方でも、麗子のような恋愛小説を書いている人の気持ちは分からないだろう。
逆に同じジャンルの作品を書いている人の気持ちはもっと分からないかも知れないと思うくらいで、作家というものが、自尊心というプライドと、創作物を作っているという自負とに固められた人種であることから、同じ職業であれば、より近い人間を警戒してしまうであろう。
そういう意味では、麗子は佐山霊山と顔を合わせたくなかった。顔を合わせたからと言って話をするわけではないが、お互いに気まずいところを、山内や、ましてや同行者である由香には見られたくなかった。
「オカルト小説というのは、、別にホラーのように、妖怪や幽霊が出てくるものばかりではなく、超常現象のようなものですね。普通に生活している人が、ふとしたことで奇妙な世界を覗いてしまうというような話なんですよ」
と佐山霊山は言っていた。
恋愛小説を書いている麗子の方は、そういう奇抜な発想はいらないのだ。普通の生活の中にある。さらに細かい人間の中にある愛憎絵図を描くことから始まって。愛欲系の小説を書いているうちに、純愛を描きたくなってきたというのが本音だった。
前述のように、恋愛小説というと、
「決まったパターンに奇抜さのないストーリー性に中で、人の気持ちを動かすストーリーを描くという、ある意味、題材は何でもいいからと言われて、実際にはそういう何でもいいというのが、本当は一番難しいというような作風が、純愛ものに課せられた、縛りのようなものであり、限界なのかも知れない」
と麗子は感じていたのだ。
恋愛小説を書いていると、自分の経験をどうしても思い出してしまう。
麗子には、小説になるようなロマンスがあったわけではない。ほとんどが悲劇で終わってしまった。中には、
「始まってもいないのに、終わりだけがあった」
という、奇妙なものもあった。
それでも、小説にできるようなエピソードであれば面白いのだろうが、プロットにもならない話に、自己嫌悪を感じた麗子だった。
のぼせるわけにもいかず、あまり遅いのも、由香に心配かけることになると言って、その日はそのまま湯から出た。なんと、そのことに先に気付いたのは、麗子の方だったのだ。
気が付けば、もう時間にして九時前だった。部屋に帰ると、由香は眠っていた。
テーブルの上をみると、二人分のお茶が用意されていて。すでに冷えていた。これが何を意味するものなのか、山内には分からない。
いや、分かってはいたが、それは奴隷としての山内なら分かることであって、今の山内は奴隷として自分を考えたくなかった。その理由は、麗子に会ったからで、いつもは一人だけを相手にしているから奴隷という立場をまっとうできていたのだが、今日は宿に着いてから最初に由香に対して奴隷となったのだが、これは最初からの予定通りであった。
だが、露天風呂に行って、まさかの麗子との出会いであった。麗子は奴隷としての山内を見ている。だから、相手をするのは奴隷の山内だった。そのうちに精神的に奴隷としての自分に少し疲れてきた。玲子が気付いてくれて助かったのだが、本当は後どれくらい自分の精神力がもつか、少し自分に自信が持てなくなりかかっている頃でもあり、麗子の一声は、まさに鶴の一声だったのだ。
部屋に帰ってくるまで、由香に何かを言われるのではないかと気が気ではなかった。すでに精神的に疲れてきていたので、少しの間は持つだろうが、由香に必要以上な詮索を受ければ、自分が奴隷としてのタイムリミットは過ぎてしまう。どのように対応する自分がそこにいるか、未知数だった。
普段のように、一日ずっと由香とだけ一緒であれば、一日中、いわゆる二十四時間でも大丈夫なのだ。それでもまだ余裕があるくらいなのだが、その間に誰かが入り込むのは、マジで勘弁してほしいと思っていた。
「本当はそういう意味での温泉旅館ではなかったのか?」
とも思った。
そこで、山内はもう一つの考えが浮かんできた。
今回は、自分が麗子という予期せぬ人物との出会いで、自分の奴隷としての精神力に限界を感じそうであったが、もし、麗子の存在がなく、由香の方で、他に誰か知り合いがいたりしたら、そう例えば佐山霊山が由香の過去に何かあり、再会したことで、焼けぼっくいに火がつくなどという言葉があるように、二人の間に過去に何かあったのではないかと思わせる素振りを、山内は感じていた。
――気の性だったらいいんだが――
と感じていたが、果たしてどうなのだろう?
二人のことは二人にしか分からないと、すぐに想像することをやめてしまった。普段なら、もう少し頭を回転させてみるのだろうが、今回これ以上考えるのをやめたのは、きっとさっき自分が温泉で、麗子と再会したという事実があったからだろう。もし、それがなければ結論が出るとは思えないが、考えないと気が済まないとすら思っていたはずだった。
山内は、敷かれてい布団に横になり、
「すぐにはなかなか眠れないだろうな」
と小さな声で呟き、隣から聞こえる寝息を聴いていると、今感じた思いが揺らいでいくのを感じた。
「今の状態なら、寝られるかも知れないな。いや。今の状態で眠ってしまいたい」
と思うと、本当に睡魔が襲ってくるから不思議だった。
人の寝息がここまで睡眠作用があるとは思わなかったが、それを感じると、ふと自分を顧みていることに気が付いた。
「僕って、催眠や暗示にかかりやすいのかな?」
という思いだった。
自己暗示には掛かりやすいとは思っていたが、まわりから掛けられる暗示のようなものにはそれほどかかりやすいとは思っていなかった。自分が奴隷としてその人のいうことを聞くのは、相手が自分に奴隷だという暗示をかけているわけではなく、あくまでも自己暗示が自然と醸し出され、奴隷に対しての命令をしている方は、果たしてそれを山内の方からの暗示だと誰が感じているだろう。
主になるということは、自分に主導権がないとできないことであると思っていて、もしそれができるのであれば、二重人格の人にしかありえないと思えた。そう思うと、この考えが元になって、
「主というものは、基本的に二重人格でなければ務まらない」
という考えに至った。
だが、そうなると同時に、
「奴隷となる方も、二重人格である必要があるのではないか?」
と感じたが、これは主に二重人格を感じたからではなく、奴隷としての自分が、以前から感じていたことだと思っていたのだ。
その日の滝の音がいつもと違っていることに気づいたのは、小間使いの新之助だった。
佐渡倉新之助、番頭の小間使いのようなことをしている少年で、通称:柏木夫妻は最初にこの宿で顔を合わせた人物だった。
「鬼門館はこちらでよろしいのでしょうか?」
と訊いた時、玄関で掃除をしていたのだ。
鬼門完とは最初名前にビックリさせられたが、さすが「秘境の湯」とししるしとぞ知る温泉宿、奇抜な名前だと感じていた。
だから、ここの温泉の前に滝があって、そこが「鬼門の滝」と呼ばれていると聞いても、驚きがなかったのだ。
新之助青年は、まだ高校生と言ってもいいくらいのあどけなさの残る男の子で、
「ええ、そうですよ。いらっしゃいませ」
と、深々頭を下げ挨拶をしてくれたが、ニッコリするわけでもなく、無表情に近かったが、だからと言って、嫌な気分にさせる雰囲気でもなかった。
それがこの青年のいいところなのかも知れないと思ったが、
――高校生だったら、思春期の後半。そういえば、高校時代の男の子は、皆こんな雰囲気だったかな?
と、案内された二人は思っていた。
彼とは露天風呂に赴いた時にも顔を合わせているが、どうやら、客は露天ぶろを利用する時間を見越して、前準備に勤しんでいるようだ。よく見るとどこか勘が鋭いところがあるようで、
「玄関でのあの時間の掃除も、私たちを出迎えるための演出だったのかも知れないわよ」
と由香は言ったが、
「そんな、考えすぎだよ」
と山内も口では言ったが、まんざらでもないような気がした。
由香には、ああいう少年の気持ちが結構分かるようで、露天風呂からの帰りも、
「ちょうど、お布団の用意をしてくれた後の彼と出会うかも知れないわね」
と言っていたら、本当に自分たちの部屋から今出てきたのか、そそくさと頭を下げて出てきた新之助に出会ったのだ。
さらに彼の勘の鋭さを感じさせる出来事が翌朝発生した。
「番頭さん、今日は何か滝の音がちょっと違うような気がするんですが」
と、早朝の館内の掃除を一通り終えて、食事の用意をしていた仲居さんや、番頭さんに向かってそう言って声を掛けた。
普通なら、
「そんなの気のせいよ」
と、言われて耳を澄ました二人にはその違いが分かるはずもない状態で、うて合わないのだろうが、二人とも新之助のそう言った才能を分かっているだけに、
「新之助がそういうのであれば、見ておいで」
と言って、送り出した。
二人は、今まで新之助の耳の良さというのか、ちょっとした違和感も見逃さない勘の良さに、今までどれほど助けられたか、建物の違和感を台風が通過する前であったり、大雪に見舞われる時であったりなどの緊急時に気付いて修復することで、建物崩壊に繋がっていた危機を乗り越えることができたのだ。
そんなことが何度も続くと、もはや誰も新之助の助言を無視することはできなくなった。だから、新之助がそういうのであれば、と言って送り出したのだが、普通は送り出しても、何事もないものだと思うのだろうが、その時、番頭だけは嫌な予感というか、変な胸騒ぎに見舞われていた。
新之助を送り出してから、五分くらい、緊張感を持ったまま朝食の準備に勤しんでいた仲居と番頭だったが、バタバタと急いで宿に駆け寄ってくる音を聞いた時、何かが起こったことを直感したのだろう。
二人は朝食の準備を途中でやめ、急いで玄関に赴こうと立ち上がると、すでに新之助が戻ってきていて、その顔は何ともいえない歪みが浮かんでいた。
これが、普通の人であれば、怯えとも困惑とも取れないような表情だと分かるのだろうが、普段から表情をほとんど変えない新之助であるだけに、表情からはその心境を計り知ることはできなかった。
それでも、尋常ではないことは分かり切っている事実だと感じた番頭が、
「これ、どうしんんだ? 何かあったのか?」
と恐る恐る聞くと、新之助は我に返ったのか、その表情にはやっと怯えのようなものが感じられた。
「滝で、誰かが横たわっているんだ。急いで警察を」
というではないか。
「誰かが横たわっているって、死んでいるのか?」
「はい、手首の脈と瞳孔の開き具合いを見ましたが、死んでいるのは間違いないようです。とにかく、警察に急いで連絡して、一度現場をご確認ください」
と言って、さっそく番頭が警察に連絡し、三人は滝に行ってみることにした。
新之助はこれを殺人事件だというが、この温泉宿の長い歴史の中で、少なくとも番頭と仲居が出くわした事件の中で最悪の事件であることは間違いないようだった。
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