第4話 恋愛と奴隷

 二人は別に不倫をしているわけでもなければ、罪を犯したわけでもないのに、何か遠慮がちだった。二人はその日の食事を終わって、再度露天風呂に行った。ただし、この時は男だけで、由香の方は部屋で休んでいた。

 露天風呂は、もう真っ暗になっていて、行灯のような黄色い明かりが、妖艶さを写し出していた。それを見た時、封建時代の温泉を感じさせられた。

――封建時代――

 それは自分にとっても、由香にとっても、馴染みの深い思いだった。由香の中では、それを異常性癖だと思っているが、異常性癖であることに変わりはないが、それ以外の感覚として、山内に中にある「奴隷」という主従関係が意識の中にあるのを感じていた。

 湯に浸かると、一度浸かった湯なので、身体が慣れているのか、最初に感じた痛みはなくなっていた。

 痛みがないというよりも、身体の芯自体が暖かいことで、次第に、お湯の部分と自分の身体の間に境目がなくなっていくような気がするのだった。目の前に浮かび上がっていく湯気を見ていると、白い線だと思っていたものが、粒子の塊りであるという、理屈を理解するかのような感覚に染まってくるのを感じたのだ。

 入ってすぐは感じなかったが、身体が湯に馴染んできたのを感じた時、目の前の湯気の向こうに、誰かがいるのを感じた。

 それが女性であることは、髪を後ろで結んでいることで分かったのだが、一瞬、

「悪い」

 という思いを感じた。

 その悪さというのは、目の前の彼女が一人で入っていたのを邪魔したという気持ちなのか、それとも、由香に対して、他意があったわけではないのに、一緒になってしまった偶然に対して、まるで自分の欲望が作り上げた妄想の世界を実現してしまったかのようで、申し訳ないという気持ちだったのか、自分でもよく分からなかった。

 山内が彼女の存在に気付いたその時、それまでまったく動いていなかった彼女が動きを見せた。

「ジャブ」

 という音とともにタオルを湯から出して、顔を拭いている様子を感じたが。

――ということは、私に気を遣って、音を立てないうようにしてくれていたのかな?

 と思ったが、さすがに、ずっとじっとしているのは苦しいのだろう。

「こんばんは」

 という籠ったような声が湯気を揺らしながら聞こえてきた。

「あ、こんばんは」

 と、完全につられるように答えたが、まるでうろたえているかのように聞こえたのか、それが滑稽に見えたようで、彼女は、クスっと笑ったようだ。

「こちらには、今日お見えになられたんですか?」

 と彼女は聴いてきた。

 最初に聴いた声ほど籠っておらず、透き通ったような甲高い声に、少し少女のような雰囲気を感じた。顔はまだ湯気の向こうにあり、確認することはできなかったが、後ろで結んでいる髪の毛から想像する雰囲気は、まだ二十代そこそこに思えて仕方がなかった。

「ええ、今日来たんですよ。初めてなんですが、なかなか情緒のあるところですよね」

 と山内がいうと、

「ええ、そうなんですよ。でも、お客さんは年寄りが多いので、若い方が来られると、嬉しく感じますね」

 と彼女は言った。

「あなたは、ここの常連なんですか?」

 と山内が聞くと、

「ええ、そうです。ただ、私も湯治が目的といえばそうなんですよね。実はちょっとした病気があって、まあ、気休めにしかならないんですが、ほとんど気分転換という感じでここにお邪魔している感じですね」

 と彼女は言った。

「病気って?」

 と訊いてみたが、

「精神的な病気で、鬱病のような症状だったり、記憶喪失のような感じだったんですけど、最近はこの温泉の効用なのか、あまりひどくはないようなんですよ」

 と彼女は言った。

「それはよかったですね。この温泉には、精神的なものを癒してくれる効用もあるんですね?」

「ええ、だから、ストレスが溜まって精神的な疲れのある人だとか、ジレンマやトラウマを感じている人なんか、ここに来ればいいと思うんだけど、なかなか皆さん、そういうわけにはいなかいようですね。それだけ世の中が止まらずに動いているということなんでしょうね」

 と彼女は言った。

「記憶喪失って、どんな感じなんですか」

 と興味があったので聞いてみた。

「記憶喪失というのは、かなり個人差があるようですね、総称して記憶喪失と言っているようですけど、その度合いであったり、種類にもいろいろあるようですよ。例えば、夢を見ているような感覚であったり、それに対して、目が覚めても覚めない夢が、失った記憶であったりすると思えるようなものもありました」

 と言われて。山内は、

――ちょっと難しい言い回しをする女の子だな。でも、どこか分かる気がするな――

 と思った。

 しかも、その思いを感じるのは、

「自分だから」

 という思いが強かった。

 他の人であれば、こんなことは感じないという思いが強かったと言えるのではないだろうか。

「でも、記憶を失っている時というのは、普段の自分も意識できていると思うんです。記憶を失っている自分と、記憶を失わないでいる自分の両方が、頭の中に共存しているという感じなのかしら? これは夢を見ている時と似ていると思うんだけど、夢を見ている時って、夢を見ている自分と、夢の中の主人公である自分の二人の存在を感じることがあるんです。だから記憶喪失状態の自分を、夢の中にいるような感じがすると言えるんじゃないかと思うんですが。この思いが記憶喪失の間に、よみがえってくるんです。だから、ひょっとすると、記憶喪失の時の自分が本当の自分なんじゃないかと思うこともあるんです」

「ということは、夢の中の自分を、本当の自分だと思ったことがあるということですか?」

「ええ、子供の頃は正直そう思っていました。そう感じるようになってからか。次第に記憶があいまいな時が少しずつ増えていったんです。子供だったので、ここまで理論的な考えが浮かんでくるはずもなく、漠然と思っていただけなんですけど、今はそう思うことをむしろ安心感につながると感じるようになったんです。そういう意味では記憶喪失気味ではありましたけど、まわりが心配するほど私は気にしていなかったというのが、真実ですね」

 というではないか。

 山内にも何となく気持ちが分かる気がした。

 自分は子供の頃から、主従関係や奴隷扱いをされることで、

「これが自分の生き方なんだ」

 と思うようになってはいたが、運命として受け入れるという感覚ではなかった。

 むしろ、今がそういう状態だというだけで、大人になるにつれて、立場が逆転することがあると思っていた。

 確かに、今の関係のまま、お互いに進めば、波風が立つこともなく、無難に平和な関係のままであるからである。

 子供時代には、いろいろな可能性があるが、その間に培われた性格は決してその後変わることはないだろう。二十年近くも成長期に培われたものである。それが簡単に変わってしまうようであれば、この二十年間というものが何であったのか、疑問でしかないからである。

 ただ、今ここで彼女と話をしていて、夢の世界と記憶の世界とは、切っても切り離せないものであるということを思い知らされたような気がした。

 そして、今風呂の中に一緒にはいるが、なかなか湯気のために確認できない彼女の顔を想像していると、成長期に感じた「耽美」というイメージを思い出していた。

「美しいものを愛でるということは、何にもまして大切なことである」

 という考え方である。

 自分が村山によって追及された美を、自分の肉や血を持って美として形作っている。自分だけで作り上げる美ではないことに、全面的な悦びはないのだが、身体全体でもって、追及できていることには悦びを感じていた。

 だから、奴隷のような目にあっても、村上から離れることができず、それを悪いことだとは思わないのだった。

「私ね、時々この温泉に浸かっていると、湯気の向こうに鎧武者が立っているのが見えることがあるの。湯気に隠れているので、シルエットしか分からないんだけど、その勇ましさは素晴らしくて頼もしいと思うのね」

「そういえば、ここには落ち武者の滝があるって聞いたわ」

 というと、

「ええ、そうなのよ、彼らは確かに落ち武者だったんだけど、一度は落ち着いて、ここから旅立とうとしていたところを追手に追いつかれたということなんですが、それも考え方ではないでしょうか。この温泉地は、地元の人にしか分からないところで、よそ者は厳格に区別されていた場所だという伝説ですので、彼らは、本当はここに骨を埋めなければいけなかった。無理もないことではありますが、故郷恋しさが募ってきたことで彼らは滝の怒りを買ったんでしょうね。それで、せっかく守られていたものが、急に守るものがなくなって。後は惨殺されて。それこそ、運命には逆らえないということになったんでしょうね」

 と彼女は言った。

「じゃあ、この音声に関わった人は、この温泉に骨を埋めるつもりでないと、最後にはどうなるか分からないということなのかな?」

 というと、

「そうじゃなくて、あくまでも落ち武者は、この村で惨殺される運命だったということなんでしょうね、本当はこの場所を見つけなければ、最初に逃げた時にどこかで殺される運命だった。でも、この場所を見つけたおかげで命拾いをして、その命拾いをした時の気持ちを忘れて、故郷を恋しくなって、帰ろうとした。そのために、元々の運命が彼らを待っていたというだけのことなんじゃないかしら?」

 と彼女は言った。

「だけのこと……?」

 と山内は訝しがったが、

「ええ、それも運命というもの。普段から人間は誰かに守られているという意識を忘れると、そのご加護がなくなるということを、本当は皆思い知らなければいけないということなんじゃないかしら?」

 と彼女は言った。

「君もそうなのかい?」

 と山内がいうと、

「ええ、そうよ。私はここから出られない。でも、この場所が一番いいの。逆に他の場所に行くのが怖いくらいよ」

「それは、ご加護がなくなるから?」

「ええ、ご加護のない世界で生きていく勇気はないわ。それを一番府ご存じなのは、山内さん、あなたなんじゃなくって?」

 と言われて、ビックリした。

 ここでは。柏木徹と名乗っているので、誰も自分が山内だと知っている人はいないはずだ。一体どういうことなのだろうか?

「どうして、僕の名前を知っているんだい?」

 と聞くと、

「あなたは覚えていないかも知れないけど、私はあなたの小学生の頃のクラスメイトだった鳳麗子よ」

 というではないか。

「確か、お金持ちのお嬢さんで、美しいものを愛することをすべてのように思い、僕という男に奴隷として興味を持ち、最後には、こんp僕を見限った、鳳麗子さんですね?」

 と言ったことで、今度は麗子がビックリしたようだ。

 この瞬間、二人を遮っていた湯気は消え、遮るものがなくなり、二人は正対した。

「お久しぶりね」

 と麗子が嘯いたように呟くと、

「ああ、そうだね。何年振りだろうか?」

 と山内がいうと、二人の間に少し沈黙が走った。

 表情はお互いににこやかであったが、気持ちは表情とは違っていた。

 本当は、何もかも分かっていてここに現れたことで、山内に恐怖を植え付けてやろうと考えていた麗子だったが、山内の方がそれ以上に麗子のことを覚えていて、そのことを一番怖がっているのは、実は覚えていた本人である山内だということを、二人の表情から読み取ることができる人などいないだろう。

「君は、僕を見限ったんじゃなかったのかい?」

 と山内がいうと、

「ええ、最初はあなたのことを見限ったつもりだったの。でも、あなたの存在は私の中で消えることはなかった。私の夢の中にあなたは出てきて、夢の中の主人公である私の前でひざまずくのよ。そして、世界で一番美しい私に対して、世界で一番美しい私に従うことができて嬉しいと言ってくれたの。私は、そのシーンが今まで自分の中で追い求めていた一番の美であると気付いたの。そう、夢の中でも私に美を見せてくれるのが、あなたという存在だと思ったの。何も疑いことを知らず。純粋に相手に尽くす。それが奴隷であり、人格のない存在なのよ。なまじ人格など持つから、美しさを損なってしまう。その人に従順になることがその人にとっても一番の幸せなら、それでいいんじゃないかって思ったの。その幸せがあなたの側から私への想い、そして私もあなたをただ、美しいとして愛でること、それが私の側からあなたへの想いだと思うこと。それ自体は最大の美だと思ったのよ」

 と麗子はそう言った。

「なるほど、それがあなたの究極の耽美主義というわけですね?」

「ええ、でも、現実はそんなわけにはいかない。一人の人間の人格を否定するということは許されないことだからね。だから、夢を見るの、そして妄想するの。そこであなたは、私の従順で実直な奴隷になるの。それを私は違う形で美にすることを考えた。それが小説の世界だったの」

 と、麗子は言った。

「麗子さんは、小説家になられたんですか?」

「ええ、これでも、最近、少し注目されてきたのよ。坂東あいりって作家、ご存じありませんか?」

 と言われて、ハッとした。

「読んだことありますよ。というか、愛読書にしています。あなたの作品だったんですね?」

「ええ、モデルはあなたと私。フィクションなんだけど、私の中の妄想を忠実に描いた作品。あなたに読んでもらいたいと思っていたけど、すでに読んでいてくれたとは、光栄だわ」

 と麗子がいうと、

「あなたの作品は、僕にとって、バイブルのような気がしていました。読んでいるうちに、次にどういうことが書かれているか、分かる気がするんです。それは内容というよりも、精神的なところでの気持ちの描写ですね。だから、今でも手放せないと思って読んでいます」

 と山内は答えた。

「私はいつもあなたのことを考えていた。そして、あなたを奴隷としてしか見ていない自分に自信のようなものを持っているんですよ。あなたはあの小説を読んで、どう感じました? ほとんどの人は私の小説を、『恋愛小説』だと言ってくれるんですよ。だけどね、同じ恋愛小説でも二種類あると思うのね。一つは純愛小説、そしてもう一つは愛欲小説とね。私の小説を恋愛小説として読んでくれている読者の半分は、純愛小説だと言ってくださるんだけど、残りの半分の人は愛欲小説だという評価をしてくださるの。これをあなたはどう思っておられるのかしら? あなたには、私の小説を恋愛小説だと思ってくださる? そして恋愛小説だと思ってくださるのであれば、純愛になるの? それとも愛欲になるの? 私はあなたのご意見を伺いたいわ」

 と、麗子は言った。

「僕の感覚としては、確かに恋愛小説なんだけど、愛欲だと思うね。だけど、それ以前に、純愛と愛欲の本当の違いって何なんだろうね?」

 と山内が訊ねると、

「これは私の私見なんだけど、純愛というのは、見返りを求めないであったり、肉体関係を伴わない、そんな愛のカタチなんじゃないかと思えるのよ。そしてその逆で、見返り、すなわち身体を求めることで、そこに生まれるものが愛であり、精神的なことととして、欲が渦巻くような内容の小説が愛欲だと思うのね。だから、純愛というのも、大きなジャンルとして恋愛があり、その中に愛欲があった、その中の一部に純愛があると思うの。少し矛盾しているような気がするんだけどね」

 と麗子が答えたが、

「矛盾ではないさ。見返りを求めないというのは、あくまでも建前、気持ちはそうでも、結果として愛し合うようになれば、そこには、愛情表現としての欲望が生まれてくる。欲望と愛情が一緒に存在してもいいんじゃないかというのが僕の考えさ。だから、奴隷を前提とした主従関係だって。広い意味では愛情表現の変格的な形なのではないかと僕は思っているくらいなんだ。僕に奴隷という意識があって、それをまわりが見て、プライドも何もないのかと非難する連中もいるけど、そうじゃないんだ。愛情表現をいかに自分で解釈するか、それが大切なだけなんじゃないかって感じているんだよ」

 と、彼は答えた。

「恋愛小説というと、どうしても小説の世界では、ストーリーのパターンが決まっているというイメージが強いの、いわゆるロマン小説と呼ばれるものがそうなんだけど、それが純愛小説に繋がっていくのよ。愛欲というと、不倫だったり、なさぬ愛だったりすることが多いんだけど、それは不倫という言葉に凝縮されてしまうのよね。今の世の中で不倫というと、どうしても、恋愛する二人のうちのどちらか、あるいはどちらにも配偶者がいるという、狭い意味での不倫というものを刺すという風潮じゃないですか。でも、本当の不倫というのは、倫理に背いたという意味で、使われるべきなのに、そのあたりもよく分からないですよね」

「そうだね。でも、倫理に背く愛情って、どこまでが倫理に背いたと言えるんだろうか? 近親相姦であったり、男色、衆道、レズビアンなどと言った、同性愛なども不倫に含まれるんだろうか? それを思うと、不倫という言葉に対しての違和感がハンパではないと思うんだけど、どうなんだろうね?」

 と山内がいうと、

「私は、今言われた不倫を、すべて許せるわけではないけど、仕方のない部分もあると思うの。それはまるで、必要悪のようなものではないかとも感じるんだけど、どうなんだろう? そういう愛情の形があるからこそ、純愛が成立で来ているんじゃないかという考えはおかしいかしら?」

「僕は少し違うかな? 今の君の考えだと、不倫という部分があるから、純愛というものが正当化されるものだと言っているようなものだと思うんだよ。そうなってしまうと、純愛というものは、すべてがそれ以外の不倫の反面教師のような形で正当化されているように思えてくるんだ。それって。寂しさしか残らないんじゃないかな?」

「じゃあ、奴隷というのがどうなの? 私は奴隷扱いされている人がいるから、他の人が平等でいられる理由だとは思いたくはない。そうすると、奴隷を否定することになって、それはひいてあなたの存在を否定することになると思うのよ」

 と麗子は言った。

「じゃあ、この僕の存在というのは、奴隷という前提のもとに成り立っているというのかい? 他の人には理解できない感覚があるということ?」

「あなたが、自分で自分の存在を消すことができる人なの。私が昔あなたを追いかけた時、あなたはその存在感を消したわ。だから私はあなたに気づかずに通り越してしまった。あなたは、さぞやあの時、私に置き去りにされた気がしたでしょうね。私はそのことを小説を書き始めて気付いたの。でも、あなたは無意識だったはずなので、たぶん分かっていないと思うんだけど、いかがなのかしらね」

 と、麗子は言った。

「B句は自分でまわりに対して、気配を消すことができるような気はしているんだ。村山君と一緒にいる時には気づかなかったんだけど、今の彼女、由香と一緒にいるようになって、自分が人と一緒にいる時、その存在を消せているような気がしたのは、由香が僕と一緒にいる時、僕を後ろに立たせて、僕に後ろから抱き着くように指示するんだ。そして、その時、彼女は僕を鏡の中から、消えるように意識するんだそうだ。いつも僕に自分の腰を抱くようにさせて、彼女は鏡を見つめている。鏡に映っているのは彼女だけなのに、僕のことが腰に絡みついている腕で感じることができる。そんな状況を作ることで、『これがあなたのまわりの人に対して気配を消すことができるという特異体質のなせる業なのよ』というんだ。僕にはよく意味が分からなかったんだけど、その頃から、僕は他人の意識から消えているような気がすることが多くなった。実は前からその素質は持っていて、由香によって、その潜在的な意識を感じることができるように暗示に掛けられたのではないかと思うようになったんだ」

 と山内は言った。

「そうなのね。由香さんが今のあなたにとっての主であり、あなたが奴隷として従う相手なのね。私はいつも小説を書きながら、あなたという奴隷にどんな主がふさわしいかを考えてきた。その主というのは、私ではないのよ。私にしてしまうと、小説としては描けなくなる。それが矛盾であって。私にとってのジレンマなのよ。それを感じた時、私は苦しかった。ここまでなのかって限界も感じようとした。でも、一つウラを返せば、違う考えが生まれる。でもそれは私の本意ではない。ここにも矛盾とジレンマがあって、どこを向いても逃げることのできない状況に、私はゾクゾクするものを感じた。それが小説を書く醍醐味であり、最初に書いていた恋愛小説とはかなり違っているはずだったのに、気が付けば一周まわって戻ってきたのよ。それを思うと私は、あなたと一度会ってみないと、一体自分がどこに進もうとしているのかが分からないような気がして。こうやって会いにきたというわけ、そして、今私は真剣あなたの心の闇を取り除いてあげたいと思うようになった。今までは私の小説の中の架空の存在だったあなただったんだけど、今は違う。やっぱりあなたはちゃんとこの世に存在している、生身の人間なのよ」

 と麗子は答えた。

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