第3話 温泉宿の客
「ちなみにお客様は、この宿の前の狭い山道を少し入ったところに滝がありますのをご存じでしょうか?」
と仲居さんに聞かれて、
「ええ、知っていますよ。実は私たち、その滝を見たいと思ってこちらに宿泊しているんです」
というではないか。
仲居さんは、意外な気がして、意表を突かれた気がしたが、
「ああ、そうでしたか、あの滝には昔からの謂れもあるんですよ」
というと、
「それも、聞きました。何やら落ち武者伝説があるとか?」
と由香がいうと、
「ええ、よくご存じですね?」
「ええ、佐山先生に伺いました」
というと、仲居さんは納得したように。
「そうですか。それはよかった。佐山先生にお会いになられたんですね?」
という仲居さんだったが、さらに仲居さんが言った、
「よかった」
という言葉は、話が訊けたからよかったということなのか、それとも、佐山先生に会うことができたのがよかったということなのか、由香は考えてしまった。
「佐山先生は、よくここにご滞在なんですよ。何でも、ここに来ると、いろいろな発想が浮かぶとかで、この場所にいながら、都会のど真ん中にいる想像ができたり、海外にいる想像迄できるというからすごいですよね。でも、他の温泉宿では絶対にできないと言われるんですよ。ここは先生にとって、宝箱のうおうなところなのかも知れませんね」
と、仲居さんは言った。
「へえ、そうなんですか? 私は先生がこの旅館で何かの発想をする時は、この旅館のような雰囲気と昭和を織り交ぜた作品の時だけだと思っていました。実際に先生の作品に、この宿がモチーフだと思えるところも結構ありますからね。そういう意味で、先生にはここ以外にも、イメージを発散させる場所があるのだろうと思っていました」
と由香がいうと。
「それも先生にお訊ねしたことがあったんですが、他の場所というと、自分の部屋の書斎だけだと言います。この宿に気を遣ってそう言ってくださっているのかと最初は思いましたが、実際には本当に、先生の定宿はここだけのようです。そういう意味では私どももありがたいという気持ちになって。精いっぱいのおもてなしをしようと心がけているんですよ」
と仲居が言った。
「それは本当にいいことですよね。私も以前は作家の先生のアシスタントや、編集部でのアシスタントの真似事のようなことをしたことがあったのですが、その時は本当に新鮮に見ることができました」
と由香がそう答えた。
由香の気持ちはまさにその言葉通りであり、話をしながら、アシスタントをしていた頃を思い出していた。
あの頃は、今から思えば毎日があっという間だったような気がするのだが、一週間は結構長かった。
「まるで、一週間が十日あるんじゃないかと思うほどだわ」
と思えるほどだったが。sの実毎日が本当に充実していたのかどうか、それに疑問を感じたことで、その仕事を辞めたのだった。
表向きは、
「寿退社」
であったが、結婚しなくても辞めるつもりだった。
充電期間を設けて復帰ということも考えられたが、プロであるわけでもなく、それほど気にする必要もない。
「やっぱり、飽きたのかしら?」
と思ったが、飽きたという風には感じられなかった。
由香がやっていたアシスタントは、恋愛小説家が相手だった。
その恋愛小説家は、よくスランプに陥っていたようだ。前のアシスタントの人も、
「あの先生は、気まぐれなので、対応が難しいわよ、それにね、小説の世界と現実の世界を混同するという悪い癖があるのよ。気をつけなさい」
と言われていた。
「私は、アルバイトなので、そこまでの責任は持てないわ」
と笑って言ったものだったが、その時、先輩は何も言わず、ニンマリと何か厭らしい笑みを浮かべたが、その時はその笑みの意味がよく分からなかった。
どせすぐに辞めるのだから、余計なことを言って、嫌われることもないと思ったのだろう。
しかし、逆にその厭らしい笑顔の印象だけが最後に残ってしまった。
確かに先生は、普段はそれほど手のかからない人で、締め切りもしっかり守る気さくな人なのだが、急に、
「何も書けない」
と言い出したかと思うと、その顔は苦悶に歪んでいるかのように思えた。
――ここまでプロの人は顔が変わってしまうものなのだろうか?
と感じたほどで、
「こんなに書けないと、焦ってしまう」
とばかりに、おかしな行動を始めた。
「ああ、息苦しい」
と言って、先生は着ている服を脱ぎ始めた。
由香はその場に立ち尽くしたまま、どうすうこともできず、金縛りに遭っていた。
――このままでは危ない――
襲われることが分かっていただけに、まるでヘビに睨まれたカエルのように、食べられるのを待つばかりなのだろうか?
そう思っていると、先生は、ニンマリと笑ったが、襲ってくるわけではない。そのうちに先生の目が虚ろになってきた。
まったくの静寂の中で聞こえるのは、先生の、
「ぜぃぜぃ」
という息遣いだけだった。
「先生」
と怯えたような声をあげると、
「ぐへへへ」
とばかりに、不気味に笑い、口からは、涎のようなものを流しているのを感じた。
そのうちに、身体が硬直してしまったのではないかと思うほど、目をカッと見開いたかと思うと、またしても、虚ろな目になり、全身に脱力感を感じた。
――まさか、先生――
そう、何と先生は、由香を見ながら、妄想していたのだ。どんな妄想なのか分からないが、その妄想により、指も手も何も使わずに自慰行為に耽っているのだ。何度も何度も昇天し、由香はその気持ち悪い視線に晒されながら、気が付けば、そんな厭らしい状況の中で、自分も興奮していたのだ。
――本当に、こんなの嫌だわ――
とその状況から逃げ出したいという思いとともに、強烈に襲ってきた快感を、身体を触れることもなく、味わえていることが不思議で仕方がなかった。
そんな経験をしたのだから、男性に対して恐怖症を抱いたり、作家という人種にトラウマを感じたりするものなのだろうが、確かにそれから数日は、自己嫌悪とともに、世の中のものすべてが汚らしいものに感じられ、立ち直ることができないのではないかとさえ思えたが、一週間もすると、そんな感情はどこ吹く風で、すっかりなくなっていた。
そのかわり、男に対して、異常性癖が芽生えてきたような気がしてきた。
その時最初に感じたのは、
――私は不倫であったり、訳あり男性でなければ、感じない身体になったのかも知れない――
という思いであった。
それと、もう一つ、
――不倫でなくとも、異常性癖、例えばSMのような関係であったり、レズビアンであったりと、普通の男性でなければ、感じることができるかも知れない――
という、とにかく、アブノーマル嗜好になってしまったことを感じたのだ。
そのため、自分から彼氏を作ろうなどという意識はなかった。
――きっと自分がアブノーマルなオーラを出しているだろうから、私に声をかけてくる男性があるとすれば、まともな男性ではないに違いない――
という思いから、普通に声をかけられることのない女になったと感じるようになっていた。
そんな時に、声をかけてきたのが、柏木徹だった。
徹は、誰がどう見ても、普通の男性で、
――こんな私に声をかけてくるような男性ではないわ――
と最初は思った。
どこか、坊ちゃん坊ちゃんしたところがあり、話をしていても、理屈っぽいところがあり、
「世間知らずのおぼっちゃま」
というイメージで凝り固まっていた。
だが、彼は、性的アブノーマルな男性だった。
普段も見せかけだけであって、実は彼はある人間の従者であった。
付き合い始めることになった時、元々、主である男性の眼鏡にかなったのが、由香だったのだ。
その男性からしてみれば、
「この女、誰か男に催眠状態にされて、異常性癖でも宿るように調教されたのかも知れない」
という、
「当たらずも遠からじ」
と感じさせるだけの鋭い眼力を持っていたのだが。実際に接近してみると、どうも想像していたのとは違っていたようだ。
由香は、半分、その主者を好きになりかけていたのに、まるで途中で梯子を外された形になってしまった。そのため、かわいそうだとでも思ったのか、従者である男に、由香を押し付けたのだ。
それが徹だった。
彼は、由香のことを気の毒だと思いながらも、
――何か、この感覚、過去にも味わったことがあるような――
と感じながら、その記憶に一時期嵌り込んだ。
だが、押し付けられはしたが。彼には彼女の良さが分かっていたような気がした。自分のことをジロジロ見られているようで、晒されることに快感を覚えていた由香は、通りに次第に惹かれたのである。
二人は、異常性癖という意味でも整合していた。お互いに世の中に感じている不満やストレスを、相手が補ってくれるという存在だったことが、二人を急接近させた。
元々が、お互いに普通の関係を結ぶことのできない相手だったはずで、それが結び付いてしまったことを、意外だと感じながらも次第に離れられなくなる自分たちに違和感を持っていた。
「別れなければいけないのに、別れられないということ?」
最初、男の方から別れ話をしてきたのだが、女は抗うつもちで、その真意を知りたかった。
知ったからと言って、運命に逆らうことはできないと思いながらも、納得できなければ、先に進めないと感じたのだろう。
だが、二人はそんな曖昧な気持ちのまま、時間だけが過ぎていくと、次第に罪悪感と自己嫌悪に襲われるようになり、別に感じる必要もない、罪悪感と自己嫌悪がどこから来るのか、分かるはずもなかった。
「とにかく、旅行にでも行こう」
と言い出したのは、男だった。
ここまで話してくれば、二人が夫婦ではないこと、つまりは、名前も偽名であることは分かるであろう。
男の名前は、
「山内竜彦」
前述のような、少年時代、思春期を歩んできた「奴隷」としての従者であった。
ということは、彼の主者というのは、ご承知の通りの村山茂であり、村山の方は山内に対して、
「腐れ縁」
だと思っている。
その根拠は、もうすでに彼の中で主従関係というのは、疑いようのない自分にはなくてはならない人間関係が形成されているからだった。一種の、
「飽き」
と言ってもいいだろう。
山内は、村山の気持ちを知ってか知らずか、精神的にも肉体的にも従者としての自分が、本来の姿だと思っていたのだ。
そんな奴隷になりきってしまった山内は、自分が奴隷としてでしか生きていけないことを自分なりに理解していた。しかし。この女と出会ったことで、自分の運命が何か変わるかと考えたのだ。
この女、実はこの女の柏木由香という名前は本名だった。別に偽名を使ってもよかったのだが、
「あなたが名前を偽るのなら、私は本名でもいいわよね」
と由香があっけらかんというので、その通りになったのだ。
その時、山内は由香という女を見直した気がした。他の連中は、まわりに流されないようにしようとしながらも、自分が一人では生きていけないということを理由にして、まわりに流されている自分を、流されているわけではないという、正当性を感じたいがため、何とか、まわりを欺こうとする。
皆が皆欺こうとするのだから、ウソだって本当のことになるというものだ。
「マイナスにマイナスを掛け合わせると、プラスになる」
という理屈と同じである。
だが、由香はそんな姑息なことはなかった。あくまでも冷静で、その分頭の回転が速い。そのおかげで、誰も考えつかないような発想に辿りつくのだが、そのきっかけは、あまりにも当たり前のことなのだ。
その地点だけを見ると当たり前のことだと思うくせに、少しでも前か後ろに進むと、当たり前のことを当たり前にできない自分たちを何とか正当化させようとする、つまり、
「マイナスにマイナスを掛け合わせないと、プラスにはできない」
と思い込むのだ、
由香は、それをすべて、
「そんな面倒臭いことしなくても、最初からプラスで何が悪いの?」
と言える人物であった。
他の人は、由香を恐れていた。それを言われることがたまらなく怖いのだ。
「当たり前のことを当たり前に指摘されることほど、自分を否定してしまいそうに感じることはない」
と言ってもいいだろう。
由香という女性に惹かれたのはそのあたりが一番だったのかも知れない。
由香は、異常性癖の自分を知った時は。さすがにショックだっただろうが、その時に回りくどい考えをやめることで、自分の本質を知ることができた。
「異常性癖って、人が言っているだけで、自分が異常じゃないと思ったら、っそれが正常なんじゃないかしら?」
と言ったが、他の人だったら、言い訳で固めた意見にしか聞こえないのだろうが、由香に言われれば、
「そうだよな」
と、自分も以前から考えていたことのように自然に受け止めてしまうのだった。
由香は、一度こんなことを言っていた。
「近親相姦のことを、鬼畜だとか言っているけど、その根拠はどこにあるのかしらね?」
というのだった。
「濃い血が交り合うことで、障害者が生まれたりするのがダメだって聞いたことがあったんだけどね」
と山内は言ったが、
「それって、本当に医学的に証明されていることなのかしらね? だったら、近親相姦は、障害者が生まれるからダメだって、どうしてもっとハッキリと言わないの? ただ、慣習的にダメだっていうだけで、ハッキリした理由を誰一人知っているわけではない。そこに何か人類の歴史で計画的な何かが考えられると思うのは私だけなんでしょうかね? だって、日本の、いや世界の歴史の中に、近親相姦によっての、家の存続というのは結構あるんじゃないの?」
と言われて、何も言えないでいると、さらに由香は続けた。
「近親相姦というけど、どこからが近親で、どこまでが近親じゃないというの? これって、時代によって変わったり、国によって、あるいは宗教によってもバラバラでしょう? ただ、近親相姦はよくないことだという話だけになっているわけだから、何か釈然としないと思うのは私だけなのかしら?」
と由香は言った、
普段から、恐ろしいほど冷静で、緻密な考えの由香にそう言われると、彼女の少々強引にも聞こえる理屈はウソとは思えない。そう考えながら、由香の顔をじっと見つめていると、由香は、あざといような誘惑の目を山内に向けてくる。その目が山内を引き付けて離さない最大の理由なのだろう。
由香が山内から離れない理由はなんであろうか?
異常性癖に目覚めた由香が、奴隷と思しき相手を見つけて、まるでおもちゃを与えれた子供のように、それがまるで天からの贈り物のような気持ちになり、運命のようなものを感じたのではないだろうか。
口では、対等ということを言いながら、相手が卑屈になっていることで、自分が劣等でないと不安で仕方のない男を、由香はうまくコントロールしていた。
普通の女性であれば、彼のような男性を相手にすることは無理であろう。相手があまりにも卑屈な態度を取ってくるのは、最初は自尊心をくすぐられて女は嬉しいものなのかも知れないが、そのうちに、この男が、
「誰かの命令がなければ、生きていけない」
ということが分かってくると、次第に自分の責任を痛感してくるようになる。
最初は、本当にただのおもちゃだったのに、そのおもちゃが、取り扱いに注意が必要で、しかも返品は一切不可。捨てることも許されず、捨てたり放りっぱなしにしてしまうと、自分が罪に問われてしまう。
そして、そんな状態を、女の方が主導権を握らないと、先に進まないということが分かってくると、
「こんなひどいものを押し付けられた」
と感じることだろう。
せっかく、神からの贈り物だったはずのものが、蓋を開ければ、災難をすべて背負った状態で、何が飛び出してくるか分からない。まるで、
「パンドラの匣」
のようではないか。
ギリシャ神話に出てくる、パンドーラという話。これは、人間界を作った全知全能の神であるゼウスが、人間を作ったプロメテウスに対し、
「人間には決して火を与えてはいけない」
という禁があったのだが、人間界の苦難を見るに見かねて、プロテウスは人間界に火を与えてしまう。
それによって、人間は争いなどを引き起こすようになり、ゼウスのいう通りになってしまった。
プロメテウスと人間に罰を与えなければいけないと、神は人間界に、初めてのオンナである、
「パンドーラ」
を創造し、遣わした。
プロメテウスの弟にパンドーラを与えたが、彼女は、神々から女性としての必要なことをすべて仕込まれて人間界に来た。
その時一緒に、匣(壺のようなものというものという説もある)を持参していて、
「決して開けてはいけない」
と言われていたのに、好奇心に負けて開けてしまったことで、そこからあらゆる災いが噴き出した。
底に残ったものが希望だという説もあるが、とにかく、開けてはいけないというものを開けてしまうという、これはギリシャ神話に限らず、日本のおとぎ話にもよく出てくるシチュエーションだが、この時の山内は、まさに、
「パンドラの匣」
と言ってもよかったのではないだろうか。
いいものだと思っていると、これほど扱いにくくて。捨てること、つまりは開けることのできないものだということである。
由香は、この温泉宿を、まさか、
「姥捨て山」
にでもしようというのか、そんなことを考えた自分が怖く感じられた。
だが、この宿での山内の態度、これまで知っている彼にはありえないような雰囲気だった。
まるで良識のある大人という雰囲気を醸し出していて、ここに来るまでとはまったく違った佇まい、
――これが本当に、あの山内という男なのかしら?
と思えるほどだった。
何事にも怯えが先に走ってしまい、不安と憔悴だけが心の中にあるため、前を向くことができず、ちょっとした風でも、すぐに倒れてしまう自分しか想像できない状態であった。
山内は、ここに来るまで、由香のことをパンドラのように感じていた。一緒にいないと不安なのに、一緒にいても、自分が何をすればいいのか分からない。前にも後ろにも進めず、まるで底なしの谷の上に掛かった吊り橋の中央で、途方に暮れてしまったかのようだった。
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