第2話 秘境の温泉宿

 寂れた温泉宿に、若い男女が二人で宿泊というと、浮世の隠れての不倫旅行というのが相場であった時代は今は昔、今では馴染みの湯治客がやってくるくらいの、そんな寂しい温泉宿。

 この間までは世間では、年末の繁忙期ということで、都会ではいやというほど、クリスマスソングが流れ、大きな駅や公園などでは、イルミネーションが綺麗であった。

 年が明けてしまうと、都会は閑散としてしまったかのように、あれだけ年末に集まった人がどこに行ってしまったのかと思うほどの変わりようである。

「行く、逃げる、去る」

 というように、年始から三月までをそう称して、月日の流れの早さを揶揄しているのは、実際に感じていると、無理もない状況に思えた。

 特に二月などは、年間で数日少ないという唯一の月であり、気が付けば終わっているくらいである。

 さらに、この時期、意外とイベントが多かったりする。

 一月は、正月から、七草がゆ、鏡開きに、成人式。二月は節分に昔でいえば「紀元節」と言われる、建国記念の日、一部の幸せな人間のためのバレンタインデーがある。さらに三月になると、桃の節句に、春分の日と、どれほどの行事があるというのか。

 さらに、受験シーズンに卒業式と、実質的なイベントもあったりする。

 これだけあれば、当然目まぐるしい日々であり、あっという間に過ぎていたと思うのも当然のことであり、年末の忙しさとは違う意味で、慌ただしさもあるのだ。

 だから、本当ならついこの間の年末が、それ以降あっという間だったことで、かなり以前のことのように思われるのも仕方のないことだ。

「あれは、去年のこと」

 と、数日前のことを言われても、別に違和感がないのも、仕方のないことであろう。

 一組の男女がそんな鄙びた温泉宿にやってきたのは、一月が終わりかけようとする寒い日であった。

「この時期くらいから、とたんに寒さが押し寄せてきますからね。露天風呂で雪見酒なんて人も結構おられて、結構この時期は、いつもお客さんが多いんですが、今回はあまり予約のお客様はいませんので、お客様方は、ラッキーでございますよ」

 と、田舎言葉に交じって、英語をかましてくるなど、ユニークな仲居さんの案内で部屋に入った二人は。黙ったままではあったが、旅の疲れからか、ぐったりしながら、のんびりしていた。女性の方は、よほど珍しいのか、まわりをキョロキョロしていたが、男性は何も言わずに、座椅子に腰かけて、ゆったりとしていた。

「温泉は二十四時間入れますので、お好きな時間に入られて結構ですよ」

 と言われた。

 時計を見ると、午後五時半を過ぎていた。朝から新幹線に在来線を交え、さらに最寄り駅から旅館の送迎バスで約四十分くらい揺られて、山が連なっているその中腹に位置する温泉だった。

 ここの温泉は、温泉郷のように温泉街というわけではなく、旅館が一軒建っているだけの場所で、娯楽施設などまわりに一切何もなく、その利用客のほとんどは、湯治が目的だった。

 ただ、近くには酒蔵で有名な街があり、そこのおいしい酒が飲めるというのもありがたく、闘病に差し支えないだけの酒は、クスリにもなるという。

「酒は百薬の長」

 というではないか。

「ここの温泉は、内臓の疾患や、神経痛にも効くということで、幅広い湯治の客がおられます。特に内臓に疾患のある方たちは、常連さんになっていただいているので、その方たちがおられるおかげでうちの旅館もおかげさまで、商売ができるというものです」

 という話だった。

「なるほど」

 というと、

「それに、世間を離れたい方がよくここを隠れ家のようにして利用されている方もいますよ。小説家の先生であったり、画家の先生など、ここで逗留しながら、作品を完成させておられますよ。そういう意味では静かな場所での静養を兼ねたお仕事という意味で、うちをよく利用される常連さんもおられます」

 と仲居さんは話してくれた。

 この仲居さんは話し好きらしく、会話や退屈しのぎには事欠かない人のようで、店の看板のようになっているようだった。

 さすがに寒いと言われるだけあって、夜は冷え込んできた。夕食は、ちょっとした鍋を宿が用意してくれたのは、きっと寒さを予測してのことだったのであろう。その日は、他の逗留客は二組と、この時期にしては少ないということだったので、宿側も歓迎してくれているのだろう。

 その二組というのは、一組は湯治目的の老夫婦で、決まって毎年この時期に訪れるということで、もう一組は、一人での逗留で、作家先生だということだ。この作家先生は現行の依頼があれば、ここに引きこもることが多いということで、そういう意味では不規則不定期の滞在ではあるが、年間に何度も訪れてくれる上得意だということだった。

「実際には、おとといくらいまで数組のお客さんがおられて、賑やかだったんですが、今は二組になって寂しいと思っていたところへのご予約でしたので、うちといたしましても、大歓迎というところなんですよ」

 と、気さくに仲居さんが話してくれた。

「今年の寒さはどうなんですか?」

 と訊かれて、

「はあ、今年は例年に比べると、そこまで寒いとは思いません。でも、この時期になって、やっと本格的な冬が来たということで、いよいよ雪景色がこの温泉でも見られるということですよ」

 と話してくれた。

「そういえば、この奥に滝があると伺ったのですが」

 と女性の方が話した。

「ええ、よくご存じで、この宿の正面の県道を境に、山道がありまして、そこから少し歩いたところに大きな滝があるんです。『鬼門の滝』という名の滝なんですが、断崖絶壁から流れ落ちる水はかなりのもので、音もすごければ、その水圧で、近くの木々についている葉のほとんどは、下方を向いていると言われるほどですね、実際にごらんになってみるといいと思いますよ」

 ということであった。

「そうですね。明日にでも行ってみようかな?」

「ええ、そうなさるといい。傘も忘れずに持っていかれるといいですよ」

 と言っていた。

 かなりの水圧だということなのだろう。

 夕食は、午後七時からお願いしていた。まずは、到着後ゆっくりしてから、一度露天風呂に入る時間が欲しかったからだ、

「露天風呂は、この宿のロビーの奥にある階段を下っていけば、その奥にあります。混浴になっておりますので、そのあたりはG了承ください」

 ということだった。

 大浴場としての露天風呂の他には、部屋にも風呂がついている。他人との混浴に抵抗のある人は部屋の風呂を使えばいい。だが、せっかくなので二人はこの宿の露天風呂を利用することにした。

 浴衣に着かえてから、二人は言われたとおりに、ロビーの奥の階段を、下に降りていった。ゆっくり気味の傾斜を一段意思h団踏みしめるように降りていくと、岩場のようなところを降りていき、その奥に木造の脱嬢が見えた。最近、建て替えたのか、綺麗な木目調の建物は、まだ木の香りがしてきそうなほど、綺麗な感じがしたのだ。

 脱衣場は当然男女別になっていて、露天風呂で一緒になるのだった。脱衣を済ませた二人は、さすがに寒さからか、湯気でほとんど前の見えないシルエット状態の中、声を掛け合うようにして、湯船に浸かった。最初に浴びた湯は、肌を刺すほどの暑さがあり、それだけ身体の芯が冷え切ってしまっていたほどの寒さだったということを実感させられたのだ。

「うーん」

 と、唸り声を挙げながら、二人は、湯船にゆっくりと身体を沈めていく。

 その顔は苦痛に歪んでいるようだったが、身体が湯に慣れてくるにしたがって、苦悶の表情が次第に、快楽の表情に変わってきたのだ。

「やっぱり、露天風呂は溜まらないわね」

 と女性がいうと、

「ああ、そうだな」

 と男の方がそっけなく答えた。

 女性は露天風呂の満足さを気持ちに込めて感じていたようだが、男の方ではどう感じているのか分からなかった。それがこの男性の普段からの性格なのかどうかは、この場面しか知らない人には分からなかっただろう。

「ここの湯は、子宝にも恵まれるというからな」

 という低い渋い声が籠り切った湯気を刺すようにまわりに響いていた。

 そのせいで、一瞬このかすみのかかった湯気の中のどこから聞こえてきた声か分からなかったが、次第に目が慣れてくると、奥の方に、湯の上に黒く丸いものが浮かび上がっているのが見えた。その人が喋ったのだろう。

 今日の宿泊客のことは、さっきおしゃべりで気さくな仲居さんから聞いていたので、その人は、きっと作家先生なのだろうと察しがついた。

 声の感じからとても、老人には思えなかったからだが、それ以上に声に重みを感じた。芸術家ならではと思えたのは、奥さんの方が、以前雑誌社で、取材のアシスタントを経験したことがあったからだ。

 アルバイトで、しかも短い間ではあったが、作家の先生は、奥さんのことを気に入って、いろいろ話をしてくれた。その時に、

――作家の先生って、気難しい人が多く、変わり者ばかりなんだって思っていたけど、案外普通で、それでいて、寂しがり屋さんが多いんだわ――

 と思ったものだった。

 しかし、話の内容は結構濃いもので、喋り方もさすがに作家と思わせるほど、文学的表現に富んでいた。それを思い出すと、この作家先生にも同じような血が流れているのだと感じ、敬意を表してその声を聴いた。

「作家の先生なんですか?」

 と奥さんが聞くと、

「先生というのはおこがましいくらいだが、本は書いておるよ」

 と言っている。

「差支えなければ、お名前は?」

 と聞くと、

「筆名を佐山霊山という者だが」

 と言われた。

「佐山霊山先生ですか? あのオカルト小説を書かれている」

 と奥さんが聞くと、

「いかにも、私がその佐山霊山です」

「私、先生の作品を何冊か読んだことがあります。なかなかあの不気味さは、他の作家さんにはマネのできないものだと思って感心しました」

 と奥さんがいうと、

「それはありがとう。お褒めいただけたと思っていいのかな?」

「もちろんですよ。不気味さが文章からも感じられて、余計に想像力を掻き立てられるんです。私はあまりホラーやオカルトは苦手なんでsyが、先生の作品だけは、読めちゃうんです。やはり文章に引き込まれることで、不気味さがいい意味で読み終わった後に残るのがいいのかも知れないと思いました」

 と言って奥さんは感動していたが、実は連れの男の方は、残念ながら、読書の習慣を持ち合わせていない。

 女性の方が今までに何度かいろいろな作者の作品を紹介したが、結局読もうともしない。その中に佐山霊山の作品もあったのを女性の方が覚えているが、最初から本に興味などなかった男の方には、誰が誰だか分かっていないので、当然、佐山霊山と言われても、まったくピンとくるものではなかった。

 佐山霊山という作家は、ベストセラー作家というわけでもなく、代表作が爆発的に売れたというわけでもない。

 逆に代表作というものがあるわけではなく、数ある作品、一つ一つに魅力を感じる作家だった。

 ある意味、

「息の長い作家」

 というイメージを女性の方は持っていたのだった。

「先生の作品は、この湯と、この宿から生まれていたんでsね?」

 というと、

「いかにもそうですな。ここには、何か不気味さを感じるのだが、どこから来るのか分からない。気が付けば、その不気味さが抜けていたりするくらいで、今までに執筆のためにいくつかの逗留場を探してみたものだが、これ以上の場所はなかったんだよ」

 と言っている。

「なるほど、分かる気がします。私たちはまださっき到着したばかりなので、少しずつ同じような思いを抱けるようになれればいいと思うんですよ」

 と彼女は言った。

 それから、少しの間、彼女と佐山先生との間で小説論議があったが、一通りの会話が終わると、静寂が戻ってきた。

 すると、今度は男の方が、佐山先生に訊ねた。

「ここには、滝がある伺ったんですが、どんな滝なんですか?」

 と訊かれて、

「ああ、ここの滝ですか? ここの滝は、全国でも有数の急流の滝ではないかと思いますよ。これほど急流の場所で、奥まった限られた空間に存在しているところも珍しいので、それであまり有名ではないんでしょうね。しかも、ここは、昔から落ち武者伝説のようなものがあって、ホラー好きの人には穴場として知る人ぞ知る場所になっているようですが、実際には、それほど有名ではないですね」

 ということだった。

「落ち武者伝説ですか?」

「ええ、そうですね。戦国時代の大名が、大阪の陣で逃れて、逃げ道をこちらの方に向けたんでしょうね。落ち武者の人たちは、この滝と、この温泉の場所を知ってはいたんですが、実は昔はこの温泉場は、謎の場所とされていたようなんです。話には聞いたことはあるが、実際にどこにあるのか、地元の人でもなかなか分からないと言われた場所だったらしいんですが、そのせいか、地元の大名には人気がありましたが、他の土地からの人にはこの場所に辿り着くことも無理だったようで、いつしか、鬼門の場所と言われるようになったようです。でも、この土地を通り抜けて地元に戻ろうとした時、このあたりでほぼ食料も体力も限界だったんだそうで、でも、そんな落ち武者たちに精気を取り戻させたのがこの温泉でした。しばらく逗留して落ち着いたら、地元に帰ろうということになっていたのですが、一足追手が早く追いついたようで、落ち武者は惨殺され、温泉宿も一時期閉鎖されたらしいです。でも、少ししてから温泉宿は復活したんですが、その頃にはかつての鬼門という言葉はなくなっていました。しかし、その頃から今までにはなかった滝がいつの間にか出来上がっていて、それであの時のことを、『鬼門の滝』というようになったという謂れなんですよ」

 ということであった。

「そうなんですね。参考になりました。ありがとうございます」

 とそう言って、男は言葉少なく笑顔もないという実に愛想もくそもない対応であったが、佐山先生は、別にお構いなしといった雰囲気だった。

「では、私はこれで」

 と言って、佐山先生は湯から上がっていったが、湯気が深かったせいで、顔を確認することはできなかった。

 当然、相手にもカップルの顔を確認することもできないだろう。

 二人はそのまま少し無言で湯に浸かり、身体がポカポカと温まってきたのを確認したところで、湯から上がった。

 額から軽く汗が滲む程度で、湯から上がったが、着替えを済ませて、脱衣場から出た頃には、その汗が次第にひどくなってきて、額前部に汗が噴き出していて、少しずつ顔を伝って、下に流れ落ちていた。

「大丈夫?」

 自分も同じ状態になっているのを分かっているのか、女性の方は男性の顔を見て気遣っているようだった、

 男性の方もそこまで汗が噴き出しているという意識がないので、彼女の言葉を不思議に感じながら、

「お前こそ大丈夫なのか?」

 と訊きなおしていた。

 お互いにそれが温泉効果であるということは、最初だと分からなかったのだった。

 部屋に帰ると、仲居さんが夕食の準備を進めてくれていた。テーブルの上には料理の小鉢が所せましと並べられていて、中央部には鍋が置かれていた。

 そして、ここはさすが近くに酒蔵があるからか、ビールではなく、日本酒が用意されていた。二人とも、実はビールよりも日本酒派なので、実にありがたいことであり、部屋には鍋料理のおかげか、甘くお肉の沁み込んだ重厚な香りが漂っていた。

 湯気はさっきの温泉を思い出させるのも嬉しい限りで、

「やっぱり、冬というと、お鍋に熱燗ですよね」

 と言って、並べられた食卓を見て、大満足の女性であった。

「奥さんは、大変お気に入りになられたようですね?」

 と言われて、女性は一瞬、ハッとしたが、すぐに顔を元に戻して、ニッコリ微笑んだことがその答えであった。

――気付かれてはいないな――

 と一瞬怪訝な顔になったことを気付かれていないことに安堵した彼女は、すぐに、食事に再度目を向けたのだった、

 男性はというと、相変わらずの不愛想さで、無表情のままだったが、仲居さんも無視することで、問題ないと思ったのだ。

 この二人のカップルは、予約を入れたのは女性だった。

 三日ほど前に、

「三日後に、男女二人での宿泊なんですが、大丈夫でしょうか?」

 と言ってかかってきた。

「ええ、大丈夫ですよ。うちは初めてでしょうか?」

「はい、旅行雑誌に載っていたのを見て興味を持ちました」

 と女が言ったが、普通は旅行雑誌などには載らないところではあったが、一社か二社ほど、

「秘境の温泉」

 というコラムのコーナーにちょいと紹介されたことがあったが、それを見てのことであろう。

「お名前は?」

 と訊ねられて、

「柏木徹と、柏木由香の夫婦です」

 と相手は名乗った。

 会話には別におかしな点はなく、ただ、普通なら予約は会社でもない限り男性が入れてくるのが多いのに、そこが不思議な気がした。

 実際に会ってみると、電話の声は結構高かったように思えたが、会って話すと落ち着いた声なのでビックリした。そのおかげか、年齢の想像がつかなかった。宿泊者カードを見ればいくつなのか分かるだろうが、見た感じでは、三十代前半くらいではないだろうか。

 仲居さんが見る限りでは、新婚にしては落ち着きすぎているので、結婚から最低三年くらいは経っているのではないかと思えた。そう思うと、三十代前半という推理は妥当ではないかと思えたのだ。

 それにしても、こんな辺鄙な宿に、宿泊予定が、三泊四日ということであった。湯治や芸術家のような仕事目的でもない限り、三泊四日もする必要がどこにあるというのか、普通だったら、二泊までがいいところだと思えた。

 仲居さんが見る限り、このカップルは、少し怪しさを秘めているような気がした。

――本当に夫婦なんだろうか?

 という思いである。

――不倫の清算にでも来たのかしら?

 と、まるで昭和のイメージで考えてしまったが、この宿はその昭和のイメージをそのまま醸し出しているだけに、ここで心中事件などがあったとしても、不思議な感じはしなかった。

 だが、さすがに心中に昔ながらの温泉宿を使うという話を訊いたことはほとんどないので、非現実的な想像だと感じたのだった。

 先ほどの佐山霊山先生ではないが、それこそ昔の文豪が、奥さんとの心中を温泉旅館で試みたなどという話をいくらも聞いたことがあった。そのイメージがあるからではないだろうか。

 仲居さんが、この宿では、ほとんどが湯治客か、作家先生などのような常連客ばかりなので、今まで変な心配をしたことはなかったが、カップルが数日間の滞在とのなると、やはり気を付ける必要はあるのかと思っていた。

 そういう意味もあってか、女将さんと相談して、夕食を部屋での鍋にしたのだった。仲居さんがついてのお給仕なので、その時に感じることも多々あるだろうということだった。そのおかげで、意外と心配には及ばないと思えてきたのはよかった気がする。ただ、奥さんは気さくなのは分かったが、旦那の方はほとんど喋ろうともせず、どこか気配を消そうとしているのが分かったほどだ。

――もし、これが最初から私のように気にかけていなかったら、あの旦那さんは、気配を消せていたかも知れないわ――

 と、旦那には、自分の気配を消すことができるという、特殊能力のようなものを持ち合わせているという気がしたのだ。

「ところで、お客さんはこういう温泉宿が好きなんですか?」

 と訊かれて、

「ええ、私たち、新婚旅行も海外に行ったりせず、国内の温泉巡りをするのが新婚旅行だったんです。私もこの人も、海外ツアーの新婚旅行のような型に嵌ったことは大嫌いなので、新婚旅行の時も、二人で観光ブックなどを何冊も見ながら、パソコンでも検索したりして、いろいろ計画したものです。二人とも、自分で計画するのが好きなんですよ」

 と奥さんが言った。

 旦那は相変わらず無表情だが、この話の時だけは、何度も頭を下げて頷いていた。

「それは、よかったですよね。うちの旅館は、ほとんどが常連さんばかりなので、たまにこうやって訪れてこられるお客さんも大歓迎なんですよ。あくまでも、『秘境の温泉宿』としてがありがたいんですよ。人が増えれば、いろいろな人がおれれる。せっかく隠れ家としてここを利用していただいているお客さんにも迷惑が掛かるのだけは、困りますからね」

 と言った。

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