奴隷とプライドの捻じれ
森本 晃次
第1話 奴隷扱い
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。ご了承願います。
あれは、小学生の頃だったか、山内竜彦はいじめられっ子であった。だが、四年生のあたりから苛めが急になくなってきた。なぜ苛めがなくなってきたのか、そのことすら気にする人がいないほど、山内少年は目立たない子供だった。
確かに、苛めっ子のターゲットが別に移ったというだけで、その子も目立たない子供だった。
苛められて何も言えないと、さらに苛めはエスカレートしてくる。まわりの人間も、見てみぬふりというよりも、心の中では面白がっているというのが、本音であろう。見てみぬふりをしている人は自覚はないかも知れないが、苛めている連中、苛められている子供には、面白がっているのがよく分かった。
それでいて、苛めっ子よりも、いじめられっ子に霊感が強い子が多いようで、苛められないようにしようと思って、霊感で感じたことをまわりにいうと、余計なことをいってしまうことで、皆からsらに苛めを受けることになる。
ワクワクするくせに、まわりで見ているだけの連中は、結局平穏な話に落ち着かないと嫌なのだ。自分に火の粉が掛かってしまうこと嫌うという、陰険さが表に出ないことが苛めの一番の問題なのではないかと思える。
山内少年は、小学生の二年生の頃、ふいに自分に霊感があるという話をし出した。最初は軽く受け流していた連中も、耳が痛くなったのか、まわりを去っていくようになり、そのせいか、自分のまわりに誰もいないことを愚痴るようになったのだ。それをまわりのせいにしているように取られての苛めに繋がったわけだが、最初こそ理由が分からなかったが、次第に苛められる理由がわかってくると、
――この苛めはそうは長くは続かないのではないか?
と感じていた。
苛めっ子だけなら、すぐに飽きるだろうと思ったのだ。
だが、まわりの連中の目がそれを許さなかった。苛めのエスカレートを望むようになり、辞めるに辞めれない。そんな状態を果たして、誰も抑えが利かなくなっていた。
傍観者の中にも程度の差があり、苛めをただ見ているだけの人もいれば、苛めているのを見て。自分も一緒に苛めているかのように錯覚する人もいる。後者の場合は、苛めっ子が苛めを辞めてしまうと、自分がどうなってしまうのかが分からないので、目で圧力を加える。
ここまでくれば、
「苛めっ子が、傍観者から精神的な苛めを受ける」
という構図になってしまう。
そうなると、苛めっ子の方も今までと違って、
「ただ、苛めたいから苛めている」
という感覚ではなくなってしまう。
つまり、苛めの効力は、傍観者にあって、苛めっ子は完全に傀儡になってしまう。操り人形としての自分を苛めっ子はどう考えるのか、操られながら、実際に手を下していることで、変なストレスが溜まってくる。
――本当は辞めたいのに、辞められないなんて――
という思い、これは誰にも分からないだろう。
下手をすれば、いじめられっ子よりも辛いことだ。いじめられっ子であれば、苛められているという実害があるので、辛いということは皆が分かってくれることだが、苛めっ子がまさか悩んでいるなど思ってもいないだろう、
「苛めの問題は傍観者にある」
と言われているが、それは、もっと浅い意味なのだろうが、苛めの本質を、苛めっ子側から見ると、そのジレンマを感じることができるのかもしれない。
「苛めっ子もまた、被害者だ」
ということになれば、負の連鎖が引き起こされ、苛めというものが、半永久的に残っていくのも分かるというものである。
山内少年は、いじめられっ子の立場であったが、小学四年生の頃になると、苛めっ子の悲哀もなぜか分かるようになっていた。
だが、自分が苛められているのに間違いはないので、同情もできない。それがジレンマとなって心の奥に入り込んだ。
そのジレンマは苛めがなくなっても、実は残っていた。心の奥に闇を見ていたのかも知れないが、その心の奥の闇に入り込んできたのが、同級生の村山茂だった。
村山少年も学校では目立たない存在だった。だが、彼が苛められているところを想像することはできなかった。なぜなのかというと、彼には人を寄せ付けないオーラがあった。だから彼のまわりには誰もおらず、気配を消しているところがあったので、誰にも迷惑もかけずに、無難な毎日を過ごしていたのだった。
しかも、彼には、自分で意識している以上に、まわりは彼を意識していなかった。目の前にいても、まったく気づかない、石ころのような存在であった。
だから、苛めに対しても余計な感情を持たない。まわりからは、
「何を考えているのか分からない」
と彼を意識できている人にはそう思わせたのだが、彼もそれを普通に受け入れて、
「そうか、僕は何を考えているのか分からないんだ」
と考えた。
「まわりに流されやすい」
という言葉があるが、それとは少し違う。
流されるというよりも、余計にまわりの影響を受けて、それだけに、まわりが意識しない保護色の様相を呈していたのだった。
その思いは、山内少年と似ていた。だが、山内少年は、気配を消すことができないのでいじめられっ子になった。逆に山内少年は、自分で思っているよりも、まわりに影響を与えているのだろう。
それまで人の間をすり抜けるように生きてきた村山少年は、山内少年を初めて意識した。そのせいで、山内少年も、村山少年を意識するようになったのだが、二人は次第に主従関係に変わっていった。
村山少年が主なのだが、最初に主従を感じたのは、山内少年の方だった。自分が従であるのを、いじめられっ子の意識が強いせいか従に対して、違和感がなくなっていったのだった。
村山少年の方も、それまでの自分が石ころのような存在だったことを忘れてしまったかのように、意識は全集中で、山内少年に向かっていた。
それでも、まわりに対しての石ころの様子は変わりなく、その感覚があるので、村山少年の主の感覚はまわりにはなく、山内少年の従だけが皆に印象として残る。それがまわりに気持ち悪さを抱かせて、それが苛めがなくなる一番の原因だったのではないだろうか。
そんな関係だったなど、小学生の自分たちに分かるはずもなく、苛めがなくなると、山内少年は、村山少年の奴隷になってしまったのだ。
苛めと違って、村山少年の自己都合だけで、山内少年を蹂躙することはなかった。ただ、山内少年は、
「自分は、村山君のものだ」
と思っていたので、村山少年の自己都合であろうが何であろうが、関係なかった。
だが、村山少年は、
「自分が主になった以上、自分だけの都合で理不尽な命令はできない」
と思ったのだ。
それをしてしまうと、
「他の連中がしていた苛めと変わらなくなるどころか、苛めを誘発する傍観者の無言の圧力と変わらないのではないか?」
と感じたのだ。
そんな状況を小学生の頃に味わってから、それ以降は大人になるまで、ずっと二人の主従関係に変わりはなかった。
思春期になっても、主従関係ではあったが、決して村山は、理不尽なことはしなかった。却って、
「従者に気を遣うのは、主者としての務めのようなもの」
とまで思えていて、お互いの中で暗黙の了解がたくさん発生していることで、主従関係が成り立っていた。
「主従関係というのは、中世における封建制度のようなもので、主側も、従側もそれぞれに見返りがあり、それを見返りとして意識させないことが、お互いの関係の均衡を保っているのだろう」
と思われた。
すべてを主の利益にしてしまうと、それは、もうすでに主従関係ではないのだ。
思春期の時、二人にはその思いが確定した。それまでは理想として思っていたが、その意識を証明するものがなかったからだ。思春期になってその証明がされたことで、二人は揺るぎない主従関係で結ばれた。
だが、そんな公平な主従関係は長くは続かなかった。思春期のように、脆く崩れやすい精神状態にて、絶えず、お互いがすれ違いそうなバイオリズムを保っていれば、交わることがなくなってくる。そうなろと、それぞれに自分が主であり、従であるという感覚がよみがえってきて、主に主の、従には従の感情が息づいてくると、一方通行の主従関係が芽生えてくる。
それは、封建主義ではなく、奴隷制度における主従関係に近かった。
そんな感情をそれぞれに抱かせたのは、一人の女性であった。同級生である彼女は、一種の金持ちのお嬢様で、そんな彼女が最初に興味を持ったのが、山内青年だった。
学校では普通なので、村山青年との間に存在する主従関係に気づく人はそんなにいない。クラス数十人の中で、一人か二人が気付けばいい方なのに、彼女はその一人だった。
やはり、お金持ちの家に育っていると、家の中で家族全体に主という雰囲気が漂っていて、それ以外の人たちは従だという雰囲気に包まれている。子供心に、
「自分を含めた家族は主であり、それ以外の人たちは従者なのだ」
と感じていた。
彼女の名前は鳳麗子という。
名前の通り風雅さを醸し出した彼女は、豪邸に住み、家族は優雅な生活を営み、それ以外の家事と言われる普通なら母親が行うことをすべて分担で家にいる、
「召し使い」
たちが行うのだ。
父親は、いつも仕事ということで家にいない。話によると、海外を飛び回っているとも聞いていた。
母親は、屋敷の中の庭の花壇の手入れであったり、ピアノを弾いたり、読書に興じたりと、芸術的なものや、美しいものを愛でることが多い。
「私は美しいことには目がないの。それに芸術的なことであれば、さらに熱中できるわ」
といって、屋敷の中に飾られている半分近くの絵は、母親が気に入って購入したもののようだった。
父親はそんな母親を誇りに思っているということだ。
「他のご婦人には、お母さんのような芸術や美を見極める力は持ち合わせていないだろう。彼女こそ、美の神様に選ばれた女性なんだ」
と、絶賛していた。
さらに、
「麗子もそんなお母さんから生まれたのだから、美に対しての並々ならぬ感情があるはずだ。これからの成長が楽しみだよ」
と、子供の頃から言われ続けてきた。
中学生になって、麗子もその自覚が芽生えてきたのは、
「お母様にだんだん似てまいりましたわね」
と、麗子の小さい頃から、この屋敷に尽くしてくれている母親の花壇係の女性だった。
母親の花壇は、まず母親が手入れをしてから、最後の整備を召し使いが行う。その役目を担っていた女性から言われたのだ。
その言葉は思春期の麗子にとって、嬉しい言葉だった。自分もこれから成長し、美を奏で、そして、美をいつくしむことのできる大人の女性になれると確信したからだった。
その頃の麗子は、大人の女性に対して、
「美を奏で、美をいつくしむことのできる。美に愛された女性だ」
と思っていたからだ。
麗子は小学生の頃からピアノを習い、絵の先生について、油絵も勉強していた。さすがに小学生で油絵まではなかなかうまく描くことはできなかったが、鉛筆画のデッサンにはさすがと言われるほどの才能があるようで、小学生の頃の美術では、よく先生から褒められていた。
そんな美しいものを一番に感じ、美以上のものはないと考えることを、
「耽美主義」
と言われているようだが、麗子の
「美を奏で、美をいつくしむ精神」
というものは、まさに芸術における「耽美主義」と言えるのではないかと感じていた。
その精神は、母親から脈々と受け継がれ、豪邸の中でお姫様のように育った麗子には、それ以外の感情はすべて、劣等でしかなかった。
学校に行けば、まわりには自分に劣る劣等どもがうようよしている。
「学校というところは、中学校までは義務教育なので、行かなければなりません」
と教えられたので、まわりは劣等しかいないと分かっていながら、そんな連中に関わらなければいいという思いだけで学校に通っていた。
まわりも、中には露骨に媚びを売ってくる人もいるが、ほとんどは関わろうそしない。媚びを売ってくる連中は、奴隷のごとく、扱えばいいというくらいに考えていた。それでもさすがに中学生という自分も子供なだけに、相手を奴隷として扱うまでの術を知らず、持て余していると言ったところであった。
そんな麗子の目に映ってきたのは、村山に奴隷のごとく扱われる山内だった。他の人に分からない主従関係を、麗子だから感じたというのは、前述のことから至極当たり前のことであり、麗子の目には村山の存在は映っておらず、ただ奴隷のごとく虐げられている山内の姿だった。
しかし、山内には自意識がないのか、奴隷のごとくの扱いに、卑下した気持ちはなさそうだ。何を考えているのか、人間であって人間でない。自らが人権を放棄したかのようなそんな雰囲気に、麗子は全身に電流が流れたかのような衝撃を受けたのだ。
そんな彼を自分の奴隷にしようという気持ちは最初に持っていたわけではない。逆に奴隷扱いをされ、感情を表に出さない山内に対して、美を感じたのだ。
それは本当の美ではなかった。自分が学校という別世界で興味を持つ相手には、必ず何かの理屈をつけなければならないという義務感のようなものだ。だから、どこまで感じたのか分からないが、山内に対して、、
「まやかしの美」
というものを感じてしまったのだった。
美というものが、麗子の中で、
「揺るぎなく動かせない存在」
という意識があったので、彼のように、まわりに抗わない従順な状態を、
「静寂の美」
と感じたのだ。
動かないというのは、ブレないという意味であり、山内を見ている限り、何かまわりで変化があっても、決してブレることのない思いを抱き続けると思えたのだ。
それが美というものであり、
「究極の耽美主義だ」
と思えてならなあったようだ。
ここまでハッキリとした意識があったのかどうかは分からないが、普通の人間では到底感じることのできない思いを麗子は感じることができる。
少なくとも、まわりは分かっていなかった山内と村山の間にある奴隷関係を簡単に看破できるのは、麗子の他に誰もいないに違いない。
そんな麗子は、山内に近づくことにした。
今まで学校でほとんど誰ともかかわりを持ってこなかった麗子だったが、そんな麗子に近づく輩や、麗子が近づこうとする輩に対して、彼女に媚びを売ってきた連中は敏感だった。
こともあろうに、こちらも学校では存在を消しているかのような山内に靡くなど、考えられないことだった。
ちなみに、山内が存在を消す術を身に着けたのは、主である村山を見ていて、自然と身につけた技だった。村かもの持っているものを吸収し、実践できるだけの力は、虐げられた人生を送っている山内の唯一の能力だといってもいいだろう。
そんな山内に麗子が靡いたのだから、麗子は、自分に媚びへつらう連中が黙ってはいないと思ったが、いつまで経っても、やつらの憤りを感じることはできなかった。
「おかしいわね」
と麗子は感じていたが、やつらとしては、無理もないことだった。
「あんな生きる気力もないようなやつに嫉妬したって、どうしようもない」
と思ったのだ。
麗子に靡かれた山内はというと、山内も主のような感じがしたのか、麗子に靡いてしまった。自分に簡単には靡いてこないはずの山内が靡いてきたことで、一気に気持ちは冷めてしまった。
「私は一体何を考えていたのだろう? あんなやつに靡こうとしたなんて」
と一気に目が覚めて、我に返った感じだった。
「こんなだから、学校なんて、面白くないんだわ」
といって、麗子は高校には入学したが、結局通わなくなり、出席日数が足りなくて、退学ということになった。
麗子に対しての情報はそこまでで、その後の麗子がどうなったのか、知っている人はいなかった。
結局麗子に置き去りにされた形の山内だったが、少しの間、一人でいたが、いつの間にかまた、村山の奴隷に戻っていた。
「これが自然な姿なんだ」
と、思っていたことだろう。
高校生までは同じ学校に進んだ二人だったが、高校卒業後は進路が別れた。
大学に進学した山内と、高校卒業後就職した村山、それぞれ、普段の生活は別々だったので、進路の違いは致し方なかった。
勉強が嫌いで、大学進学は最初から考えていなかった村山に対して、芸術を志したいということで、美術の道を高校時代から志していた山内の心の中で、まだ中学時代の麗子の面影を見ていたのかも知れない。
麗子に置き去りにされて、村山を頼って、さらなら奴隷扱いを余儀なくされた山内だったが、奴隷扱いの中でも、自分の個性を伸ばすという部分では完全な奴隷ではなかった。
奴隷扱いをするということは、確かに人間扱いをせず、人権も否定する形になるのだろうが、それには、相手を養うという最低限の条件がついてくる。それが対価となるのか、生活の全面的な補償になるのか、少なくとも同じ学生である村山にそのようなことはできるはずもなかった。
お互い学生で、社会的には同じ立場、相手を奴隷扱いするのであれば、相手の生活を保障しなければならず、そんなことはできるはがないという理屈は、二人の間にだけ存在していた。奴隷として手放したくない村山には、山内が自立できるだけの努力を支援する必要があった。
「大学に進学して、美術を身につける」
と言った彼の気持ちを尊重しなければいけない。否定することは、彼に許される選択肢ではなかった。
大学に入ってからの山内は、次第に、
「耽美主義」
にのめり込んでいく。
「昔の芸術家には、耽美主義者が多くて、中には犯罪に手を染めた人もいるように聞いている」
といっていたが、その通りだろう。
表に出てこない人も結構いて、彼にとっての耽美主義は、中学時代における麗子の耽美主義とは違ったものだったのだろうか?
芸術が気になるようになったのは、奴隷として自分を意識するようになったからなのかも知れない。
奴隷が嫌というわけではない。自尊心や、虚栄心さえなくせば、自分が奴隷であるということを妨げる気持ちはない。そもそも、自尊心も虚栄心も、生きていくために、他のことに自信が持てないことから感じるものではないかと思うことで、生きてさえいければ、必要のないものだという思いが、山内にはあった。
本当はそこに欲が生まれたりしてこそ、生きていきための気持ちが形成されていくはずのものなのに、山内にはそれがない。だからこそ、
「奴隷としての気持ちにふさわしい」
と言えるのではないだろうか。
そんな気持ちがないことで、
「誰かに頼らなければ生きていくことができない」
と言えるのであって、
そのためには、自分に対しての感情は不要なものだと思うようになるのではないだろうか。
そこで求めるのが、まわりに対しての感情。それが美というものに対しての執拗なまでの感情の表れ、これは、麗子や、その母親の求めている耽美主義とは明らかに違っているものである。
あの二人には、生きていくためのものは備わっていた。ハッキリとした形としては、金であったり、屋敷などの有形財産などであり、無形財産として、気持ちに余裕を持つことで、求める美というものを自らで作り出すという感情であった。
しかし、山内の場合は、生きているというだけで、今後の保証も生きていける根拠もないので、毎日を不安に過ごしながらも、自らを奴隷に貶めて、今後を保証してもらえるようにとの感情から生まれた、
「耽美主義」
ではないだろうか。
つまりは、自らの奴隷としての自分だからこその追求する美が、誰にも知られないところで人知れずに咲いているとされる、
「美しい花」
のようなものではないかと思えてならなかったのだ。
だから、まわりの人が奴隷のような姿を惨めだとして、目を背けることに疑問を感じ。同じ生きていくために、皆同じように必死になっているその一つの手段なのだと認めないのか、それが分からないのであった。
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