第6話 主治医関係
さすがに今回の事件の犯人は酷いやつだとは思いたくないのだが、少なくともどんな理由があるにせよ、人を殺しているのだから、比較にはならないとしても、この男のことを思い出してしまうのが秋月だった。
しかも、殺された人は、かつて自分も好きであった。今は兄貴の嫁になっている女性である。
この二人はそれぞれに浮気相手がいたということで、ある意味救いようのない関係だったと言えなくもないが、女性側の家が由緒正しいという意味では、浮気や不倫をする感覚が、同じように異性別紙にあるのかも知れないと思う。
子供の頃から、ある程度のものは親の力、いや、親の金の力で得ることができたのだろう。
それを思うと、
――相手の気持ちを考えるなどということができるのだろうか?
と感じる。
相手の気持ちを分からない人だからこそ、相手が自分のことを分かってくれないことが分からない。同じ立場になった場合、相手の気持ちが分かるくせに、相手の気持ちになることで、自分が考えたくもない思いにいたらされるということを感じるからであろうか。考えたくもないことに関しては敏感になってしまうと、相手から、
「この人は何が分かって、何を分からないというのか、さっぱり分からない」
と感じさせられてしまうのだろう。
秋月は、自分の兄と自分とが同じような感じだったのではないかと感じていたのだ。
では綾子はどうだろう? 自分にも似たような人が身近にいるのではないだろうか。それを思った時、最初に頭に浮かんできたのが、片桐澄子のことだった。
綾子は、片桐澄子とは、小学生の頃からの幼馴染だった。綾子が今は大学を卒業してから、定職にもつかず、デリヘル嬢をしていたのは知っていた。澄子の方ではきっと、そんな綾子のことを軽蔑していただろうと思う。しかし、綾子の方も彼女が会社で不倫をしていることは知っていたが、まさかそれが、目の前にいる秋月の、かつての思い人であり、この間殺された女性の旦那だなどと、思いもしないだろう。
もし知ったとすれば、
「世の中というのは、何て狭いんだろう」
と思ったに違いない。
そして、これはさすがに偶然に過ぎないと思おうとしても、簡単に思い切ることができないような気がした。
綾子は、澄子とは、高校を卒業してから二年前までは、ほとんど連絡を取っていなかった。お互いに途中でメールアドレスも変えてしまい、綾子の方がアドレスを変更したことを通知しようとすると、宛先なしで返ってきたのだ。
要するに、彼女はこちらに通知なしでアドレスを変えていたことになる。
そんな彼女と、二年前、駅前でバッタリと出会った。何と相手から話しかけてきたのだった。
「てっきり嫌われていると思ったんだけどな」
というと、彼女は、本心から悪びれている様子もなく、口では、
「悪い悪い」
と言っているが、これが彼女の性格だったことを思い出した。
基本的に人に気を遣うことをしない。気を遣わないというよりも気が付かないのだ。本人に悪気があるわけではない。だが、それだけに悪質だとも言えるだろう。
子供の頃からそんなところがあった。気に入らなければ、友達であろうと置き去りにして帰ってしまうことがあった、
「私は別に気乗りもしないのに、どうしてもって誘うから」
という理由で、電車に乗り遅れた時、急いで出向くわけでもなく、さっさと帰ってしまったほどだ。
本人とすれば、
「嫌だって言ってる私を誘うからよ」
と言いたいのだろうが、誘った方としても、まさかそこまで薄情なことをするとは思ってもいなかった。
子供だからこそ、そんな残酷なこともできるのだろう。
大人になってからでは、理性が邪魔をするというものなのだろうが、一度その精神が身についた人にとっては、大人になったからと言って性格を変えるのが逆に怖かったりする。
「どうせ皆、私の性格を薄情な人だと思っているんだから、その通りに思わせておかないと、お互いに接しにくくなる」
というおかしな理屈を考えるようになる。
澄子という女性もそういう女性だった。
いつも自分一人でいることが多い癖に、寂しがり屋で、何とかまわりに馴染めるようになると、自分で自分が物足りなくなってくる。
そうなると、たえず、
「仮想敵」
を作っておかないと、自分が人とどのように接すればいいのかが分からないので、反発することで、自分の存在感を示そうとしている人間は、もう自分の形を他では作ることができなくなってしまうだろう。
「人とかかわりを持たないとダメだ」
という意識はあった。
だが、それをまるで人間が生きていくための背負っている糧のようなものだとすれば、それが足枷や手枷となって、自分が誰かに拘束されているという思いに駆られてしまう。
綾子は、足枷や手枷が自分にくっついている感覚を感じたことがあった。
あれは、大学の頃小説を書くのに、何かネタをと探していた時、オカルトサークルの部員が持っていたSMグッズを見せてもらったことがあり、手枷足枷をつけてみたものだった。
思ったよりも重たかった。じゃりじゃりという音が耳に響く。人を拘束するための道具として今まで感じていたくせに、実際には違うもののように感じていた。
拘束することに変わりはないのだが。あくまでも、自分に対して服従させるという意味合いが強い気がした。意外と手枷足枷をつけている人間は、もし、それが取れて少しでも自由の身になれたとしても、すぐにはその場から立ち去ることはできないだろう。
それだけ手枷足枷の効力は強いのだ。
自分を拘束しているという意識が強いことで、自分が逃げれば、他の人が見せしめに殺されるということが分かっていたからだ。それが奴隷の精神なのかも知れない。しょせん気持ちの中では、
「何をやっても、自分はこの現実から逃れることなどできない」
というものがあるからだろう。
どうしても、委縮してしまって、身体が動かない。それが身に就いた奴隷精神ではないだろうか。今まではそんな精神の欠片もなかったのに、一度身体に手枷足枷が身についてしまうと、逃げることなどできなくなる。
逃げようという意識がなく、拘束されていたことが却って気が楽だったと思うはずである。
「一体、逃げるってどういうことなんだろう?」
綾子は友達の少ない女の子だった。だから、綾子がデリヘル嬢をしているなどということを知っている人はほとんどいない。知り合いの中にそのことを明かすような人はおらず、今は彼氏もいなかった。
それでも、
「寂しい」
という思いはなかった、
生きるということに感覚がマヒしているところがあったからだ。
「一生懸命に生きているだけで十分、目の前のことをこなすだけで精いっぱい。余計なことなど考えている暇はない」
と思っていた。
そもそも、余計なことやネガティブなことを考え始めると、底なしだった綾子は、
――私は、考えがまとまらず、絶えず何かを考えてしまう時って、堂々巡りを繰り返しているのであって、決して袋小路に迷い込んだわけではない――
と思っていた。
袋小路に迷い込むことと、堂々巡りは違うものだと思っているのだった。
堂々巡りを繰り返すというのは、まったく同じ場所を行ったり来たりしているということであり、袋小路に迷い込んだというのは、
「迷い込んだ」
という言葉が示す通り、迷路に入り込んでしまっただけで、同じ場所に戻ってくる可能性が限りなく高いだけのことだ、
しかし、結論として、袋小路に迷い込むんだと理解するには、同じ場所に戻ってこなければ、かなり難しいのではないかと思うことから、袋小路に迷い込むということは、もう一度同じ場所に戻ってくること、つまり堂々巡りと同じことになるのではないかとも思うのだった。
堂々巡りというのは、やはり、
「巡り」
という言葉が示す通り、もう一度同じ場所に戻ってくることを必須としているので、袋小路のような迷路ではないが、ごく狭い範囲で元の場所に戻ってくることを、
「堂々巡り」
という表現でいうのではないかと思うのだった。
そんな綾子の気持ちを知ってか知らずか、分け隔てなく、子供の頃から接してくれたのが、澄子だったのだ。
澄子は人を変に差別するようなことはしない。差別をしない代わりに、人に気を遣うこともない。最初に澄子に対して感じた思いが自分にとっての救世主のように思えた綾子は、澄子に対して従順であった。
ここからの澄子はその気持ちを間髪入れずに察したのだろう。それも彼女の特徴であり、そう思うと、綾子は自分にとっての傀儡のように思えた。
「私の考えていることを忠実に達成してくれるしもべのような存在」
それが、綾子だったのだ。
周りからは見えにくい主従関係で結ばれた綾子と澄子、お互いに最初の頃は、この関係を、
「当たり前の関係」
と思い、まったく不思議に感じることはなかった。
澄子の方は今まで結局一度も綾子に対して、
「自分が主である」
という意識を変えたことはなかった、
だが、綾子の方は、少しでも距離が空いてしまうと、綾子を見た時に、それまでの自分の残像が残っているのが見えるのだ。
「今の自分と綾子は、距離が離れたんだ」
と、残像を見ることで改めて感じるという鈍感な面があるにも関わらず、
「ひょっとすると、皆も自分と同じような主従関係の人が一人はいて、その主従関係を離れた時に残像として見ることができないから、その主従関係の存在について、理解することができないのだろう」
と、自分が主従関係の従であるということを認めたく無い理由なのだろうと思うのだった。
澄子という女の呪縛は、子供の頃の黒歴史であって、連絡先のアドレスが変わっていたことを感じた時、ホッとした気分になった自分を、今ではいじらしいと思うくらいだった。何といっても、一番出会いたくないと思った相手だったにも関わらず、二年前に出会ってしまった時、
「少しでも変わってくれていればな」
という淡い期待を抱いたのだが、そんなものは、希望的観測に過ぎなかったというだけのことであった。
今から思えば、
「澄子という女は、どんなことでも平気でできる女だったのではないだろうか?」
という思いがあった。
子供の頃は、綾子という従者がいたことで、自分が何か悪そうなことをしても、それは綾子に責任を押し付ければいいとくらいにまで思っていた。
もちろん、謂れのない責任を相手に負わせるなど、そう簡単にできるわけもないが、それだけの悪知恵を、澄子は持っていたような気がした。
だから、綾子は、
「ヘビに睨まれたかカエル」
のように金縛りに遭ったかのように感じると、まったくもって、澄子の考えに従わないわけにはいかないのだ。
そんな主従関係を看破する人はまわりには誰もいない。綾子の行動や言動を、
「何か不自然だ」
とは思っても、その背後に澄子がいることを知らない人たちが、皆何かがおかしいと思いながらも、そこに違和感の発展はなかったのだ。
大人になると、さすがに、二人の関係を、
「どこかおかしい」
と感じる人も出てきたようだ。
大人というものが、子供の頃に気付かなかったことでも気づかせてくれるという意味で、成長したものだとすれば、この違和感を感じてくれることへの正当性のように感じるのだが、そこまでは綾子はハッキリと実感できたわけではない。
実感ができないということは、理解していないのと同じであり、頭では理屈としては解釈できても、感覚が受け入れられていなければ、それを本当の実感だとは思えないのではないだろうか。
今年になると、いよいよそんな綾子が、
「私は覚醒したのかもしれない」
と感じたことがあった。
それは、澄子から自分が脱却できるような気がしたからだった。
それを一番感じたのが、
「澄子が結婚した」
ということを知ったからだった。
結婚するということは、、
「自分が夫婦生活において、十社になるということである」
と、綾子は感じていたからだ。
綾子は、今でも、
「人間関係というものには、少なからずの主従関係というものが存在している」
と思っている。
それは誰にでもあるものであり、見えているか見えていないかの違いだと思っているのだった。
だから、夫婦関係は、二人三脚だなどと言われているが、それはきれいごとであって、実際には、
「旦那が主人というその名のごとくの主であり、女房は従なのだ」
と思っていた、
夫婦というものは、いくつも形があり、中には、
「女房が主であり、旦那が従である」
という関係もあるようだが、そんなものは本当に稀であると思っていた。
だから、澄子は結婚した時点で、主ではなくなった。いわゆる、
「普通の人に成り下がったんだ」
と思ったのである。
その瞬間、自分の呪縛は解け、逆に彼女に対して、
「自分が主になれるのではないか?」
とまで感じたほどだった。
「結婚は人生の墓場だ」
と言われているが、本当は主従関係をまったく意識せずの言葉であるが、
「主従関係があってこそ、この言葉は重いんだ」
と綾子は感じていた。
だから、綾子はまだ結婚はしたくはなかった。このままの精神状態で結婚などすれば、自分は永遠に従という立場から逃れることはできないと思ったからである。
「澄子のような女性が、従のままで満足できるわけはない」
と、綾子は思った。
そういう意味からも、
「澄子は誰かと不倫をするようになるんじゃないか? それも早い段階で」
と、感じた、
その理由は自分がデリヘル嬢をしているからで、デリヘル嬢をすることで、男女関係であったり、男性の気持ちなどが分かるようになり、常連の客と話をすることで、彼らが心の奥に秘めた思いを知ることができるようになっていた。
そのおかげもあってか、一度だけの客でも見ていると、どのような性格かを大体分かるようになってきた。
確かに人間というのは、男女問わず、個人個人で性格は違うものであるが、基本的には数種類のもので、微々たる違いはあっても、その数種類に区別することができるというものだ。
人の性格を把握するのが難しいと思うのは、
「人間、皆一人一人性格が違っている」
と思うからで、微々たる性格を把握するのは後でもいいと考えて、まずは数種類のパターンに分けることで、人の性格をある程度把握できると考えれば気が楽だと思えるはずではないだろうか。
綾子は今のお仕事を始めたことでそれができるようになったと自負している。ただ、そこまで分かっていても、なかなか気づかないのは自分のことであって、やはり自分の姿は鏡のような媒体を見ない限り、感じることができないと思うからだった。
綾子は、再会した澄子に、根本的なところでの従の気持ちは抜けていなかったが、彼女の性格を把握することで、従ではありながら、決して相手に、自分に対して主の気持ちを起こさせないということへの自信のようなものがあることを感じていた。
そんなことを考えている時、
「僕の兄貴も不倫していたんだが、その相手というのを、最近知ったんだ」
と秋月は言った。
それを聞いた綾子は、漠然として、その話を訊いていた。
名前を聞いたところで、知らない相手であれば、それは他人事でしかないということを感じていたからだった。
だが、彼の口から出てきた名前が、
「片桐澄子っていうんだ」
というではないか。
綾子は文字通り、頭の中で、「!」マークがチラついたのを感じた。思わず、
「えっ!」
と呟いてしまったことが分からないくらいで、しかもその声は、かなり素っ頓狂だったようで、秋月にとっては、かなり大きく意外な気分にさせるほどだったようだ。
「どうしたんですか?」
と、思わず秋月が呟いたほどだった。
その時、秋月はその声の意味をすぐには把握できないほどの意外なタイミングだっただけに、綾子の戸惑いが見えてはいたが、その時の綾子の心境がよく分からなかった。そして我に返った綾子から、自分がその片桐澄子とは知り合いだということを訊いても、別に不思議はない気分になったほどだった。
相手が自分の想定以上に反応した場合、自分の方から相手と若干の距離を取るようになったのは、それが自分の性格であるということに、綾子はまだ気づいていなかった。
「秋月さんは、どうしてそのことをご存じなんですか?」
と訊かれた秋月は、
「実は、玲子さんからその話は聞いていたんです。でも、僕としては本当はそんな話を訊きたくもなかった。でも、相談があるからということで訊きに行った話がそれだったんです」
というではないか。
「それを聞いたのって、いつだったんですか?」
と訊かれて、
「実は、例の死体を発見したあの日だったんです。つまり、あの日は僕にとって、まず玲子さんから想定してはいたが、それ以上にその話を、玲子さん本人から聞かされてショックを受け、そして、そのショックの衝動から、デリヘルに初めて連絡を入れ、綾子さんと出会ったんです。しかもさらに最後の最後でエレベータ―の中で殺されている玲子さんを発見するという羽目に陥ったというような、波乱万丈な一日だなったんです」
と秋月は言った。
――あの日の彼が、普通の初めてのお客さんの中でも、少し違って見えたのは、そんな理由があったからだったんだ――
と綾子は一人考えた。
確かに初めての客というのは、その時々で違った感情を持っているが、ほとんど想定内のことなので、綾子の方も、初めてをもらえるということで、いつもドキドキできて、えっ香嬉しいものである。
秋月に対しても同じようにドキドキした感覚を与えられて、これ以上嬉しいと思ったこともなかった。
だが、そこには、何かを絞り出すような感情があり、その絞り出す感覚を一緒に自分が味わってあげられることが嬉しさを有頂天にさせたのだった。
その後の死体の発見ということで、事件への興味と言って、彼との連絡先を交換したのが理由だと言ったが、本当はそれがなくても、彼に対して、今までにないだけの感情を抱いていたことで、
――ぜひ、連絡先を交換できれば――
と思っていただけに、殺人事件を目撃したということを理由にできたのは、嬉しいことだった。
今までにも綾子は、
――このまま別れたくないな――
と思ってはいたが、連絡先を交換したことがなかった。
もちろん、店からの禁止要綱でもあったし、変な相手だったら、どうしようもないという思いがあるからで、ただ、後者の場合は、あくまでも、自己責任においてのことだという思いがあったのも事実だった。
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