第2話 通路の殺人
彼が初めてだということで、モコちゃんは、彼に風俗についていろいろ話してくれたが、彼にとってはまだまだ分からないことが多く、どうしても他人事だった。特に風俗における「隠語」などは難しく、彼がヲタクになれないのは、そういう隠語が多いことを毛嫌いしているからだった。
それでも話は興味を持って聞いたが、果たしてどれだけの内容を覚えているか、分かるわけもなかった。
最後に二人でシャワーを浴びて、その時に、
「お名前は何てお呼びすればいいかしら?」
と訊かれた彼は、
「じゃあ、さくちゃんと読んでください」
と言った、
「さくちゃんね。分かった」
と言って、モコちゃんは納得した。
「今日はどうもありがとう」
と言ってモコちゃんが部屋を出ようとした時、
「実は私ね。このお仕事始める前、メイドカフェでお給仕していたことがあったの」
と言って笑っていた。
「じゃあ、アイドルを目指していたの?」
と聞くと、
「うん、実は今でも目指しているんだけどね。私がアイドルデビューできたら、私を見に来てね」
というので、
「うん、もちろんだよ」
と答えた。
最初は、モコちゃんだけを先に出させるつもりだったが、
「やっぱり、一緒に出よう」
と言って、さくちゃんも荷物を持って、部屋の表に出た。
ここの部屋は四階にあるので、エレベーターを使う。もっとも、ホテルというところは、二階であっても、エレベーターを使うのが一般的らしく、部屋はそのえれべたーから一番遠いところであった。というか、エレベーターは中央部にあり、この部屋が、建物の端の方にあったのだ。部屋を出てエレベーターは見えない、二部屋ほど通り過ぎて、角を曲がる形で中央をぶち抜きになる通路が見えてきて、そこでもまだエレベーターは見えない。エレベータがあるところは、中央部分の少し入り込んだところに小さな踊り場があって、そこに二基のエレベーターがついていたのだ。二人は部屋を出てから、エレベータまで腕を組んで歩いた。いちゃいちゃしながらのその姿はまるでカップルのようで少し恥ずかしかったが、逆にこういう場所なので、却って当たり前ぽくって、違和感はなかった。
ほとんど無口で歩いてきたが、さくちゃんの方は、まだ緊張していた。部屋の中でサービスを受けているよりも、表でいちゃいちゃしているのは恥ずかしくはなかったが、緊張はしたのだった。
エレベーターはちょうど四階で止まっていて、下向きの矢印を押すと、甲高い音が静寂を破って、軽く籠ったような音を立てて、エレベータの扉が開くと、一瞬、モコちゃんが固まってしまったのを感じた。
さくちゃんの方も、最初は何が起こったのか分からなかったが、震え出したモコちゃんを見て、事の重大さに気づき、何をどうしていいのか、その場に立ち尽くした。
だが、こういう場面は初めてだったくせに、急に落ち着いてくる自分を感じ、すぐにエレベーターに入って、開くの扉を押したまま、モコちゃんに、
「僕はここで、エレベーターが動かないように見張っているから、誰か呼んできてもらえるかい?」
と言った。
あれだけ緊張していたさくちゃんが、想定外に落ち着いているのを見て、モコちゃんも我に返ったのか、
「うん、今いた部屋にきっと掃除が入るだろうから、戻ってみるわね」
と言って、モコちゃんは、今の部屋まで戻っていった。
エレベーターの中には一人の女性が座り込んで向こうからの壁にへばりつくようにもたれかかっていた。背中にはナイフが突き刺さっていて、そこから真っ赤な血が、洋服を通して、流れ落ちていた。
状況から考えても、刺されたのは、たった今であるのは想像がつく。さくちゃんはまだその女性が生きているのではないかと思い、なるべく彼女に触らないようにして、腕だけ触って脈を診たが、どうも脈波打っていないようだった。身体はまだ暖かいので、殺されてから時間は経っていない。
「呼んできたわ」
と言って、モコちゃんが二人の中年のいかにも掃除婦と言った制服を着ている二人組を連れてきた。
「ぎゃっ」
と、女性の方が一言発したが、大声を出さないのはさすがと言えるかも知れない。さっそくケイタイを取り出し、電話をかけていた。どうやら、フロントに電話を入れ、オーナーに連絡してもらうようだった。その間、状況を説明していたが、電話を切ると、
「すみません、すぐに警察に通報するということですので、お二人は第一発見者ということになりますので、警察が来るまで、申し訳ありませんが、待機していただくことになると思いますが、よろしいでしょうか?」
と言われた。
「こういう状況ですから、私は構いませんよ」
と言って、さくちゃんは言ったが、
「私も構いませんが、少し連絡だけはさせてください」
と彼女は言った。
掃除係の人も、ホテルの使用目的にデリヘル使用者が多いのは分かっていたので、彼女が事務所に連絡しているのを聞いて、すぐに彼女がデリヘル嬢だということは悟ったようだ。
もし、これが不倫カップルだったりするとややこしいことになりそうだが、風俗嬢と客であれば、そっちのややこしさはないだろう。どうしても、知られたくない人がいるとは二人を見ていて思えないからだった。
女の子は普通のデリヘル嬢。男性の方はさえない男性、とてもモテるとはお世辞にも言えないようなタイプで、二人はゆっくりと見つめ合いながら、どうしていいか考えあぐねているようだった。
さくちゃんはもちろん、こんな場面は初めてであった。ラブホテル自体入るのも初めてだっただけに、警察が来るまでの時間がどれほど待たせられるか想像もついていなかったが、気札がやってくると、あっという間だったような気になっていた。
モコちゃんの方も、ホテル利用は何度もあったが、ホテルの通路というと、本当に仕事場へ向かうただの通路というだけで、いつも意識しないようにお仕事がすめば、すぐに表に出て、送迎してくれるスタッフの止めている車に、
「お疲れ様です」
と言って乗り込むだけの、ただの文字通りの通路にすぎなかった。
モコちゃんの方が、警察が来る迄はすぐだったように思っていたのに、警察が来てからは、却って時間が経っていたかのようい思ったのは、きっと、もっとリアルなことを考えていたからだった。
――今日は、もうこれ以上、お客さんを取る気にはなれないかも?
という思いであった。
「すみません、もう一度お電話させてください」
と言って、事務所に電話を入れているようで、
「今日は、この後入っていないようだったら、私は今日はこれで終了ということにしたんですが?」
と話しているようだった。
電話を終わって戻ってくると、少し顔色がよくなっていたようなので、きっと予約もなかったのか、
――今日はこれで終了にしたのかも知れない――
と、さくちゃんは想像した。
不謹慎ではあるが、
「今日、ここからは、僕がモコちゃんを占有できるような気がするな」
と感じたが、もちろん錯覚だというのは分かっていても、待っている間の妄想としては、別にいいような気がした。
そう思いながら、さっきまでのサービスを思い出して、思わずニンマリしてしまいそうになる自分を咄嗟に感じ、ハッとして、我に返るさくちゃんであった。
さくちゃんも、自分がこんなわけの分からない場面に遭遇しているのに、
「よくこんなに冷静になれるな」
と思ったくらいだった。
警察がやってくるのは意外と早かった。
もっとかかるかと思い、羽根井級的な時間を想像していただけに、警察が来てくれたのが分かると、緊張が却って解けたような気がしたさくちゃんだった。
警察は、完全に現場慣れしているので、すぐに現場とそれ以外の仕切りを設け、問題のエレベーターを使用禁止にし、検屍が始まっていた。
さくちゃんもモコちゃんも、二人とも自分の身の置き場を持て余しているようだったが、刑事がそれに気づき、
「第一発見者の方ですか?」
と訊かれ、
「はい、そうです」
じゃあ、空いているお部屋で少しお話をお伺いしたので、少しよろしいですか?」
と、一人の刑事は検屍に立ち会っていたので、もう一人の刑事が二人を連れて、空き部屋に入っていった。
それまで、他の部屋から出てくる人はいなかったが、実際に自分たちが部屋を出てから、事情聴取を受け始めるまでの間というのは、三十分も経っていなかっただろうから、それも不思議ではなかった。
「ご足労願って申し訳ありません。まずは、お二人のお名前からお伺いしましょうか?」
と訊かれたので、二人は目を見合わせたが。それを見て刑事も察したのか。
「分かりました。お互いに、嬢とお客の関係というわけですね。個人情報になるでしょうから、こちらのメモに、本名と住所、電話などの連絡先をお書きください。差し支えなければ会社名や、所属先の名前も頂ければ幸いです。もちろん、口外は致しませんのでご安心ください」
と言われたので、二人はそれぞれに、メモに言われたことを書いた。
「じゃあ、お名前をどのように呼んでいいか、それだけは教えてください。話しにくいですからね」
と言って刑事さんは苦笑いをした。
職務上、こういう関係の二人を相手にすることも結構あるのだろう。そのあたりは慣れているようで、それはどうしていいか分からないと思っていた二人にとっては、ありがたいくらいであった。
二人が、さっきの呼び名を示すと、
「さくちゃんさんに、モコさんですね・分かりました。そうお呼びするようにいたします」
と刑事は言った。
「お二人がお部屋を出られてから、エレベーターのところに来るまでに、誰か怪しい人をお見掛けしませんでしたか?」
と訊かれて、
「いいえ、誰も見ていません」
とさくちゃんが答えた。
「じゃあ、エレベーターは何階にあったんですか?」
と訊かれたので、
「四階です」
と答えると、
「じゃあ、下へのボタンを押したその時すぐにエレベーターの扉が開いたということですね?」
と言われて、
「ええ、そういうことになります」
と答えた。
「そこで、後ろ向きになって、背中にナイフの刺さった女性を見かけたわけですね? その時何を感じました?」
と訊かれ、男女二人は顔を見合わせて、
「最初は恰好が滑稽だっただけに、何がどうなっているのか分かりませんでした。ナイフが刺さっていることも最初は分からなかったくらいです。正直、その滑稽さに一瞬噴き出しそうになるくらいでした。でも、鼻を衝く金属のような臭いがしたので、変だと思って我に返ったのか、その次の瞬間には、ナイフが刺さっていることが分かりました。その瞬間、横にいたモコちゃんが、『きゃっ』と言って小さな声で叫んだのを感じました。ほとんど同時だったと思います」
と、さくちゃんが答えて、横を見てモコちゃんに同意を求めると、モコちゃんも頷いていた。
その様子を見て、
「モコさんも同じご意見のようですね?」
と刑事が聞くと、
「ええ」
と、モコちゃんは、静かに答えた。
その時、モコちゃんは、横目にさくちゃんをじっと見ていた。
――この人、もっと頼りないかと思ったけど、結構しっかりしているんだわ――
と少し見直した気がしたからだ。
そんなこととは知らないさくちゃんは、刑事から、次にどんな質問があるかなどに、思いを巡らせていた。
さくちゃんは思ったよりも、頭が切れる人で、自分の世界に入ると、頼りがいのある人になるようだった。
――こういう人が男らしいのかも知れないわね――
とモコちゃんは感じた。
そういえば、サービスしている間は、完全に自分が主導権を握っていたので分からなかったけど、次第にうろたえた様子はなくなっていたような気がする。風俗デビューの客にも何回か当たったことがあって、最初から最後までオタオタしていて、イメージそのままになってしまい、最初の感動が最後までそのままだったことで、却って、冷めてしまうこともよくあった。
それがデビュー相手の人に対しての時だと思うと、
――こんなものよね――
と、自分のパターンの一つとして、確立された気がしていたのだ。
そして、ほとんどの人はその期待を裏切らない。そういう意味では、さくちゃんは、いい意味で裏切ってくれた相手だったのだ。
しかも、この日は、死体を発見するというハプニングまであり、さらに彼の落ち着きを感じさせられて、
――本当に今日が初めての相手だなんて思えないわ――
と思った。
それは、今日がデビュー戦だという意味と、自分と初対面だという意味の両方に言えることであった。
さくちゃんは、モコちゃんのことを気にしていないかのように見えたが、実は気にしていたのだ。
警察から、第一発見者としての取り調べが行われている時、手持無沙汰だったモコちゃんの手を握ってくれた。
――やっぱり優しい人なんだわ――
と思っていたが、モコちゃんも手を握り返すと、その掌はぐっしょりと濡れているのを感じた。
現場検証をしていた若い刑事がこちらにやってきて、
「とりあえず分かったことだけを報告しますね。被害者が殺されたのは、今から一時間前後くらい前ではないかということです。死因は見ての通り、背中に突き刺してあったナイフによるもの。おそらくエレベーターが開いて、中に乗り込もうとしたところを、後ろから追突するように覆いかぶさったのではないかと思います。エレベーターが四階で止まったままだったということは、どこからも呼ばれなかったのかも知れないけど、いくらラブホテルだとはいえ、三十分以上誰もエレベーターを利用しなかったというのも不思議な気がするんです」
といった。
「何が言いたいんだ?」
と、事情聴取していた刑事が聞くと、
「死体発見現場では、被害者は、奥の壁に寄りかかるようになって発見されたけど、実際には死体がエレベーターの扉を挟むようにしてあったとしたら、誰も気付かなかったことでしょうね。つまり、このエレベーターは扉が開いたまま、四階にずっといたのではないかと思うんですよ」
「じゃあ、誰かが死体を動かしたのか、それとも、死体をそのままにして、エレベーターの扉が閉まらないような仕掛けを使ったということなのかな? 何のためにそんなことをしなければいけないんだ?」
と訊かれて、若い刑事が、
「それはまだ分かりませんが、ひょっとすると、そのことが、この事件の何か意味を成しているのではないかと思うんです」
と言った。
実際にこの刑事の発想は半分は間違っていなかった。それが証明されるのは、もう少ししてからであったが、どうやら、今刑事たちは、目の前の若い二人を疑っているかのようにも見えて、モコちゃんが、震え出したのを手を握っていたさくちゃんは感じた。
さくちゃんがモコちゃんの手を握ったのは、不安がっているモコちゃんを慰めるという意味もあったが、それよりも、モコちゃんの心境の変化を探りたかったのだ。あくまでも不安を取り除きたいと思う一心でのことである。
「ところで、身元は分かったのかね?」
と訊かれて、若い刑事は手帳を見ながら、
「免許証から判明しました。名前は遠藤玲子という方で、年齢は二十七歳。住まいは市内の寿町ということになっていますね」
と報告した。
それを聞いた刑事よりも、先に、
「えっ?」
という声を挙げたのは、さくちゃんだった。
それを聞いて、事情聴取に望んでいた刑事が、
「ん? 君にはその女性に心当たりがあるのかね?」
と訊かれて、
「え、ええ、たぶん、僕の義理の姉に当たる人です」
というので、
「義理の姉ということは、この被害者の女性は既婚者ということになるのかな?」
と訊かれたさくちゃんは、
「ええ、僕の兄の奥さんです」
と答えたさくちゃんに、若い刑事が、
「君は、その死体を見ていて、すぐに分からなかったのかい?」
「ええ、何しろ向こうを向いていましたし、何と言ってもあんな苦悶に歪んだような表情なんて見たことありませんでしたからね。当然、こんなところにまさか姉がいるなんて思いもしないので、想定もしていないですよ。最初から知り合いだなんて思わずに見ていますからね」
と、さくちゃんは答えた。
――それは、まあ、もっともだろうな――
と刑事は思ったが、
「それにしても、ただの偶然なのかね?」
と、さすがに刑事は疑ってなんぼ、当然、そう来るというのも当たり前のことだった。
それでも、謂れのないことで疑われるのは気分のいいものではない。
「もちろん、ただの偶然です」
と言い切ったが、それよりも、さっきの自分の言葉の中で、
「姉がまさかこんなところにいるとは思いもしない」
と答えたが、姉の方としても、まさか、自分の弟がここにいるとは思わなかったと、生きていればいうに違いない。
どっちもどっちということで、さっきの言葉は少し反省する必要のある言葉だと感じていた。
「それに姉とは姉が結婚してから会っていませんから、最近の姉のことは知らないと言ってもいいくらいなので、元々あんな派手な服を着る人ではなかっただけに僕もビックリしています」
という話を訊いて、刑事二人と、モコちゃんが初めて目を合わせるかのようで、誰も何も言わなかった。
三人が同時に感じたのは、被害者が来ていた服を、義弟が、
「派手な洋服」
と表現したことだった。
どちらかというと、大人っぽくて、
「夜のオンナ」
というのを見負わせる感じだったので、黒系の暗い色が多かったこともあって、お世辞にも派手な洋服という表現にはならないだろうという思いが、さくちゃん以外のその場の人間の間で統一されていたということである。
「お姉さんとは、ずっと会っていなかったということは、ほとんど会ったことがなかったということでしょうか?」
と聞くと、
「いいえ、実はお姉さんは僕の大学の先輩でもあるんです。同じサークルだったんですが、そもそも兄にお姉さんを紹介したのが、この僕だったわけで……」
と説明した。
「サークルというと?」
「文芸サークルです」
と答えたが、さくちゃんを見ているとお似合いのような気もするし、被害者の洋服のセンスから、どこか芸術的なものを感じることで、文芸と言われて、
「なるほど」
と感じた二人の刑事だった。
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