第二話 辿れるように、祈ること

 昔から、自分の名前が苦手だった。

 神橋団子。

 自己紹介をするとき、学校のテストを受けるとき。その名前はどこまでも私の生活に息づいていて、どうやっても目を逸らすことはできなかった。 

 苗字の方は特にひっかかりはなくて、問題は団子の方にあった。

 団子。

 口ずさみやすく柔らかな印象を与える二文字は、何歳になっても私にふさわしい響きだとは思えなかった。

 そもそも、なぜ団子なのだろう。遠い昔、名づけた本人である母親に理由を聞いた覚えがあるけれど、その中身自体は疾うに忘れてしまって、今となっては収まりの悪さが残るだけだった。

 今更聞くのはバツが悪いし、高校をサボるようになってからまともに話をしていない親と顔を突き合わせるのはどうしても避けたかったから、当分は自分のルーツについて知る機会はなさそうだ。



 最近は母親とも同級生とも会話をしない日々が続いていて、足先はいつも寂れた公園の方を向いている。



 平日の午前中、極力人目につかないよう住宅街の細道を進む。

 高校指定のブレザー服。紺色の学生鞄。校内で『一年生』を示す薄緑色のスクールリボン。

 傍から見ればごく普通の、足しげく通学する高校生だと思われるだろう外見は案外、サボタージュをするのに適していた。

 何かに所属しているという符号を着込んでいると、人は、特に道行く大人は私を見逃してくれる。どれだけ大手を振って歩いていても、大抵の大人は『遅刻したことを悟り、急いで走ることをやめた高校生』だと、勝手に誤解してくれるからだ。

 そんな厚意に似た無関心をささやかに浴びながら、高校とは反対方向の路地を迷いなく歩く。今日は日差しが強いからか、腕を振るたびに熱が粉のようにまとわりついて随分と鬱陶しかった。

 道中、煙草屋の隣にひっそりとそびえていた自販機でミネラルウォーターを買う。ガコンという音と共に落ちてきたペットボトルを掴むと、冷たい汗をびっしょりと掻いていた。

 鞄に入れて中をびしょ濡れにしたくはなかったから、そのまま手で持って公園へと向かう。

 肩に提げている鞄の中には今日読み進める予定の文庫本が三冊ほど入っていた。一冊は昨日半分ほど読み終えたSF小説、残りの二冊は…………私自身あまり手の出したことのない推理小説で、小学校低学年にも読めるようにと、漢字に逐一ルビが振られている。

 

 

 杏子はこれを読むだろうか。

 公園に近づくにつれ、そんな考えが脳裏を過ぎった。

 

 

 杏子と出会ったのは学校をサボり始めてから間もなくのときで、身を潜める場所を公園に定めた日の三日後のことだった。

 いくら制服が一目を潜り抜ける効果を持っているといっても、そう堂々としていられるわけではない。市立の図書館も、本屋も、ある程度人の密度が増えてしまえば、『ちゃんとした大人』に見つかる確率が高くなる。声をかけられることはまずないだろうけど、そういった人たちの疑わし気な視線を一身に浴びるのは極力避けたかった。

 そこで見つけたのが、住宅街の影に隠れた公園だ。

 鉄柵に囲まれた、取り壊される寸前の遊具が寂しそうに突っ立っている場所。

 地面が全く手入れされていないからか、雑草が伸び放題になっていて、いつ見ても足を踏み入れたくない見た目をしているそこは、普段誰も寄り着こうとはしない。

 近所に住む児童も『立ち入り禁止』だと言い聞かされているのだろう、朝から夕方までベンチに腰かけていても、立ち入ってくる子供はいなかった。

 ただ一人、杏子を除いて。

「きれいな髪だね!」

 一人きり。誰にも邪魔されることなく活字を追っていたとき、真横からふいにそんな声が飛んできた。

 顔を上げると、そこにいたのは短髪の女の子。

 こちらの頭部をじっと見つめながら表情を嫋やかに緩ませているその子は、学校帰りなのだろう、背中に真っ赤なランドセルを背負っていた。

 定規を差し込んでいるかのようにピンと伸びた背筋。あどけなくて、擦れた感情を微塵も感じさせない表情。学校指定のスカートの中から伸びる、絆創膏の貼ってある膝小僧。

 普段目にすることのない光に触れたように、網膜の表面がまっさらに洗われる。

「知らない子だ」と最初に思った矢先、その子がずんずんと歩幅を刻み、私の右隣に腰を下ろしてくる。うんしょという掛け声で地面にランドセルを置いた後、顔中にたっぷりと笑みを浮かばせながら、今度は下から、私の顔を覗き込んできた。

 …………やりづらい。

 高校ですら円滑な交友関係を築けていない私はもちろんのこと、年下への上手い関わり方など知りもしなかった。小学生。その存在でいたときの記憶は、今となっては遥か遠いものとなっている。背中に背負うランドセルの重みも、それを箪笥の奥に押し込んでからは思い出すこともしていなかった。

 きらきらと輝く視線と、不安定に揺れる視線が上下に交錯する。前者が女の子から伸びていることは明白だった。

 とりあえず「ありがとう」と、自身の髪を摘まみながら、褒められたことへの謝辞を述べておく。高校生になった直後、なんとなくで染めた金髪が褒められたのは初めてのことだった。悪い気はしないけれど、なぜその子が絡んできたのかがてんで分からない状況の中、素直にそれを受け取るのは難しい。

 私が味気ない能面のような顔の裏で狼狽えていると、女の子は矢継ぎ早に次の言葉を紡ごうと、その小さな口をもごもごと動かしていた。

 感情のダムが崩壊するように、薄紅色の唇が素早く開く。

「なに読んでるの?」

「……幻想小説」

「どんな本なの?」

「…………ファンタジーな感じのやつ、だよ」

「ファンタジーって?」

 ファンシーな生き物が繰り出す短い質問が、瞬く間に私の鼓膜に荒波を作り出す。

 駄目だ。今すぐにでも立ち去ってしまいたい。

 重い腰を持ち上げようと、ふくらはぎにピンと力が入る。けれど、力はただ込められただけだった。

 純真無垢な視線に、意識が縫い留められる。

 真昼のくせに燦然と煌めく二つの星に、人工的な星の色を頭に塗りたくった私が映る。

 カチリと、目が合ってしまった。腰が元の位置に戻って、女の子と向き合うほかなくなる。

 困ったことになったと内心ため息を吐きながら、私は読んでいた文庫本を女の子の前に広げ、「読んでみる?」と提案してみる。

「いいの?」と目を輝かせる女の子に、すっと本を手渡す。女の子は満面の笑みで「ありがと!」と言いながらそれを受け取り、黙々と文字を追い始めた。

 はずだった。

 ほんの一ページ。そこまで活字の占める密度の大きくない本を渡したのにも関わらず、女の子はすぐに眉間をぎゅっと縮まらせ、いかにも『文字が頭の中に入ってこない』というような表情を浮かべていた。

 ほどなくして、本が私の手に戻る。

「……難しかった?」

 そう訊くと、こくりと首を縦に振る女の子。

「わたし、本を読むのが苦手なの」と、頬を掻きながら薄く微笑んだ。

 じゃあなんで本について聞いたんだよ、と軽く思ったけれど、小学生特有の多大なる好奇心にいちいち釘を刺してはいられなかった。

 再び、気まずい空気を吸い込む。ゆっくりと時間が進む、どこもかしこも錆びついた公園。女の子は依然として立ち去る気配はない。

「どうしてここに来たの?」と、意を決して口にしてみた。近隣の子供は近寄ることのないこの場所には当然、女の子と一緒に遊ぶような子供はいない。

 人知れず、ブランコの練習でもしに来たのだろうか。

 そんな当てずっぽうの思考を、まだ声変わりの到来していない弾んだ声色が軽やかに跳ね飛ばした。

「今日からここ、わたしの秘密基地にしようと思って」

「ひみつ、きち?」

「うん! お母さんも先生も『近づいちゃダメ』って言ってる場所だけど、逆を言えば、誰も近寄らないってことだから、完璧な秘密基地が作れると思ったの!」

 女の子は目一杯胸を張り、得意げに鼻を鳴らした。名案を誰かに披露したくてたまらなかったというご様子だ。

 …………一方の私はというと、小学生と同じ思考回路でサボり場所を選んだことに若干の苦々しさを感じていた。小学生だった時期は遠く感じるけれど、感性自体はそこまで成長していないのかもしれない。

「そんなときにお姉さんがここに座ってたから、わたし、びっくりしちゃった………あ、わたしは杏子! 小学三年生! お姉さんはなんて名前?」

「え?」

 唐突な自己紹介の後、ナチュラルに名前を訊かれて面を喰らってしまう。まさか、こんなところでも名前を名乗る場面が訪れるとは。

 正直、偽名を口にしてもよかったのだけど、圧倒的に年下の杏子にそれをするのは申し訳ない気がして、仕方なく苦手な二文字を舌先に乗せた。

「神橋団子。神さまの神に、歩いて渡る橋。団子は……そのままの団子」

 少々噛み砕きすぎた自己紹介をした後、杏子の反応を伺う。

 彼女はさっきよりも瞳を大きく見開き、息を目一杯吸い込んで。

「いい名前!」

 ぐぐっと身を寄せてきた杏子の短髪がはらりと揺れる。好感触の笑みが視界中に広がって、嫌な気分はしない。

 けれど。

「じゃあ、だんごちゃんって呼ぶね!」

「いや…………できれば、神橋で」

「えー! なんで? だんごちゃん、可愛いじゃん」

 それでもやっぱり『団子』と呼ばれることには抵抗感があって、無難な苗字呼びに逃げてしまう。神橋。うん、一般的で浮足立たない。

 そんな私の頼みを聴いたはずの杏子は「じゃあ~~~~」と、不安定に語尾を伸ばしながら何やら思案するように顎に手を添えた。ゆっくりと瞼を降ろして、開いて。やがて脳裏に浮かび上がった言葉を実直に、そして自信ありげに口にした。

「ダンスちゃんは?」

「え?」

 団子よりも活発な、言い換えれば素っ頓狂な響きが鼓膜を震わせる。

「ほら、子どもの子って『す』って読むときもあるから!」

 よろしくダンスちゃんと、杏子が小麦色に焼けた腕をこちらへと伸ばしてくる。五本の指を真っ直ぐにした手のひらは陽に焼けていなくて、触れるのを躊躇ってしまうくらい瑞々しい光沢を放っていた。

 否応なく差し出されたあだ名、ダンスちゃん。

 今までの人生の中で『踊り』という行為をしたのは小学校高学年の頃、運動会の種目でソーラン節を保護者に披露した、たった一度きりだったと思う。運動の苦手な私はそのとき、サボりたい衝動を抑えながらも練習に参加して、クラスメイトの保護者に見せるという、全くやる気の立ち上らない動機のために時間を費やした。

 つくづく似合わない。

 それでも目の前の杏子は、私のことを『ダンスちゃん』と呼ぶことにしっくりきたようだった。満足げに鼻先を私の方に向けて、私が手を握るのを待っている。

 春先。花びらが茎からほどけて、地面に落ちるまでのわずかな時間。

 諦めを含んだ逡巡の後、杏子の手を取った。



 

 それからの私は『ダンスちゃん』と呼ばれることにも慣れて、平日はせっせと公園に足を運び、杏子が下校するまでの時間を読書で潰している。

 初めて『ダンスちゃん』と呼ばれたときは、まさか毎日のように顔を合わせる相手になるとは考えもしなかった。

 母親でも、同級生でも、先生でもなく、歳のやや離れた、どこに住んでいるのかも分からない女子小学生。

 そんな子のために、私はうんうんと頭を抱えて読みやすい本を選び、こうして鞄の中に忍ばせている。

 不思議なものだと惚けながら、空を見上げる。

 どしゃぶりの日差しはとっくのとうに手に持つペットボトルの鮮度を奪っていて、手のひらをくすぐる水滴は生温い。ぽたぽたと地面に落ちるそれはやがて陽炎となり宙に舞って、単調な青に染まる空に吸い込まれていく。

 結局、消えていくものだ。

 それでも。

 儚い雫を踏まないよう、慎重に歩く。



 

 杏子が、これを辿れるように。

 弾けるような笑みを浮かべる幼い星が、私の元を訪ねてくるまで。

 太陽にはほんの少し手加減してほしいと、そう密かに願うのだった。

 

 

 

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ダンスちゃんと踊る 飯田華 @karen_ida

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