第一話 星を横目に、願うこと

 掃除の時間も帰りの会も終わった後にすることと言えば、すぐさまダンスちゃんのいる公園に向かうことだった。

「あかりちゃん! しぐれちゃん! えりちゃんもバイバイ!」

 教科書をパンパンに詰め込んだランドセルを勢いよく背負って、友達にさよならの挨拶をする。一分でも早く、ダンスちゃんの隣に座りたかった。

 そのままの勢いで扉の方へ前のめりになっていると、ふと後ろから「ねぇ」と声がかかる。振り返ると、隣の席のあかりちゃんがこちらに手を伸ばして、なにやら口をもごもごと動かしていた。

「ねぇ、あんずちゃん。最近家に帰るのがすごい早いけど、何か用事でもあるの?」

 あかりちゃんが、不思議そうに首を傾げてわたしを見ている。しぐれちゃんもえりちゃんも同じことを思っていたらしく、「習い事でも始めたの?」とか、「おつかいでも任されてるの?」とか、そんな質問たちが次々に目の前へなだれ込んできた。

 わたしはその間、「えぇと……」と言いながらお茶を真っ黒に染めて、考える。

 正直にダンスちゃんのところへ行くと言うと、最後には「近づいちゃダメ」な公園に行っていることがバレて大変なことになりそうだ。でも、友達には嘘をつきたくなくて、うーんうーんと頭を抱える。

 今すぐにでもアイキューが欲しいところだった。

 三人が質問を一旦やめてから数秒経って、わたしはできるだけ怪しくなく、それでいて百パーセントの嘘ではない理由を言い放った。


「本を読みに行くの!」

 

 本当は、本を読むダンスちゃんを見るだけだけど。まぁでも、四捨五入すれば大体同じになると思う。たぶん。

 わたしの言葉を聞いた三人はまるで鳩が豆鉄砲を喰らったときのような顔をしてわたしを見ていた。

「杏子ちゃんって本好きだったっけ?」「意外!」「図書館かぁ。しばらく行ってないなぁ」

 みんながそれぞれ納得したようで、わたしはほっと息を吐く。

 よかった。これでダンスちゃんとわたしの公園が安全な場所になる。

 それからはもう一度三人にバイバイと手を振って、廊下で躓きそうになりながらも下駄箱に着き、お気に入りの運動靴に足を突っ込んだ。

 爪先を両方、トントンと地面で鳴らして、準備オッケー。

 わたしはテレビで見た陸上選手顔負けのポーズを取り、どこかでカラスがカァカァと鳴いた瞬間、足の裏をぐぐっと伸ばして学校から飛び出ていった。

 そのままの速さを保って、校門をくぐり抜ける。左へ、右へ。街を歩く人に言う「かえりました!」も忘れずに、手と足をブンブン振って家へと向かう。

 そのまま公園に向かわず、一旦家に帰ってから公園へと走るのがいつものこととなっていた。本当はそのまま公園に行った方が近いけど、学校の先生から寄り道することは禁止されている。

 わたしはもう、一つルールを破っている。だからこそ、他のルールを破ることはしない。

 わたしがわたし自身で決めたルールなのだった。

 

 およそ十分で家の前まで着いて、ポケットの中から鍵を取り出す。この時間帯にはまだ、お母さんは帰ってきていない。

 スーパーで働いているお母さん。隣町の工場で働いているお父さん。太陽が昇っている間には二人に会えないけれど、別に寂しくなんてなかった。

 今のわたしには、ダンスちゃんがいるから。

 玄関にランドセルを放って、家を出る。靴も脱いでいないけど、一応家には帰ったのだから誰もわたしを責めないはずだ。たぶん。

 ランドセル一つ分軽くなったからだで町中を走る。今は六月。空から降ってくる日差しがだんだんと夏仕様になって、ほんの少し運動をしただけでも汗が噴き出る季節が間近に迫っていた。

 絶えず息をはぁはぁとさせて、入り組んだ住宅街の道をひょいひょいと駆け抜けていく。途中で同じ学校の制服を着ている子を見かけたけれど、目的地が同じ子は誰もいないようだった。みんながみんな、友達と笑いながら話をして家へ一歩一歩踏み出している。

 それを横目で見ながら、ふと、「ダンスちゃんと一緒にいるわたしは、周りからどう見られているのだろう」と考えた。

 きっと、友達とは思われないだろう。

 ダンスちゃんはわたしよりも年上で、そしてとても物知りだ。わたしには読めない漢字を星の数ほど知っていて、少しぶっきらぼうな表情になりながらも、それをわたしに教えてくれる。

 友達よりはお姉ちゃんに近いのかもしれない。でも、わたしはダンスちゃんのことをお姉ちゃんのようだとは一度も思ったことがなかった。

 ダンスちゃんは可愛くて、頭が良くて。

 そして、とてもきれいな、星の色をした髪を持っている。


 十五分ほど息を切らした先に、周りを鉄の柵に囲まれた、こぢんまりとした公園が見えた。小学校の教室二つ分くらいの面積のそこにはブランコとシーソー、そして横並びに腰かけられるベンチがあるだけで、正直、学校の校庭で遊んだほうが何倍も増しな見た目をしている。

 それに草もぼうぼうで、足を踏み入れれば葉の先がばさばさと膝を掠ること間違いなしだった。

 普通であれば、近寄ることもしないと思う。

 それでも、ベンチに座るダンスちゃんを見かけると、そんな考えは一瞬のうちに消え去ってしまっていた。金網の扉を勢いよく開けて、ベンチの方へとたとたと駆け寄る。

「おはようダンスちゃん!」

「おはよう……今だったらこんにちはじゃない?」

 文庫本に落としていた視線をほんの少し持ち上げながら、ダンスちゃんが挨拶を返してくる。午後三時過ぎの静かな公園。周りを囲む家が陽の光を遮ってはいるけれど、ダンスちゃんの髪は今でもずっときらきらと、星がまたたくような色をしていた。

 わたしもベンチに座って、ダンスちゃんが読んでいた本に目を向ける。

「何読んでたの?」

「大昔のSF」

「エスエフ?」

「……サイエンスフィクションの略で、ええと、要するに不思議なことが起こる小説のこと。宇宙戦艦が宙に浮かんだり、タイムトラベルしたり」

 わたしが首を傾けると、ダンスちゃんが一拍おいて説明してくれる。サイエンスフィクション……はよく分からなかったけど、不思議なことが起こることだけはしっかりと頭の中に入った。

「面白い?」

「そこそこかな」

 そこそこと言うわりには、ダンスちゃんの口角は柔らかく曲がっていた。ダンスちゃんの感情表現は顕微鏡を覗かないと分からないほど小さくて、だからこそ、それに気づくと夜空に浮かぶ一等星を見つけたような気持ちになるのだった。

 それからは黙々とページを捲っていくダンスちゃんの横顔を観察しながら時間を過ごした。ときどき、開いている文庫本も覗いてはみたけど、習ってない漢字が多すぎて内容を理解するのは難しそうだった。

 そもそも、宇宙戦艦ってなんだろう。

 聞きたいことは山ほどあったけど、まだまだ本から視線を離しそうにはないダンスちゃんの邪魔をしたくはなかったから、ぼぅっと眺めるだけにしておいた。

 ゆっくりと陽が沈んでいく。時計はなかったけど、おそらく長い針が半回転したくらいの頃合いでダンスちゃんがおもむろに口を開いた。

「…………私ばっか見ててつまんなくないの?」

「え?」

「いや、変わり映えしないのによく飽きないなぁって」

 きらきらした髪の隙間から、心底不思議そうな視線がわたしの方へと伸びていた。

「飽きないよ? ダンスちゃんの髪見てるだけでも楽しいし」

 わたしがそう言うと、ダンスちゃんは自分の髪の毛を人差し指と親指の間に挟みながら「ふぅん」と呟いた。

「この髪、そんなにきれい?」

「もちろん!」

 こくりと頷く。

「わたしも染めたいなぁ……」

 無意識にそう口にすると、ダンスちゃんは驚いたようにこちらへと顔を向けた。

「杏子が?」

 文庫本を見下ろしているときとは違う、わたしの髪の毛を伝うように動く瞳。数秒間、無言の時間が続いた後、

「杏子は今のままの方がいいと思う」

 ダンスちゃんがそう言いながら、わたしの髪をふわりと撫でた。柔らかい指の腹が耳の裏に触れて、少しくすぐったい。

「え~~なんで? 似合わないってこと?」

「いや単純に、見えづらくなりそうだなぁって」

「見えづらくなる?」

 ダンスちゃんの言葉を口でなぞる。どういう意味だろう。

 金髪になったら、わたしもダンスちゃんみたいに輝けると思ったのに。

 そんなことをさらっと伝えてみると、ダンスちゃんはゆっくりと目を細めた。わたしを見つめる視線の先がキュッと絞られたけど、ちくちくとした鋭さは感じない。

「今でも十分に眩しいよ、杏子は」

「どういうこと?」

 首を傾げるわたしの耳元から、ダンスちゃんの指が離れていく。

「元気いっぱいなことは素晴らしいって話」

 それからダンスちゃんはまた読書に戻っていって、わたしの何がどう眩しかったのかを訊くことはできなかった。

 静かな時間が、再び空気に満ちていく。

家に帰らないといけなくなる時間まで、わたしはダンスちゃんを見ながらぼんやりと「十分に眩しい」の意味を考えていた。

ダンスちゃんの横にいると、自分の頭で考えることが自然と多くなる。口数の少ないダンスちゃんから何かを受け取る? みたいな。そこまで大層なことじゃないかもしれないけど、学校で先生の話を聞いているときよりも頭を働かせているのは確かだった。

 だから、考える。眩しいの意味を、ダンスちゃんと同じ高さで見下ろせるように。

 心の中でうーんうーんと唸って、太ももの上で頬杖を突く。

 突いた後、なぜか意識が下へ下へと向いていった。

 …………そう言えば今日は、体育の授業があった。

 サッカーボールを思いっきり蹴るのは爽快で、久しぶりにシュートを決められたからとても楽しかった。だからはしゃぎすぎて、そもそも、ここまで来るのにも全力で走って…………。

 瞼の裏のまっくらやみに、青空とゴールポストが重なる。

 ぬるま湯に浸かっているみたいな感覚が、わたしをどこか遠くへと連れていった。

 

 

「おーい」

 ぺちぺちと頬が叩かれる。

「わっ!」

 気がついたら、ダンスちゃんのお腹が目の前にあった。

「もう帰る時間」

 いつの間にか、ダンスちゃんの膝の上で眠ってしまったようだった。はっと飛び起きて、辺りをぐるぐると見回す。古くなった遊具に朱い光がまんべんなく注がれていて、電線に停まっているカラスも帰り支度をしているのか、カァカァと仲間に向けて合図を出し合っていた。

「ごめん、寝てた!」

「いいよ別に。ぜんぜん重たくなかったし」

 ベンチの縁に置いていた文庫本を小脇に抱えて、ダンスちゃんがすくっと立ち上がる。

「帰ろうか」

 ダンスちゃんの涼やかな声が公園の固い地面に落ちる。それを聴いた瞬間、頭の中に残っていた眠気が一気に冴えて、その代わり、名残惜しさが吹き込んできた。

 帰るとき、いつも思う。

 このまま夜が来なければいいのにって。

 夜空に浮かぶ星を見上げるのは好きだ。だけど、夜が来ることでダンスちゃんと離れ離れになるのは好ましくない。

 星も月も、ダンスちゃんには敵わない。

 そう口にしようと思ったけど、ダンスちゃんはいつの間にか公園の外へと出ていて、片手で「こっちこっち」と手招きしていた。

 わたしも急いで公園を後にすることにした。伸び放題だった雑草をずんずんと踏み鳴らして、扉をぎぃぎぃと軋ませながら道路へと飛び出る。

 振り返ると、誰もいなくなったベンチがすっぽりと、夕日の影に隠れていた。


 あそこがまた光に照らされるのは、ダンスちゃんが座るとき。

 わたしがベンチに腰を下ろして文庫本を覗き込もうとする、その瞬間だった。

 

「じゃあ、また」

 ダンスちゃんがわたしに向かって、控えめに手を振ってくる。ダンスちゃんとわたしの家は反対方向にあるから、残念ながらここでお別れとなってしまう。

「うん、また明日!」

 わたしもブンブンと手を振り返す。

 感じていた寂しさを覆い隠せるよう、言葉の最後をはっきりと発音するよう意識した。

 

 また明日。

 その言葉を信じて、明日を待つ。

 家に帰っている間、なぜ自分が眩しいのかについて考えてみたけど、しっくりくる理由を思いつくことはどうしてもできなかった。

 やっぱり、頭を動かすのはダンスちゃんの隣に限る。

 文字を追うことができないわたしは、輝く星の真横でしか本領を発揮できないのかもしれない。

 本当にそうだったらいいな。

 空の色が黒に染まって、届かない星が散らばっていくまでの時間。

 自分一人の足音にそんな願いを混ぜて、わたしは帰路を辿るのだった。

 

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