ダンスちゃんと踊る
飯田華
プロローグ 揺れる星を見上げて、思うこと
自分の下の名前をきちんと書けるようになったのは小学一年生の頃からで、それまでは平仮名で『あんず』と書いていた。
あんず。
三文字で切りが良くて、なんだか柔らかい感じ。でも、それが『杏子』になると途端に感触が変わってしまって、あ、少し硬くなったなと感じる。一筋縄ではいかなくて、左から右へすらすらと読むことが難しくなる。まるで、川の流れに無理やり逆らっているみたいに。
漢字を習ってから今まで、同級生の他の子たちよりも漢字を覚えたり書いたりするのが苦手だった。机の前で本と向き合っているのも苦手で、朝読書の時間はいつも、どうしてこんなことをしなくちゃならないんだろうと思っていた。
進まなくて、もどかしくて、本から目を離して窓の向こうを飛んでいる雲を眺めているとすぐ先生に注意される。
朝から夕方まで、授業が全部体育だったらいいのに。
そんな悩みを友達のダンスちゃんに話すと。
「そんなの慣れだよ、慣れ」
ダンスちゃんはわたしの頭を一瞬見下ろした後、すぐに手に持っている文庫本に視線を戻してしまった。そしてゆっくりと、わたしのよりもすらっとした指先が本のページを捲り始める。
人の話をぜんぜん真面目に訊かない。ダンスちゃんの悪いところは今日も健在で、でもそれくらいでムッとしても話は進まないから、とりあえず質問を浴びせてみることにした。
「いつになったら慣れる?」
「……さぁ?」
「漢字ドリルをするのがらくしょーになったら、慣れたことになる?」
「…………そうかも」
「中学生になったらもっと慣れる?」
「………………中学に上がれば嫌でも机に向かうことになるよ」
「じゃあ、高校生になれば、読み書きなんてへっちゃらだね!」
わたしが最後に出した答えは、「背が伸びるのを待つ」というものだった。ぐんぐんと骨を伸ばして、目線を高くして、机や本と向き合う。きっとその頃には、一度もつっかえることなく文章を読めていることだろう。
羨ましくて、楽しみだ。
そう胸を張りながら遠い未来のことを考えていると、ダンスちゃんにしては珍しく本から顔を上げて、ほんの少しだけ、隣に座るわたしにしか分からないくらいほど小さく眉間にしわを寄せた。
「それは違うかも」
「えー、なんで? 中学生よりも高校生の方がかしこいんじゃないの?」
昨日テレビで見たクイズ番組で、アイキュー?が他の人よりも高い高校生が、大人たちには答えられない算数の問題を解いていたのを思い出した。
わたしも、いつかあんな風に解けるようになるのだろうか。
九九が怪しいわたしには、夢のまた夢なのかもしれないけど。
わたしが首を傾げていると、ダンスちゃんは読んでいた本をパタリと閉じた。
そして。
「高校生になったら、私みたいになっちゃうかもよ?」
自分の髪の毛先を指で摘まみながら、ダンスちゃんがにやりと、唇の左端を余計に吊り上げながら笑う。ダンスちゃん曰く、それは『じちょーてき』な笑い方らしい。意味はよく分からないけど。
「まぁ、杏子はちゃんと学校に毎日行ってるから大丈夫だろうけどね」
「ダンスちゃんは行ってないの? 学校」
「行ってない」
「なんで?」
「退屈だから」
「それじゃあしょうがないかぁ」
退屈ならしょうがない。わたしの漢字嫌いと同じように、ダンスちゃんは学校嫌いなのだ。
「いつかダンスちゃんも、学校に慣れるといいね」
一緒に頑張っていこうぜ! みたいなテンションでそう言ったら、ダンスちゃんは
ほんの少し目を見開いた後、今度は口の中でだけ声を渦巻かせるような笑い方をしていた。音には聴こえないけど、細められた瞳でそれを知る。
「それはやめとくよ」
星の色をそのまま塗り込んだようなダンスちゃんの髪が、笑うたびに細かく揺れる。
何が面白かったのだろう。わたしにはよく分からなかった。それでもダンスちゃんが面白いのならばそれでいいかと結論付けて、こちらも負けじと笑みを零した。
お昼時に散る、ダンスちゃんの星。
それを真横から見上げながら、高校生よりもダンスちゃんみたいになりたいなと、密かに思うのだった。
わたしたち以外は誰もいない、雑草が至るところから伸びている古い公園。
二人で横並びになって座るベンチは少し錆びついていて、スカートが汚れてしまわないかいつも心配になるほどだった。遊具もぜんぶぼろぼろで、ブランコなんかは座る板すらついていない。ただじゃらじゃらした鎖が二本吊るされているだけで、触っただけで手が真っ赤になりそうなほど錆びついていた。
ここは、お母さんからは「危ないから近づいちゃダメ」と言われている場所。
それでもわたしは昨日も、今日も、明日だってここにいる。
ダンスちゃんがこのベンチに座って本を読んでいる限り、わたしがここから離れていくことなんてありはしないのだった。
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