バハムルの断崖
ヴェスタル領の領都ウェスタルナから北西に進むと、切り立った急勾配の断崖が北に聳える。
バハムルの断崖と呼ばれるその崖は、数千年前に出現した神の獣ベヒモスが嘶いて創り出したものだと伝承されている。
この崖を創った獣に因んで、一帯の地名はバハムルと呼ばれるに至った。
この断崖に道が作られたのは数百年前。
辛うじて馬車一台分が通れる幅の道を紆曲させて崖上へと繋ぐ坂道は5%から8%ほどの勾配で二十キロメートル弱ほど歩いてようやっと登り切る。
前世の世界ならガードレールとかあったりするものだけど、ここは異世界。
そんなものはなかった。
去年まではここを登っても降っても人を見ることはなかったのに、今回は人がかなり多い。
この断崖を登る前、関所前で野営をすることが多かったんだけど、野営の数が多かった。
峠道も人が絶えず、無闇に追い抜けないから、大人しく前を歩く人の後ろに付いて歩く。
崖を登り切ると、真北には横長に連なる山峰が延々と続く景色が最初に目に入るだろう。
北に向かって、緩やかな下り坂の先に真横に横切る中幅の川が流れ、その向こうには村がひっそりと佇む。
これがバハムル村。
バハムル領で唯一の村だ。
右奥には湖が広がっており、これをバハムル湖と呼んでいるが、対岸のドワーフ族はアイスンレイクと呼んでいた。
左手には森林が広がっており、その奥には上級と呼ぶにも烏滸がましく感じる超高難易度ダンジョン、俺たちがバハムルの森のダンジョンと称する迷宮が大きな口を開けている。
と言っても、崖を登ったところからは見えないが。
この辺り一帯はバハムル高原と呼ばれており、北に向かって広大な草原が伸び、緩やかな勾配を描く平原が山脈まで続く。
草原地帯では畜産であったり、農業であったり様々に利用されており、バハムルの食生活を非常に豊かなものとしていた。
バハムル湖ではエビや魚が採れるし、バハムル湖から流出するその川でも多くの種類の淡水魚が釣れる。
俺がこのバハムルに赴任した日から区画整理をして計画的に住居や商業区といったものを作り始めてから、市街地が少しずつ広がっていたけど、今は川よりも崖側にまで建物が建ち始めている。
「ちょっと、見ない間に随分と家が建ったね」
と、カレン・ダイルが目を細めて村を見る。
「本当だ。何か城みたいなのを建ててないか?」
現在の俺の住居となっている領城と言うには少しばかり貧相な屋敷の裏手に木々を切り開いて土地を確保し、そこに、それなりの大きさの建造物になりそうだ。
どうやらバハムル湖に沿って東側にも市街地が伸びるらしい。
バハムルの東は少しばかり小高い峰が聳えているが、その向こう側も間違いなく断崖だろう。
「東側って何かあったかな……」
俺が呟くとフィーナが反応。
「ノルティアとヴェスタルの領境辺りからバハムルに登る道が作れるみたいだから今、三領共同で測量やら何やらを始めてるの。キャラバンくらいの大きさの馬車がすれ違える程度には幅を取れそうという報告があったから、進めてもらうことにしてるのよね」
そんな訳で、道が出来るらしい。
直ぐにはできないだろうし、何年、何十年とかかることだろう。
それから村に向かって歩くが、近付くにつれ、村の建物がとても増えていることに気が付いた。
村に入ると顔見知りからそうじゃないのまで、何だかとても人がたくさん居る気がする。
「フィーナ。ここってこんなに人が多かったっけ?」
「いいえ。ヴェスタルとバハムルを自由に行き来出来るようになったせいで、ヴェスタルからの移住者が増えているのよ。ここって資源が豊富じゃない?働き口もたくさんあるからね」
「そうだったんだ。じゃあ、ヴェスタルの方は大丈夫なの?」
「ヴェスタルは農地はそれなりにあっても家を継げないもの者が多かったりするからそういった方々にとってはバハムルはうってつけの場所になったみたいよ」
今、バハムルはヴェスタルからの人口流入が続いているそうだ。
今後はプロティア領からも来ることになるのかもしれないが、プロティア領って帝国との国境沿いだからできれば交易や貿易のための要所になってもらいたい。
とはいえ、全ては落ち着いてからだ。
俺が生きている未来線を描くために、今はやらなければならないことを優先したい。
俺の死の運命がやってくるまであと半年もないのだ。
◆
村の中央にある広場。
そこに行くとイヴェリアが領民たちに勉強を教えていた。
そこには母さんも居てイヴェリアと会話がないにしろ、イヴェリアの手の届かないところをしっかりと見ている。
老若男女に問わず、広場でイヴェリアから勉強を教わっている領民たち。
中には不届きな男も居るけれど、それはある意味仕方のないことなのかもしれない。
十七歳の美少女は凛として麗しく歩く度にタプンタプンと揺れる大きな乳房。
歩く度に艷やかに弾む大きなお尻。
男であれば目が離せないのは当然だ。
「何だか、前に見たときよりめっちゃ増えてますねー」
イヴェリアの授業を受けている領民の面々を見渡してカレンは言う。
そう。とても増えている。
元々、性別や年齢を限らず、イヴェリアが習ってきた学習内容を伝播したり、王都の貴族の礼儀をここで広めるためだけに始めたこの授業。
魔法を教えていたりもするので、この中から優れた魔道士が生まれるのかもしれない。
そう思うと【鑑定★】を使いたくなるが、イヴェリアに間違いなく勘付かれるのでやめておこう。
きっと、俺がここにいることだって既にバレている。
「家も増えてるもんなー。子どもも増えてるし良いんじゃないか?」
「そうね。けど、このペースで増えてくると、いろいろと取り組まないといけないことが増えそうね」
俺が言うと、フィーナが続いた。
確かにこの増え方はマズいなー。
何がマズいって、バハムルは物々交換で領内のものを流通させているからね。
今までは千人くらいしかいなかったからな。
人口が増えれば物々交換だけでは下々まで物資が行き届かなくなるだろう。
もう広場の青空市場だけでは領民の生活を賄えなくなるのかもしれない。
とにかく、現状のこのバハムルを把握しなきゃいけない。
とりあえず、ここに来て課題を知ることが出来た。
屋敷に戻ってイヴェリアの帰りを待つことにしよう──
「あ、帰るのは良いんですけど、ちょっと食材を集めてきたいです。良いですぅ?」
と、移動を始めたら、カレンが料理の材料を揃えたいということで、もう少し領村の中を歩き回った。
◆
領城と言うには少しばかり小さい粗末な屋敷。
カレンはキッチンで料理をしていて、手持ち無沙汰の俺は久し振りに自分の部屋のベッドに寝転がっていた。
フィーナとレーネは居間で女子の会話を楽しんでいることだろう。
二人が互いのことを、どのくらい覚えているかは知らないけれど、レーネも幼馴染のひとりであることには違いない。
しばらくすると俺の部屋にノックの音が響く。
「入るわね」
声で分かる。
イヴェリアが入ってきた。
部屋に入ってくると俺が寝そべるベッドに彼女は腰を下ろしてから、靴を脱いで身体を翻すと、四つん這いで移動してきて俺に覆い被さる。
「おかえり。シドル。会いたかったわ」
「ただい──」
俺が言い終わる前にイヴェリアは俺の唇を口で塞ぐ。
どのくらい口を付けていたのかわからないけれど、唇を離したイヴェリアが紅潮してうっとりした表情を俺は見た。
「はあ……はあ……」
と、生温かい吐息が俺の顔に吹きかかるんだが、甘ったるくて頭がぽわっとする匂いが鼻から頭の後頭部に広がる。
「これ以上は耐えられないわ……」
できることなら応えてあげたいけれど、俺が死ぬかもしれないという可能性が強い今のままでは無責任だと感じてしまって、そこから先へ進めない。
ただ、しっかりと【房中術★】が効いているのが分かる。
スキルがイヴェリアの動きに対して最適な動作を俺に直感として返してるんだよな。きっとこれが全部悪い。
「すまない。イヴェリア」
「良いのよ。元はと言えば貴方の身体から漏れ出る
イヴェリアは手を伸ばす。
「けれど、シドルの反応で私に魅力がないってことではないって分かってるし、今、私を抱かないと決めているのも貴方が負うべき責任があるからだと知ってるもの。シドルだって我慢していると分かれば私だって耐えられるわ」
「ありがとう。イヴェリア」
「いいえ。どういたしまして」
俺の上から退いたイヴェリアは靴を履き直して立ち上がった。
「そうそう。カレンの料理が出来たから食べましょう」
イヴェリアが俺の部屋から出て行ったので、俺もベッドから下りて居間に向かう。
ようやっと、落ち着いて食べられるんだな。と、俺は久し振りに我が家のような食卓に舌鼓を打った。
「久し振りに人の手料理をいただいたわ。ありがとう。カレン」
「いいえ。お粗末様ですよ」
「お粗末だなんて、いつもとても美味しいわよ。私には本当にご馳走ね」
「イヴェリア様のお褒めに与り大変光栄です」
イヴェリアの過剰とも言える称賛にカレンが照れを見せるが、食料の保管庫に残っていた食材からイヴェリアの食生活を気にしたカレンは確認する。
「それにしてもイヴェリア様。ベーコンとかハムとか大量にありましたよ?あとパンと」
「ええ、村人から戴きましてね。私、焼くしか出来ないものだから皆様が気を遣ってくださって……」
「あー……」
カレンは察した。
イヴェリアは料理が出来ない。
魔法で火を起こして焼く。
これしかしないとイヴェリアは言い切る。
領民はそんなイヴェリアに肉を与えた。
日持ちの良い塩漬けの肉。
ハムやベーコンなど既に味がついているもの。
それとそれほど硬くないパン。
イヴェリアが領政をジョルグと執り行っている合間に領民に授業を開いているからこそ、そういった住民の感謝と優しさを享受する。
「イヴェリア様。野菜もちゃんと食べないとダメですよー」
カレンはそう言って自身の皿からサラダをイヴェリアに「はいっ!」と声を出して分け与えた。
それをイヴェリアはもきゅもきゅと嬉しそうに頬張る。
「それはそうと、村人が随分と増えていない?」
フィーナが言う。
「ああ、それね。ここ数ヵ月で千人近く増えてるわ。エルフは少ないけれど湖の氷が解ける前にドワーフが二百人くらいこちらに来て、それからは人間が七百人くらい」
「一気に二倍か……」
イヴェリアが答えた。
ものの数ヵ月で人口二倍ってヤバい。
といっても千人が二千人になったというレベル。
ヴェスタルと繋がる細い峠道しかないバハムルに人が増えたとして、バハムルの生産物を交易する手段がないのが現状。
俺が呟きを漏らすとイヴェリアが言葉を返した。
「ええ。それで村の整備は進むようになったのだけど、森の開拓が難航していて……その代わりに岩塩や灰銀の採取量が少し増えているのよね」
「採掘量を増やすのは悪くないと思うけど、バハムル湖の湖岸の開発、進んでるのかな……」
「船着き場ね。こっちはドワーフたちが加勢して急ピッチで作業をしているわ」
採った物の加工手段がないからドワーフの国、モリア王国に輸送しなければならない。
そのためにも湖岸開発は急ぐべきなのだが、秋の収穫時期には間に合いそうな進捗具合だそうだ。
「バハムルはこんな感じよ。気になるなら明日、一緒に見て回りましょうか」
イヴェリアの誘いに俺は乗ることにした。
「ところで、レーネがこちらに来たのはどうしてかしら?」
レーネ・ファウスラーをここに連れてきた理由をイヴェリアは気になったらしい。
「リリアナ・ログロレスの殺害の件でドラン・ファウスラーとシュレル・ログロレスも同席して会談したの。そこにレーネも来たのよ」
フィーナがレーネを連れてきた事情を説明すると──
「良いんじゃないかしら?」
と、イヴェリアが同意を示して言葉を続ける。
「妻を多く迎えるのも王としての能力を示す一端に成りうるでしょう?
このまま多くの領地を飲み込むわけだから、貴族たちが娘を人質に差し出すことが増えていくわね。
子を成すか否かは置いておいて、後宮に女を迎え入れるのは恥ずべきことではないのよ」
イヴェリアは差し出されたものは受け取っておけということらしい。
「まあ、私もイヴの言葉には概ね賛成ね」
フィーナも同意見だった。
とはいえ、俺はまだ、妻を迎えるとか考えられない。
「今は、誰かを迎えるとかまだ考えられないよ。年が明けてからゆっくり考えさせて欲しい」
そう伝えるとイヴェリアが俺に言葉を返す。
「そうね。良く考えたら、レーネはエターニア王国では公爵家の令嬢。それに今は自治領の一人娘でしょう? おいそれと安易に娶るのは難しいわね」
「そうなの。だから、今は客人としてここに居てもらうってほうが良いんじゃないかなー。それと、イヴはそろそろミレニトルム家に生存報告をしたほうが良いんじゃない?」
イヴェリアに続いてフィーナが発言し、そのまま、言葉を紡ぐ。
「私、ヴィレル様とイアリ様にイヴは生きてるから連れて参りますって約束したし、貴女もシドルの妻になるのなら、もう生存を報せて良い頃合いよ」
「言われてみれば、それもそうね。なら、私、王都に行けば良いわけね?」
「いいえ。王都にはもうヴィレル様とイアリ様もいらっしゃらないわ。ミレニトルム領に戻ってるんじゃないかしら」
「なら、ミレニオに行くわ」
「私も行くね。王都を越えて行くわけにはいかないし、プロティアやファウスラーを回っていくのは遠回り。私が頼めばノルティアかログロレスから船を出してもらえるわ。それならグランデラック湖の対岸、ミレニオに直接行けるしね」
「そういうことなら、フィーナの言葉に甘えるわ」
イヴェリアはミレニトルム領に顔を出しに行くことになった。
ミレニトルム領は王都エテルナの北東に位置し、その領都ミレニオはグランデラック湖を北に眺める湖岸の都市。
ミレニオはグランデラック湖に迫り出した陸地が絶景で観光地として栄える中規模都市として名を広めている。
「じゃあ、俺はその間にミレイル領とメルトリクス領に攻め込むよ」
「そうね。そうしてもらったほうがこっちも助かるわ」
俺がそう言うとフィーナが返し、続いてイヴェリアが言う。
「シドルが居ない間に魔道士を少し育てておいたのよ。まだ五十人くらいしかいなくて少ないけれど、きっと力になるわ」
そんな訳で、バハムルに一週間ほど滞在したのち、一個小隊規模の魔道士兵を率いて俺とフィーナ、イヴェリアにカレンと一緒にバハムルの断崖を下り、次の目標に挑むことになった。
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