大学の彼女たち

@asuka_9396

第1話 西洋史I

 彼女と私が出会ったのは、大学一回生の春、一般教養の西洋史の講義だった。

私はまだキャンパスに慣れていなくて、本当は地理学の講義を取ろうとしていたのに建物を間違えて薄暗い校舎の大教室に入ってしまった。入ってすぐに気づければよかったのだけど、たまたま板書よりも先に講義を受けている少女と目が合った。色素の薄い可憐な容姿、豊かな黒髪は肩甲骨にかかるくらいの長さがある。黒髪と対照的な白のシンプルなデザインのワンピースを着ている様子はイメージの中にだけ存在するお嬢様と言った感じだ。私の方からすぐに視線を講師の方に戻したけど、話している自己紹介など上の空で聞いているのかいないのかわからない、どこか浮世離れしている、そんな印象を受ける。他にも席はあったけれど、私は彼女の方に吸い寄せられ、気づけば隣に座って良いかを聞いていた。


 「良いですよ、少し奥いきますね。」周りの迷惑にならない程度の声で返事をして、彼女は通路側の席に置いていた淡いピンクのトートバックを持って奥の席にズレてくれた。声まで可愛いな・と思っただけのつもりだったのだけど、声に出てしまっていたみたいで彼女は少し恥ずかしそうにしていた。同じ一回生の子だろうか、法学部のオリエンテーションにはいなかったと思う。こんな可愛らしいお人形さんみたいな女の子がいたら、きっと男子が黙っていないから目立っていただろうし。容姿はずば抜けて良いけど、派手なファッションな訳ではないから国際学部ってこともなさそう、文学部か経済学部かな。席に着き、荷物を置きながらそんなことを考えていると、私の意識の中心にいた彼女の方から小さな声で声をかけてくれた。

「あの、先生まだレジュメとか配ってなかったから安心してください。多分今日は自己紹介と軽く映像流して終わりだと思います。」遅刻してきた私のために席をずれてくれただけじゃなく講義の状況も教えてくれるとは、なんて優しい子だろうと思いながら拝むようにお礼をした。そんな大袈裟にしないで・と彼女は可笑しそうな身振りをするとまた講師の方に向き直した。私もリュックからルーズリーフとペンケースを取り出して講師の話に耳を傾ける。三十代半ばくらいだけどどこか頼りなさそうな印象を受ける。実際、結構前の方に座っている男子が友達と話していても女子がスマホをいじっていても、何も注意する様子はない。大学の講師ってみんなこんな感じなのかな、そうだとしたら正直少しがっかりだ。別に私はロースクールに入ってバリバリに士業を仕事にする・なんてことまで考えて大学に入ったわけではないけれど、どうせ大学に入ったなら学部の専門の授業も一般教養も興味のある科目を受けて自分の成長・とまで大きいことは言わないけど何かの糧にしたいと思っている。まあ、遅刻してきた私がこんなことを言える立場ではないので、せめて真面目に講義を受けて話を聞いていない連中よりも良い成績を取ろう、そう思った矢先講師の言葉に耳を疑った。


 「—まあ、この西洋史の講義も君たちを苦しめるための講義ではないのでそんなに単位を落とす人は出ないようにしますが、きちんと受けていないと高い評価は得られないように調整はします。だからちゃんと講義に出てメモくらいはとってくださいね。」

「—まあこの西洋史の講義も君たちを—」「—西洋史の講義も—」「—西洋史—」

西洋史の講義って言った。え、この講義地理学じゃないの?この建物は五十五年館じゃないの?講師は西洋史という単語を連呼しているし、私が愕然としていたらスライドに首の破損したアテナの彫像が映った。日本史受験の私でもこれが世界史の教科書に載っていることは知っている。ここまでされると私も教室を間違えたことを認めるしかない。母さんごめんなさい、娘は大学一回目の講義で教室を間違えて時間を無為に消費しています。まあ、大学はある程度自由に時間割組めるって話だし、全部の講義に必ずしも出席しないといけないっていうわけではないらしいから、来週から地理学の教室にちゃんといけばきっと大丈夫。そう自分に言い聞かせてはみるけれどやはりショックだ。ふと横を見ると先程の少女は前を向いていてスマホこそいじっていないが間違いなく話は聞いていなかった。明らかに上の空で板書でもスライドでもない空中を視線は泳いでいるし、一生懸命メモをとっていると思っていたけどメモ帳に書いてあるのは講師の発言でなくて昔見たことのあるキャラクターのイラストだ。落書きと呼べるクオリティではなくむしろかなりうまいのだけれど、一年生の初回、他に講義を受けていてもまだ片手で数えられる数なのに大丈夫だろうか。余計なお世話だろうけど心配になる。そんなことを思いながら彼女の方を見ていたら、こちらの視線に気づいたらしく、私の方を見て微笑みかけてきた。深窓の令嬢、いやそんな近寄り難い雰囲気ではない。でもなんだか触ると壊れてしまいそうな少女。彼女の微笑みが私のために作られているのは正直嬉しい。けれど、今は、——せめて講師の話を聞いてあげて欲しい。


 西洋史を受けるのは三年ぶり二回目。二年生の時に友達と一緒に受けていた時以来。あの時は三人組で講義を取っていて、誰か休んでも大丈夫ですね・なんて笑いながら授業を受けていました。出席三十点、レポート四十点、テスト三十点。そこそこ真面目に出席してそれなりのレポートを書いて、テストは記憶を頼りに頑張る。般教の中では割と楽単っていう評判だったのですけど受けた友達で私だけこの単位は落としてしまいました。あの頃は運よく仕事がいただけ始めた時期。出席は半分くらいしかできませんでした。友達が取ってくれていたノートともらったレジュメを頼りにかなり危ないレポートを書いて、あとはテストを頑張りましょうという時期、なんと深夜アニメの主演にうっかり合格してしまいました。スケジュールがみるみる埋まっていって気づけば大学の単位はぼろぼろ、どうにか四年生までギリギリの単位数で進級はしていたのですけれど、なんだか落とした単位数に比例して私の人気はどんどん向上していきました。

 四年生の四月、私の取らなければならない単位は四十八単位。三年生の春みたいな単位数です。その頃の私はほぼ毎週末イベントに出ていましたし、平日もアフレコはもちろんですけど。番宣の配信なんかもあってもうとても大学なんて行ける状況じゃなくなっていました。でも出席があまり必要のない授業を友達が見繕ってくれて、私自身も仕事の合間を縫ってかなり頑張りました。それでも肝心の卒論と一般教養二十単位分、結構しっかりした数の授業で単位を落として私は5年生の春を迎えました。お父様お母様がカンカンに怒っているのもありますけど、配慮して今年はかなり仕事をセーブしてくださっているスタッフさんのためにも、今年はしっかり卒業しないといけません!今年は出席もできそうだから、ということでこの授業も取ったのですけど、そういえばこの先生のお話ってあんまり面白くないのよね。一般教養の授業なんて受けているのは一年生と二年生がほとんどですし、今年は孤独な戦いになりそうです。

 少し顔を下に向けてため息をして、板書の方に向き直すと左の方からガチャリとドアを開ける音が。この建物のドア見た目より軽いから結構勢いよく開いちゃうのよね、と思いながら音の方を向くと、息を切らした女の子と目が合いました。なんだかまだあんまり垢抜けない感じだけど、真面目そうな顔の美人さん、多分一年生ですね。髪はショートボブで茶髪っぽく見えるけど、多分地毛が明るいのかな。パーカーにデニムでシンプルな格好だけど、服装に気を使ったらすごく人気になりそう。なんて、分析みたいなことをしている場合じゃない。一応話を聞かなきゃ、つまらない自己紹介だけど何か単位取得のヒントが隠されているかもしれないし……でもやっぱりつまらないわね。やっぱりこの授業は辞めにしようかしら、なんて思っていたら通路の方から小声で声をかけられました。

 「はぁ、すみません、お隣良いですか?」振り向くと声をかけてきたのはさっきの女の子でした。他に後ろの席は空いてなさそうですし、遅れてきて前の席に座る恥ずかしさは私にもわかるわ!共感の気持ちで快諾して、私はカバンと一緒に一つ奥の席にずれました。あら?なんだかすごく私の顔を見てる気がするわ、もしかしてファンの方かしら。私そんなに変装的なこともしていないし、衣装のお洋服そのまま買ったりするから気づかれちゃったかしら。もしそうなら、あんまりお近づきになっちゃまずいかな——

「声まで可愛い……お人形さんみたい……」

 あらら?なんだか思っていた反応と違うわ。女の子のファンの子ってもっとリアクション大きいことが多いし、そういえばグッズもジャラジャラつけてるのよね。この子はリュックもなんだかシンプルで飾りっ気ないし、もしかしてファンっていうわけではない?私ちょっと有名人ぶっちゃったかしら。恥ずかしくて顔がちょっとアツくなってきた。赤くなっていないかしら。そうだ、口元を隠して話しかければ顔を隠せるし、授業の情報ならきっと良い人だと思われるわ。まだ自己紹介だけですよって、教えてあげることにしましょう。


 あらら?なんだか拝まれちゃったわ?やっぱりファンの子?まあファンの子でも真面目そうだし大丈夫かしら、多分。拝まれるのって申し訳ないけどここまで大袈裟だとちょっと面白いわね、なんて思いながら身振りで落ち着くように伝えたら冷静になったみたい。女の子は律儀にペコっと頭を下げ、リュックから授業の道具を取り出し始めた。横目で観察しているのだけど、うーん、筆箱も使っているペンも特にアニメのデザインとかじゃないわね。オタクっぽくないし、やっぱりファンの子じゃないかも。もう少し観察してみて、ファンじゃかかったらお友達になりたいな。ほんとは、ファンの子でもお友達になりたいけど、事務所にそういうのはなるべく控えてねって釘も刺されていますし。それにしても、この先生の話を真面目に聞いているなんて偉いわね。今のところ特にメモする必要のあることなんて言っていない気がするのだけど。あんまりジロジロみても悪いので私も前に向き直す。やっと講義の説明が始まった。講義の名前が西洋史、なんていちいち言わなくてもみんなわかっていることでしょうけど。そう思っていたら隣の席からカタっとペンを落としたような音がした。そちらを見てみると先程の女の子が青くなっています。どうしたのかしら。もしかして、講義間違えちゃったのかしら。確かに一年生だと建物の名前とか覚えてないし、教室間違えるとかもありえるわ。授業を取るわけじゃないならやっぱりお友達になるのは無理かしら、残念。一年生の時に授業を間違えるくらい大丈夫。私は四年生の時に一つだけ一人で受けていた講義が履修システムの操作間違いで履修できていなかったから。心の中で女の子を励ましていたら手元になんだか視線を感じる。メモを取っていたわけじゃなくて、手慰みに今出ているアニメのマスコットキャラを描いていただけなのだけど。視線は女の子の方から、もしかしてこのシリーズ好きなのかしら。手元が見えるようにして微笑みかけてみる。あらら?笑い返してくれるか、話しかけてくれるかと思ったのだけど、なんだか少し呆れた・いや困ったかしら、そんな顔で私の方を見つめている。ちょっと面白いしこの授業が終わったらお昼でも誘ってみようかしら。



 「「あの——」」声をかけたのは講義が予定より少し早く終わった後、ほぼ同時だった。私は彼女も声をかけてくるとは思っていなかったので少し驚いて、「あっ、ごめんなさい。先に話してください。」彼女に先に話すように促した。彼女は口元を隠してくすくす笑う。「ごめんなさい、じゃあ私から話ますね。私は大倉結梨って言います。せっかくお隣に座ったから、よかったら一緒にお昼でもどうですか。」

改めて、授業中のように声を潜めないで話すと結梨の声の綺麗さ、可愛らしさが際立つ。澱みがないというのだろうか、流れるように言葉が発せられる。声に感心していたら返事をするのを忘れていた、彼女が少し心配そうな顔でこちらを見ている。

「ごめんなさい。あんまり声が可愛いからあっけに取られちゃって。お昼一緒に食べたいです。私は上山咲って言います。入学したばかりでまだどこで食べるのかよくわからないですけど、一緒に探しましょ。」私が誘いに乗ると結梨は嬉しそうだけど、なんだかおかしそうにニコニコと笑っている。

「大倉さん、何か面白いことでもあった?その、すっごい笑顔だけど。」

「いいえ、なんでもありませんわ。お昼はこの校舎の食堂は混んでいるから、少し離れた富士見坂校舎にしましょうか。あそこなら講義もあまり多くないし、大きな教室のある校舎からのアクセスも良くないから空いてると思うわ。」

「そうなんだ、詳しいんだね。私は講義受けるの今日が初めてだったからよくわからなくて、助かるよ。」助かるのだけれど、なんだかやけに具体的なプランを提示された。彼女と横に並び、富士見坂校舎に向かう。やっぱり歩き慣れている。入学して三日目の足取りとは思えない。同い年か、下手をしたら自分よりも年下にさえ見えるのだけど、もしかして二回生の先輩なのだろうか。一般教養は進級に必要な単位数的に二回生も受けている。多くの学生は一回生の時に必要な数の三分の二程度は取ってしまうから適当に話しかけた人が二回生である可能性は少ないけれど。

「大倉さんキャンパスに慣れていそうですけど、もしかして二回生ですか?」年上かもしれないので敬語で聞いてみる。急に言葉遣いを変えたから少し自分の中で違和感があるけど仕方がない。彼女はその質問を聞いて少し考えるように顎に手をやった後、私の耳に少し顔を近づけて囁いた。

「食堂に着いたら、教えてあげます。」

その顔は、初めて親に言えない秘密をもった小さな子供のように楽しそうだった。

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