第26話

 六十一歳――。


 まーまー、いい年になった俺は大病をした。

 どうも余命が一カ月らしい。

 隣で医師の話を聞いていた奥さんの手が震えていた。


 そっと、奥さんの手を握る。


 奥さん――礼奈とは(偽彼氏を卒業して)高二の冬休み、クリスマスから付き合った。


 思えば、俺の初めては殆ど礼奈と一緒だった。


 自分以外の誰かから『好き』だと言われるのも。

 付き合うのも。

 体育祭で鉢巻を交換したり、文化祭で一緒に展示を見て回ったり、修学旅行で夜遅くまで話したり、受験勉強で苦しむのも。

 こんなモブにそんな甘酸っぱいアオハルを与えてくれたのは礼奈だった。


 それから――大人になるのも、君と一緒だった。




『あたしはあなたがいればなーんにもいらないよ?』




 朝の光の中で、その光よりも綺麗な金髪が――俺の腕を擽りながら、君は優しい顔で笑った。




 どういう気持ちで、礼奈――君はあの日、あの言葉を選んだのだろう?



 そう言えば――デートだけは、あれをデートと呼ぶのなら、初めてデートした相手だけは礼奈じゃなかった。


 それ以外は君だけだった。


 高校を卒業して、礼奈とは大学が別だったが俺達の関係は続いた。

 そして就職して二年目、俺は礼奈と結婚した。

 翌年には父親になれて、俺は幸せだった。


 会社では上手く行かない事ばかりだったが、その分――家庭の方へ幸せは回って来たらしい。


 だから、




「あの頃のことを最近――よく思い出すの」




 君が今、俺の耳元で囁くまで忘れていたんだ。

 いや、忘れようとしていた。




「俺の人生は――君や子供達がいて幸せだった」




 それは本当のことだった。




 そのまま、目を閉じる――。



 

 だけど、どうしてだろう?




 ――四月になったばかりの病院の待合室。


 お見舞いの花束が色鮮やかなモノに変わり、どこか忙しなく行き交う人達の中で、いつも同じ本を読んでいる君。



 ――勇気を出して声を掛けた。



面白いの?それって……ゲーテの『若きウェルテルの悩み』だよね?』



 綺麗な、透き通るような瞳を丸くする君。


 ん?

 あっ、これだといつも見ていたと言っているみたいだな。

 まー、そうなんだけどな。

 俺氏、プチストーカーじゃね?

 きょわわわ。

 所在を無くした手が頭をガシガシと掻いた。

 

『あら、意外……この本を知っているのね?』

『まー、有名だし。タイトルくらいだけど。それで面白いの?』

『あなたも読んでみたらどう?百聞は一見に如かずよ』

『いや……サボっていた分の課題が大変でさ、読書感想文は君の感想をそのまま使おうかと』

『そうね――』

『…………』

『ふふっ、とても眠くなる本よ』


 君が笑う、とても柔らかな笑顔で。


 その時――開かれていた病院の玄関口から、春の風が入って来る。


 優しい匂いを纏って。


 混濁した意識の中で、俺は――。


 ただ、それを思い出した。

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