第3話

interlude:THE REGEND OF BRADE


 影街グラン・エンペリア。

 曇天に包まれることがままある影街の空を高く突き抜けるように、そのホテルは自身の存在を誇示していた。

摩天楼が雨後の筍のように乱立する中にあってなお、唯一といってもいい輝きを放つこの建物こそが影街の象徴であり、都市の中心を示すランドマークである。


 その姿、まさに不夜城。


地上72階、地下6階にわたる巨大な建造物。

ローマン・コンクリートの重厚な構造が、どこか時代を超越したような威厳を醸し出している。

新興リゾートホテルの旗艦店として、その名は世界の四大ホテルチェーンと肩を並べ、追い越さんばかりの勢いだ。


 設備も凄い。


 影街の夜景を一望するレストラン。

都会の喧騒から逃れるように静寂が流れる映画館。

影街の歴史を彩ってきた数々の美術館。

そして、ビルの頂に設けられた、まるで空を泳ぐかのような魚たちが舞う空中水族館。

その全てが影街グラン・エンペリアの中に息づいている。

これらの施設は、単なるホテルの付帯設備を超え、都市の文化と楽しみを凝縮した要塞のように存在している。


 影街の住人たち、あるいはこの街を訪れる観光客たちにとって、この場所は特別な意味を持つ。

成功の証か、あるいは非日常への扉か。

それはまるで、影街の混沌を一手に収めたかのような、華麗さと冷徹さを併せ持った巨大な勝利のオベリスクである。


 無数のライトが照らすエントランスから、煌びやかなロビーへと続く光の回廊は、訪れる者を誘惑し、同時に威圧する。

その先に待つのは、夢のようなひとときか、それとも手の届かない幻想か。

いずれにせよ、グラン・エンペリアが影街にもたらしたものは一夜限りの美しさと、切り取られた現実の間にある、薄氷のような緊張感だ。

 その場に立つだけで、影街の複雑な時間と空間を感じ取れる場所。グラン・エンペリアは、そんな魔力を持つ建物であり、影街そのものを体現している。

 そして、その中で何が起きるかは、宵闇に潜む影たちが知るのみだった。


 そして今、その一室。


「まだ朝だけどいい眺め。時間潰しには贅沢すぎたくらい」

「待たせたね。さぁ、乾杯しよう」


 響き合うガラスの音。

 今、ひと組の男女がいる。

 それ自体はなんら珍しいことではない。

 それが二人が客と娼婦という間柄でもだ。

 珍しいのは、部屋の中央に鎮座する大きなミルク缶。

 そして、その中を大量に埋め尽くす血染の硬貨である。

赤黒く光るそれらは、まるで何かを暗示するかの如く冷ややかで、鈍い輝きを放っている。


「うん、澱が取れている」

 暗めの赤い輝きを眺めながら、男はカクテルをゆっくりと傾ける。

 カクテルの色も、血染めの硬貨に負けぬほどの暗い赤。

「ブラッディ・ワイン、君と飲むには安すぎるな」

「キザな金持ち。割ってるワインってロマネコンティ、それも1945年モノでしょ? こんな高いのチビチビ飲むより、私にはこれで十分」

 横にいる女はワインが合わなかったのか、グラスに一口だけ口をつけると持参した缶入りの発泡酒をひっ掴んで、豪快にプルタブを切った。

「理解できないね。君のことが」

「……うるっさいわねー、私は私の流儀でやらせてもらうから」

 女は一息にぐいっと缶を握りつぶして飲み干す。

 自分が来る前に既に何本か飲んでいたようで、部屋の隅に無造作に煙草がねじ込まれた空き缶がいくつも転がっていた。

 下品だな、と思うが無碍にするわけにはいかない。

 男が思案していると、女が口を開いた。

「そういえばいくらくれるの、ギャラ」

女が突然、飄々とした口ぶりで話を切り出す。

「いくらって……規定通りだが」

「嘘ぉ。追加で色々お手当てくれるって、結構噂になってるのに」

女は大袈裟に手を広げて、肩をすくめる。

「誰から聞いた話かはわからないが、生憎と約束事は守るタチでね」

 男は話に興味がないとでも云った風にグラスを光にかざす。

「あら残念。ゼカリヤにはあげたって話はやっぱり噂だったかぁ……血染の硬貨とか」

「君、どこでそれを」

 途端に、男のグラスを動かす手が止まった。

 それを見て、女は余裕の表情を浮かべる。

「さぁ。誰かにベッドの上で聞いたけど、こっちも仕事ですから。ピロートーク相手の顔なんて、いちいち覚えてられないわ」

 女はそういうと、堂々とした仕草でドレスを脱ぐ。

 細身で、石膏像を思わせるような滑らかな肢体。

 その上に纏った極彩色の花弁をあしらった下着が、男の劣情を誘う。

「その手慣れた感じ、気に入ったよ。シャワーを浴びてくるから、待っていてくれ」

男は短くそう言うと、背を向けて部屋の奥へと歩みを進める。

その背中に、女は興味津々な視線を投げかけていた。


「お待たせ。どうだい、このフォルムは」

 数分後。

 シャワーから出てきた男は、随分と見た目が変わっていた。

それも、人種というより生物として。

 黒色のガウンを豪快にはだけさせた鋼の肉体。

 いや、その体色は鋼ではなく金。

 太陽フレアのような立派な毛並み。

 黒く尖った爪、牙。

 さながら百獣の王、獅子といったところか。

 男はレオン・デプラポルとなって現れた。

「オーケーオーケー。いい感じ」

 しかし女は物怖じない。

 そればかりか、目は爛々としていて、待ってましたと言わんばかりだ。

レオンは狼狽える。

「なぜそんなに楽しそうなんだ。まさかそういう趣味なのか? これからレイプされるんだぞ。愛情なんて微塵も感じないような」

「やだやだ。あなた、ただのレイプ魔のくせにこっちの心配なんかしてくれちゃうわけ。今更優男を装っても意味ないんじゃない」

女の安い挑発に、レオンの表情が歪む。

「君もすぐに姿を変える。そうすれば素晴らしさが理解できるさ」

 額に青筋を浮かべたレオンは血染の硬貨を投げる。

硬貨は綺麗な放物線を描いて、菱黒の柔肌を抉ろうと迫ってきた。

「……危ないじゃない」

「なんと!」

 咄嗟の判断だった。

 女は持参してきたブランドものの衣装ケースでそれを弾いたのだ。

 金属と革のハイブリッドを材質に用いた衣装ケースは仕事道具一式が入ったものでかなりの分厚さがある。

 しかし、これは偶然できたこと。

 衣装ケースはブランド品とはいえ所詮は民生品に過ぎない。

 長時間防ぎ切るほどの信頼性はない。

「うまく防いだか。ならば、そうだな……ワルツでも踊ってもらおうか」

「いいわよ。ディスコの方が好みだけど」

「いつまでその軽口が持つかな」

 レオンは歪んだ笑みを口に浮かべて、血染の硬貨を次々と地面に向けて打ち出す。

 強化した腕力から投擲される硬貨の雨は、さながら機銃掃射のよう。

 それでも女は衣装ケースと華麗な体捌きを駆使しながら、その猛攻を掻い潜る。

しばらくそれが続いた後、ついに女は壁に追いやられてしまう。

 それを確認した後、レオンは安堵を隠しながら女に挑発をかけた。

「中々の芸達者ぶり、お見事。だがそれもおしまいだね」

 だが、女は意に介さない。

「あーあ、残念。話し合いで解決しようと思ったけど、やっぱりこうなっちゃうか」

 何か覚悟したのか衣装ケースのジッパーを開き、中身を一気にひっくり返す。

 コミック雑誌、地図。

 クラッカーにジャム。

 派手な色づかいの衣類、衛生用品。

 それら全てをすり抜けて、一本の刀が飛び出す。

 それは、惚れ惚れするような白鞘。

「誰なんだお前は。ヒットマンか!?」

 狼狽えるレオン。

 体の奥から恐怖が込み上げて、みるみるうちに押しつぶされていく。

 その表情にはもはや先刻までの品格も、威勢の良さも感じない。

 黄金の御姿も所詮はミダス、偽りなのだ。

 対して。

「冗談。私は……」

 女は微笑む。

 すり足でレオンの眼前に近づき、抜刀する。

 動きは雷光の如く。

 瞬間。

「菱黒白、ただの剣聖よ」

 彼女がそう言い終わるより早く、レオンの上半身が吹き飛ぶ。

 そして驚くべきことに、レオンの外装だけが完全に剥がれて中の男が飛び出した。

 さながらゆで卵を殻から外すような、妙技である。

「どう? 傷一つないでしょう」

 女神のような微笑。

 しかしそれは慈しみではない。

 圧倒的強者が、弱者に向ける憐憫だ。

「あ、ああ……!」

 男は恐怖する。

恐怖で、全身を震わせながら脱兎のごとく外へ飛び出た。

「あーあ、逃げられちゃった」

 流石は剣聖。

 逃げる獲物をわざわざ狩る趣味はない。

 それでも悔しさは残るのか、白はワインのボトルを掴むと、床に勢いよく叩きつけた。


 店には男がデプラポルになったことは伏せつつ、レイプされそうになって抵抗したら逃げたと伝えた。

『随分と大変だったねぇ。被害届はすぐ出す?』

「いいわよ、別に。レイプって言っても未遂だし……それより金取られたのが最悪。あいつ、とんだ貧乏人ね」

 白は受話器越しのオーナーに悪態をつきながら、恨めしそうに皮財布の中身を弄る。運転免許証以外は小銭の一枚に至るまで見事に抜き取られていた。

『ええっ、貧乏人ってことはないでしょうが。ホテルだってグラン・エンペリアのスイートだったんだろう?』

「それが演出くさくて、鼻についたの。半端じゃない金持ちの男だっていう割にはオートクチュールじゃなくてブランド物着てたし。ホテルだってスイートにしては階層も低かったし。あとくれた酒ね、あれが決め手。混ぜものにしてたのがいい証拠よ」

 先ほど割れたボトルの写真を送る。

 そこには張り替えたラベルの跡がくっきりと残っていた。

「じゃあ私、シャワー浴びて帰るから。あとオーナー、私もうこの仕事怖くて続ける気ないから。退職金よろしく」

『えぇ! ちょっと待ってよ。昨日ナンバーワンのゼカリヤがしょっ引かれて、うち今厳しいんだよ……あ』

 電話を放り投げ、白は鼻歌まじりにブラを剥ぎ取って指で回し始める。

 そしてそのまま、意気揚々とシャワー室へ直行した。


「うー。無理して安酒いっぱい飲んだからかなぁ、悪酔いしちゃった。口直しにこれでも……ふふっ」

 シャワー室を後にした白はバスタオルで水滴を拭いながら、鞄の底に固定していたワインチラーを取り出す。

 刺さっているのはロマネコンティ1945年モノ。

 今度は紛れもない、本物である。

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