第38話 三連休

『太一くん、嬉しかったよ……ありがと』


 確かに彼女はこう言った。そして僕の胸で泣いた。

 そう、昨日の夜、彼女が自分の部屋に戻るまでの出来事。

 部屋はもちろん別に用意されたけれど、彼女は確かにそう言って泣いていた。



 そして今現在。

 場所は飛倉邸。庭園が目の前に広がる縁側。

 渚の曽祖父の問題も午前中には解決し、午後、春も間近を思わせる風のない温かい陽気に包まれていた。


「太一くん? 笹島さんのこと、名前で呼んでたよね?」


 僕の彼女はこの陽気にも関わらず、冬のような冷たい声で言った。


「いや、これは笹島に呼べと言われて……」


「笹島じゃなくて七虹香って呼んでって言ったよね!?」


「ふぅん、太一くんは名前で呼んでって言ったら読んじゃうんだ。ふぅん。私が男の人に名前で呼ばれると怒る癖に。ふぅん」


「だから、笹島にここまで道案内してもらう交換条件なんだって」


「七虹香って呼んでってば!」


「じゃあ交換条件でキスしてって言ったらしちゃうんだ?」


「しないってば……」


「その手があった!」


「うるせえ七虹香!」


「だから七虹香だって! あ、七虹香か、うん……」


「じゃなくて笹島! 照れるな! ややこしいことになる!」


「やっぱり名前で呼んでる! しかもここまで一緒に長旅したとかズルい!」


「ちょ、ストップ! コミュニティで新崎さんとかに確認して……あ、まだ繋がってないのか。僕のスマホ貸すから聞いてみてよ渚。あと長旅じゃないから」


 僕はスマホのSNSのコミュニティ:Himenoを開いて渚に手渡す。

 渚は唇を尖らせながら画面に指を滑らす。

 ああ、僕の彼女は怒っていてもかわいいな。



 ◇◇◇◇◇



「仲がよくて羨ましいわね」


「太一くんはうちの渚大好き過ぎて甘やかすのがちょっと問題なのよね」


 庭の方からそんな声が聞こえる。笹島の義理の母、翔子さんと渚のお母さん、汐莉さんだ。どちらも道着を着ている。汐莉さんは軟禁されている間、することがなくてずっと剣道場に籠りっきりだったらしい。おかげで昔の勘を取り戻せたとかなんとか言っていた。今も道場に行っていたのだろう。


「渚のお母さん、むっちゃ美人でヤバイ。一児の母に見えない清純エロボディとか反則。アリエナイ。そんでオトコ顔負けの強さとかカノジョにしたい」


「何言ってんだお前は」


「太一くん!」


「はい……」


「お前って言って!」


「えっ?」


「お前って言って!!」


「渚にそんなこと言えないよ」


「言って!!」


「お前……」


「ん……なぁに? あなた」


「昭和か! 仲良過ぎか!」


 思わずお互いに顔を赤くして見つめ合ってしまったところに笹島のツッコミが入る。


「と、とりあえず、七虹香ちゃんの事はわかったので私も七虹香ちゃんって呼びます」


「あたしも渚って呼んでいいよね? ね? 親戚だし」


「ん、はい。いいよ」


「そんで瀬川!」


「なんだよ」


「なぜ速攻SNSブロックしたし!」


「いやだってはぐれないようにするために登録しただけだし、もう要らないでしょ」


「要るよ!」


「渚以外の女の子の連絡先とか、渚に悪いから」


「ただの女の子じゃなくて親戚だよ? もう身内! ね、渚。渚の旦那だからハトコ!」


「ん、ん? ん、そう……だね」


「ほら!」


「いや、渚。騙されてるからそれ」


「太一くんは私とじゃ嫌なの!?」


「いや、そうじゃなくてさ……」


 結局、笹島にはブロック解除させられた上に再登録させられた。



 ◇◇◇◇◇



「えっ、コンビニ近くに無いの!?」


「あるよ。2kmくらい先に」


「まあまだ近い方か」


 ――なんて話になったが、渚はお母さんの車でここまで来たらしい。

 なんでも、こっちに来ると不便だから車があった方がいいとか。それでコンビニの話。


「あ、でも、暗くなったら行かない方がいいよ」


「えっ、神隠しにでも遭うの?」


「いや、いつの時代だよ」


「そうだよ」


「そうなの!?」


「水路に落ちて河童に攫われるから」


「ええ……こわ……」


「ぼぉっとしてたら昼間でも落ちるし」


「渚はぼぉっとしてたんだ……」


「ちっちゃい頃の話だから! それに、お母さんの頃は水路で泳いでたらしいし」


「へえ、あたしも夏になったら泳いでみたい」


「今は――泳いではいけません!――って看板があるからダメ」


「落ちるのはいいのに?」


「あ、落ちるのは仕方がないよね」


「いやダメでしょ……」


「渚、夏になったらあたしと一緒に落ちよ!」


「そうだね」


「えっ! いや、僕が先に渚と落ちたい」


「うん……わかった……」


 そっと僕の肩に渚が頭を寄せてくる。


「えっ、えっ、今のロマンチックな要素あった!? おかしくない?」


「あなたたち、夏に泳ぐなら川の方がいいわよ。小学生がよく遊んでるところがあるから。水路は汚れてることがあるし」


 翔子さんが声を掛けてきた。


「え、渚、そんなところに落ちてたの?」


「渚ちゃんが落ちたらすぐお風呂入れてたでしょ。覚えてない? まあ、川の水引いてるからそこまで汚れてることはあまり無いわ」


 とりあえず、飛び込むのは川にすることにした。ただ、高校生が遊んでることはあまりないとか……。



 ◇◇◇◇◇



「瀬川! パンツ買いに行こ!」


「やめろ! くっつくな!」


 笹島がいきなり腕を取ってきて言う。僕は慌てて振り払う。


「いいじゃん身内身内!」


「身内関係ねえ!」


「太一くん、パンツって何!?」


「いや、学校から着の身着のまま電車に飛び乗ってきたから……」


「あっ、そういうこと……そか、ありがと」


「昨日のそのままだし、着替えを買いたいなって」


「お母さんに車出してもらう?」


「そこまで遠くもないし、散歩も楽しいから一緒に行かない?」


「うんっ、行く!」




 僕の右手に指を絡めて並んで歩く渚。

 ただ、所謂恋人繋ぎってやつをあまりギュッとやられるとこっちの指が痛いのは渚には秘密だった。


「いーなー、あたしもヤーりーたーいー」


「言い方!」


「うなぎ食べ過ぎて欲求不満なの!」


「お前は早く帰って彼氏のとこ行け!」


「渚、あなたの旦那、ひどくない??」


「七虹香ちゃん、私と繋ご?」


「うん、ありがとお」


「ええ……」


 高校生が仲良く三人手を繋いで田舎道を歩いて行った。

 途中で地元の小学生に笑われた……。



 ◇◇◇◇◇



「昨日……渚に会えなくてさ、消沈したままここまで来たんだ。笹島に連れられて。……そしたらにわか雨に遭ってさ、渚の小説みたいに。……その時わかったんだ。渚の言ってた意味が」


「うん」


「渚はさ、僕とのことをバレないように隠したかったんじゃなくて、バレても良かったんだね。僕と出会って変わる渚を過去の渚に見て欲しかったんだ」


「そうだよ」


「――私はこんなに幸せだよって、太一くんが連れて行ってくれるんだよって。臆病で引っ込み思案な私に」


「うん、僕はやっぱり物書きの方だったよ」


「ふふっ。でしょ?」


 渚は僕に口づけしてきた。


「ここでしちゃおっか」


「ね。……でも笹島を待たせっぱなしだし」


「うん、行こっか」


 待合所を出ると、薄い壁一枚隔てた裏で笹島が悶え死んでいた…………。



 ◇◇◇◇◇



「はぁぁあ、爽快! 新しいパンツ最高!」


 食事の前にお風呂に入りたいと笹島が言うのでみんな先にお風呂に入ったわけだ。もちろん広い風呂だったけれど、一緒に入ったわけではない。露天と屋内で男女に分かれていた。温泉かよっていうくらい。あ、そういえばそんな話をしていたら、前に行った温泉旅館も親族の経営らしい。あそこの董香とうかさんも汐莉さんのだとか。


「…………」


 僕らの前にはお膳が用意されていた。

 ちなみに僕らは着替えを持っていなかったので、それぞれ浴衣に半纏はんてんを借りている。というか、渚も普通に浴衣だった。昨日はそれどころじゃなかったから新鮮だった。


「えっ、瀬川なんかツッコんでよ……」


「あっ、ごめん。渚の浴衣姿に見惚れてたわ」


「瀬川アリエナイ!」


 僕に襲い掛からんとする笹島!


「やめろ、立膝するな! 裾がはだける!」


「ダメダメ、七虹香ちゃんダメだよ」



 美味しい料理に舌鼓を打ったその夜、渚が一緒の部屋で寝たいと言ってきたけれど、さすがに今は断った。一緒に寝ると我慢できる自信がなかったからだ。ただこの時、僕はこの申し出を受けるべきだったのだ。大事な渚の事をもっと傍に置くべきだったのだ。


 翌朝、僕は後悔することになる。











「瀬川! あんた始めたら1時間は堅いって!? 2時間コースも普通ってマジ!?」


 朝一番に僕の部屋を訪れた笹島は、僕を叩き起こすなり頭の痛くなるような言葉を吐いてきた。聞けば僕が渚との同室を断った後、笹島に誘われて渚はパジャマパーティならぬ浴衣パーティを開き、ガールズトークと言う名の猥談に花を咲かせていたらしいのだ。


 僕は昨日の決断を深く後悔した……。


「渚…………」


「ご、ごめんね……七虹香ちゃんが悩んでるっていうから」


「笹島、お前、相手の男の卑猥な話を聞かせたのか……」


「んにゃ、時間が短いって言っただけで、ほとんど瀬川の話を聞いただけだから」


「いいか、今後絶対、相手の男の話を渚に聞かせるな。絶対にだ。渚の耳が腐る」


「わかったわかった……てか瀬川、今からやんない?」


「だっダメだよ!」

「絶・対・やだ」


「やーだー、ヤりたいのー」


「渚、わかった? こいつこういうやつだから、長旅を楽しんだーとかそういうの絶対ないから。貞操観念おかしくて誰でもいいようなやつだから」


「誰でもよくないー。――ねえ、渚、自慢の瀬川1回でいいから貸して」


 どこかで聞いたことのあるような話をしてきやがった。


「七虹香ちゃんでもやっぱりそれはよくないと……思う」


「渚? もっと自信持って断って」


 結局、お高い鰻を満喫したせいで屋敷に居る間、笹島のこの欲求は留まることがなかった。ちなみに今晩も鰻が出た。



 ◇◇◇◇◇



 二日目、同じ服をずっと着ているわけにもいかないので、来ていた服は洗濯してもらえ、屋敷に余ってる和装を借りた。古い着物も大事に取ってあるらしく、渚のお父さんがこっちに居る間に使っていたという作務衣や道着なんかを譲り受けた。時代を問わず着られる和装はいいものだななんて思った。


 早朝から道着を着、渚と汐莉さんに付き合って朝の鍛錬なんかを経験させてもらった。朝から他の門下生とも顔を合わせたが、なんだか目線が痛かった。ヘタレで運動もろくにやってない僕なんかが、門下生憧れの的の汐莉さんの婿だとか娘婿だとか、雑な情報だけが出回っていて疎まれているようだった。


 鍛錬を終えて屋敷の方へ戻ってくると、笹島が振袖を着て簡単に髪を結いあげてもらっていた。


「あっ、七虹香ちゃんかわいい! どうしたの?」


「光枝さんに着せてもらったんだ~。お着物かわいいって話してたら――着てみる?――って。翔子さんの振袖なんだって」


「大叔母様、こっちにいる間はいつも着物だもんね。私は脱ぐのも着るのも大変だから大きくなってからは着たことないけど」


「えっ、脱ぐの大変なの……?」


「着るのはもっと大変というか着られない……」


「笹島にはちょうどいいんじゃない?」


 なんか絶望していた。

 しばらくそのままで居ろって思った。



 ◇◇◇◇◇



 その後は三人で沢を見に行った。小川が屋敷の裏手の山から流れて来て、川に繋がっていた。


「今は寂しいけど、夏になると虫がいっぱいいるよ」


 渚が小川に架かる欄干も無いような小さな橋を渡りながら下の川を覗き込む。


「えっ、あたし虫は無理……渚は平気なの?」


 渚は温泉旅館でも沢で走り回ってたしな。虫くらい平気だろう。


「平気平気。私も小さいころしかここで遊んでないから夏が楽しみだな」


 渚のその言葉に笹島は顔を引きつらせていた。



 ◇◇◇◇◇



 昼食を食べた後は山に行こうかとも話したけれど、笹島があの恰好で草履だったから無理はやめて、近くの神社にお詣りしてきた。


「大きくなってからは飛倉の家に来てもほとんど何処にもいかなかったんだ。だからこんな懐かしい場所に太一くんと来られるなんて、すごく不思議。小さい頃の私に太一くんを紹介してるみたい」


「そうなんだ」


 渚の表現が面白くて、そして何だか嬉しかったものだから、口元が緩んで仕方なかった。

 僕は言葉で返す代わりに渚の左手をギュッと握った。



 ブフッ――渚と振り返ると笹島が顔を両手で覆って肩を震わせていた。


「あ、お気になさらず……尊いだけですのでブフフ」


 笹島はそのまま蹲って、しばらくの間悶えていた。



 ◇◇◇◇◇



 結局、何だかんだ言いながら、草履も慣れないと言いつつも、笹島は和装のまま元気にあちこち歩き回っていた。陽キャの体力半端なかった。帰ってからも光枝さんと楽しそうに話し込んでいた。


「草履と夏用の浴衣、もらっちゃった!」


 和装がずいぶんと気に入った笹島は、光枝さんと翔子さんからいろいろ貰っていた。


「笹島は着物の方が大人しく見えてちょうどいいと思うわ」


「うん、七虹香ちゃん似合ってると思う」


「そお? えへへ。――てか瀬川、また笹島に戻ってる!」


「僕の頭の中では笹島なんだよ。そうそう変えられない」


「むぅ、それならこっちだって考えがあるから……」


 笹島の発言に寝付くまで警戒していたが、特に何か行動を起こすことはなかった。



 ◇◇◇◇◇



 翌日、朝の鍛錬を終えて屋敷の皆さんに挨拶を終えると、僕たち三人と翔子さんは渚のお母さんの車で一緒に帰ることとなった。


 着の身着のままで笹島と電車に飛び乗った時はどうなることかと思ったけれど、何とか無事、元通りになるようでホッとした。渚たちの携帯の回線も昨日のうちに復旧し、夜はクラスのコミュニティで長い時間、話をしていたようだった。


 そういえばひとつ気になることがあった。

 渚が珍しく、一緒に寝ると言ったのを断ったあと、そこまで求めてこなかったことだ。


 少し聞いてみたが、笹島のあけすけなアピールを見て――逆に冷静になれた――と確かにその時は言っていた。まあ、僕としては迂闊に抱き着くと歯止めが利かなくなりそうなほどだったので、ちょっぴり寂しくはあったのだが。







--

 ショートコント集でした!(違)

 あと1回続きます。次回は学校編です。


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