愛を知らない私に
教室へ戻ると、友達の咲が声をかけてきた。
さっき切った左手首を握る。咲には何も言っていないから傷のことは知らないはずだが、言っていないことへの罪悪感なのか、普通に出来ない自分への恥ずかしさなのか、とにかく左手首が自分から感覚が切り離されたように感じてしまう。
「唯どこ行ってたの?目真っ赤じゃん」
「なんも無いよ。そうだ、化学のいつも白衣着てる先生ってなんて名前だっけ?」
咲の質問にそっと知らぬ顔をして、気になっていた先生の名前を訊ねる。白衣をよく着てる先生はさっき話したあの先生以外にはあまりいないので目立つ。
「あー、なんて言ったっけ。確か新垣先生だったような」
新垣先生というのか。
「その先生がどうかしたの?」
「いや、なんか委員やってるからか私のことを知っていてさ。私だけ先生の名前知らないの癪じゃん?だから、知りたいなって、それだけ」
小学校から一緒にいる友達にさえ隠し事ばかりな私は、薄情なんだろうか。それでも、私は自分が弱いことを認めたくない。認めたら最後、二度と立ち上がれなくなってしまいそうで怖い。今微妙なバランスでやっと保っている心が壊れてしまうんじゃないかと脅えている。
「そっか、なんかあったら言ってね」
咲は何か言いたそうな顔をしていたが、それを飲み込んで、私の言葉を待っているよというような視線を向けてくる。それに私は気づいていて、何も言わない。お互い、踏み込まない。それはお互いが相手を慮ってのことなのか、自分のためなのか自分たちでもよく分かっていない。ずるくて卑怯で、滑稽な関係なんだろうな。
「ありがとう」
酷い頭痛も時間が何とか解決してくれて、帰る頃には少し痛むかなぐらいまでに静まった。
家に帰りたくなくて、図書室で本を読みふけって司書さんのそろそろ閉めるよの声でやっと学校を後にする。帰り道にあるスーパーに用もなく寄ってみたり、行きとは比べ物にならないくらいゆっくりしたスピードで自転車を漕ぐ。もしくは自転車から降りて歩いてみたり。帰る時間を引き伸ばす。そんなことをしても意味が無いのに。
地元の駅が近づくと、諦めの気持ちが強くなり1日の終わりを感じる。どうにでもなってくれという風にスピードに乗って帰宅する。
「ただいま」
一応声に出してみるも、誰からも返事は無い。そこでようやく気持ちの糸が解ける。
けれどすぐ、警戒態勢になる。兄がいつ帰ってくるか分からない。
家に帰っても休まらない気持ち。いつ帰ってくるのか脅えて、今日の兄の機嫌はどうか、帰ってくる時の門扉の開け方でだいたいの予想はつく。
私の部屋は玄関横についているため、その音がよく響く。
廊下をどしどしと強く蹴る音、廊下からリビングへ続く中扉を音がするほど強く開ける音、母親への文句。
いつ自分の部屋の扉があいて兄が文句を言いに来るのか、殴りに来るのか怯える。
ものが投げ込まれる日もある。
私がリビングに置いているカバンや洋服、ペットボトルなど。布団の上で休んでる私の顔に向かって投げてくる。
私の家は戦場だ。
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