第四章賢君への道(六)
建保七年、西暦一二一九年。
年が明け、実朝と御台所倫子は、手をつないで、御所の庭の梅林を散策していた。まだ、ようやくぽつぽつと花を咲かせ始めた木がほとんどであったが、それでも新しい春の訪れが感じられた。
「御覧になって、御所様」
倫子は、梅の木の下でじゃれ合っている愛犬の飛梅と久米を見つけていった。
「ふふ。あちらも仲良しだ」
実朝も微笑み返して言った。
飛梅と久米は、夫婦となって、白雲、白珠、白露、白波、白雪といういずれも飛梅譲りの真っ白な子犬をもうけていた。
「御所様にお願いして一匹いただこうかな」
時房は、子犬達とたわむれながらのんびりと言った。
「儂は白雪にしようかな。久米に似て一等の別嬪じゃ」
「父上、それは白珠です。というか、全員雄ですから」
「違うぞ、太郎、それは白露だ、憂いがちで儚げな風情をしているだろう?白珠の方はもう少し瞳が大きいこっちだ。白雪は、雪玉のように少しふっくらしている。白雲は、やや目つきが細い感じがたなびく雲のように見える。白波は、やや上がり目で、よく見ると額の辺りに波のような小さい筋がある。それぞれの特徴を踏まえてそれに合った名前を御所様がつけられたんだ」
「こんなにそっくりなのに、よく間違えませんね」
「儂も全然見分けがつかんぞ」
正確に指摘する時房に泰時と義時は唸るように言った。
穏やかな時間が流れている御所とは裏腹に、鶴岡八幡宮のある部屋の中では、暗雲が立ち込めていた。薄暗い部屋の中、公暁は、確実に自分の駒となって動く屈強な体格をしたわずかな僧兵たちを前に、燃えたぎるような憎しみを瞳に浮かべて計画を練っていた。
右大臣拝賀の儀式が行われる鶴岡八幡宮は、同八幡宮の別当である公暁の管轄領域であり、己の庭のようなものだった。前年の左大将の儀式の際に、一行がどのような行動をとったのかについての情報もすでに入手している。警備が手薄になる時間と場所も分かった。
仏に仕えることを余儀なくされた公暁は、大規模な独自の軍を持っておらず、叔父実朝のように命令一つで兵を集めるだけの力も人望もない。事前の情報漏洩には細心の注意を図らなければならなかった。めのと一族である三浦に事前に決起を促したとしても、実朝に忠誠を誓っている義村が公暁に従うはずがないことは分かり切っている。側近の白川義典を伊勢神宮の奉幣使の名目で立たせ、ことが成就した時に備えて、西国の寺社の縁者と連絡を取る、公暁が打てる布石はせいぜいそれくらいだった。
極めて不安定な精神状態にある公暁は、もうどうにもならないところまで追い詰められていた。公暁が決して手に入れることのできないものを持っている叔父実朝。たとえ、公暁自身がすべてを失ったとしても、叔父のすべてを奪ってしまいたい。右大臣拝賀という鎌倉でこれまでにない最も華やかで重要な儀式の最中に、叔父のすべてを壊して、人々を地獄に陥れる。唯一それだけが、今の公暁にとって、己を開放して楽になれる方法だった。
右大臣拝賀の日の数日前。御台所倫子の兄、大納言坊門忠信が京から鎌倉にやって来た。倫子が久方ぶりに兄と語り合った後。妻と寝所で二人きりになった実朝は、翡翠の数珠を手に持ったまま、妻を抱きしめて言った。
「御台は、京が恋しい?」
夫の問いに、倫子は少し考えてから答えた。
「生まれ故郷ですから、懐かしくないと言えば嘘になります。けど、今も、これからも、御所様がおられるところが、私のいる場所です」
実朝は、翡翠の数珠ごと妻の手を強く握りしめた。
「私が京に行ったのは、一度だけだ。それも、とても幼かったから、ほとんど覚えていない。今となっては、はっきりと覚えているのは、数珠をとりかえっこした小さな女の子だけだ。大御所になって、少し重荷を降ろすことができたなら、今度は御台と一緒に、もう一度京へ行ってみたいものだ」
倫子は夫の手を握り返して、微笑んだ。
「御所様と御一緒なら、私はどこへでもお供いたしますわ。九州だって、からの国だって、天竺だってついて参ります」
「ありがとう、御台。もう少し待っておくれ。そうしたらきっと……」
その夜、実朝はそのまま、愛する妻と二人、押し寄せてくる内なる波に流れを任せたまま、夢の国へとたどり着いた。
右大臣拝賀の日の当日。実朝と倫子は、御所の庭で、降りしきる雪の中で咲き誇る梅の花を共に眺めていた。
倫子がそっと紫水晶の数珠を懐から取り出した。
「綺麗だ」
そう言って、実朝は、紫水晶の数珠ごと妻の手を握りしめ、うっとりとしたような表情を向けたまま、妻に口付けた。
「それなら、とりかえっこしましょう」
倫子が微笑んで実朝に言葉を返すと、実朝もまた懐から翡翠の数珠を取り出した。
「帰ったら、またとりかえっこだ」
実朝は笑って、さっきよりも深く妻の唇を吸った。
暗闇の銀世界の中、あちこちに松明が掲げられていて、鶴岡八幡宮の中は何とも神々しい雰囲気があふれていた。
「このように、目が弱くなって、立派な右大臣様のお姿を目にすることができないとは」
老臣大江広元は、若い将軍の晴れの日に感激して涙を流していた。
「赤ん坊の時以来泣いたことがないと言われる大官令の涙を拝める日が来ようとは」
茶化すような実朝の言葉に、広元は、ますます涙を流して言った。
「きっと、素晴らしく立派なお姿なのでしょうな」
「それはもう。我ら自慢の鎌倉の右大臣様ですから!」
義時は、いつになく誇らしげな顔で答えた。
鶴岡八幡宮の中門にたどり着いた頃、急に義時の顔色が悪くなったのに実朝は気づいた。
「いかがした、叔父御」
心配そうに声をかける実朝に、義時は、面目なさそうな顔で答えた。
「この寒さで冷えたのと、大事な儀式で失敗でもしたらと緊張したせいか、ちと腹具合が悪くなってしまって、震えがとまりませんわい」
「それはいかんな」
実朝が心配して叔父のそばへ駆け寄ろうとしたところ。
「ワンワン!!」
雪の中を紫色の首紐を巻いた飛梅が、大声で吠えながら走って来た。
「飛梅。お前、こんなところまでついてきていたのか!」
実朝は呆れたように言った。
周り一面雪景色の中、白い犬が一匹行列の後を追いかけてきたとしても、保護色に隠れて誰も気づかなかったか、気づいたとしてもそれほどたいして気にとめるほどのことでもないと思ったのだろう。
「忠犬殿も、ご立派な右大臣様のお姿をこの目に焼き付けておきたいのでしょう」
義時は目を細めながら言った。
なおも、寒さでぶるぶると震えながらしぶり腹をさすって堪えている義時に実朝はさらに気遣いように言った。
「今夜は特に冷える。ここは仲章に代わってもらった方がよかろう」
「大事な時に、本当に申し訳ございません、御所様」
恐縮しながら言葉を返す義時に対し、実朝は首を軽く横に振って明るく笑った。
「留守番だと言ったのに、仕方ない子だね。お前もここで、しばらく待っていなさい。それではな、叔父御、飛梅。行って参る」
それが、若い甥と義時とが交わした最期の言葉となる。実朝は、闇夜の銀世界を先に進んで行った。
実朝と京からやって来た公卿、文官達とわずかな供しかいない静まり返った空間。そこに、若い男と数人の僧兵たちが突然押し寄せてきた。
「おのおの方、早く逃げられよ!」
異変を察知した実朝は、そう叫んで、武家の棟梁らしく、毅然としたまま、恐怖で震える殿上人達を先に逃がした。
白い頭巾をかぶった若い男が、実朝に刃を向けて攻撃してきた。実朝は、それを持っていた笏で防ぎながら、文官らしき男を目で追い、「そなたも逃げよ!仲章!」と叫んだ。
源仲章らしき男は、一瞬の隙をつかれて、僧兵に斬られた。
実朝に太刀で向かって来た若い賊の男は、仲章の顔を確認した後、「しまった!義時ではなかったか!」と叫んだ。
その声に、実朝は聞き覚えがあった。甥の公暁だった。
「お前らは、我が父の仇だ!」
狂ったように叫んで歪んだ顔を向ける甥を見て、実朝は全てを理解した。心を閉ざしてしまった甥の様子を義村から聞いていた実朝は、いつかこんな日がくるかもしれないと心のどこかで感じていた。
父頼朝を始めとして慈愛に満ちた大人たちに囲まれ、成長してからも、辛く悲しいことの連続であったが、妻倫子を始め多くの者に支えられて生きて来れた自分とは違い、この子は本当に一人ぼっちだったのだ。皆にはすまないと思うが、この子の怒りの刃をそのまま受け止めてやる。それだけが、きっと今の自分が寂しいこの子にしてやれる唯一のことなのだ。実朝はそう思った。
「ととさま!ととさま!」
必死に泣いて父を求める幼い善哉に、父頼家は冷たく言い放つ。
「お前のような軟弱者は、我が子にあらず!とっとと朽ち果てて死んでしまえ!」
公暁の脳裏に、父頼家の声が繰り返し聞こえてくる。
公暁は、叔父に向かって再び刃を向けた。歳の変わらぬ若い叔父は、雪の中で綻ぶ紅梅のように静かに優しく笑い、今度は抵抗することなく、公暁の刃をそのまま受け止めた。実朝が懐にしまっていた、愛する妻から預かった紫水晶の数珠が切れて、パラパラと白い雪の上に零れ落ちていく。
実朝は、甥を抱きしめるかのように、両の手を広げて、最期の言葉を吐いた。
「善哉、お前はよい子だ」
それは、公暁がとうに捨てたはずの名だった。
「ああ!!」
絶叫した公暁は、叔父の首を掻き切った。やっと、本当の仏の首を手に入れた、これで自分は解放される、そう思った公暁は、実朝の首を頬ずりして抱きしめながら、大音声で叫んだ。
「源頼家が遺児、阿闍梨公暁。親の仇を取った!ただいまから、我こそが大将軍なり!」
寒さで震える義時に、飛梅は毛皮で覆われた体をくっつけるようにして寄り添っていた。
「忠犬殿は温かいな」
義時と飛梅は、共に主人の帰りを待っていた。
どれくらいの時間がたったであろうか。一面の雪景色の中、人間の耳には聞こえぬであろう不穏な音を飛梅は耳にした。それは、遠くから聞こえるキーンという金属音と若い男の叫び声だった。
「どこへ行くのだ!」という義時の声を無視して、飛梅は、突然走り出して、主人が向かった先に一目散にかけていった。
飛梅が見たのは、首のない主人の遺体だった。血の匂いを嗅いで主人であることを確認した飛梅は、クーンと主人に甘えるような声でないてみたが、主人は何も答えてくれない。飛梅の主人を殺害した犯人はもうその場にはいなかった。
飛梅は、大声で吠えたてながら、中門の方へ走って行った。義時のもとへかけて行った飛梅は、怒りを隠せぬように吠え続けた。やがて、義時のもとに、将軍が公暁に討たれ、公暁とその手下らが逃亡してその場を立ち去った旨の報告がもたらされた。
頭が真っ白になり、放心状態の義時は、目の前で何が起こったのか全く理解できないままだった。義時がはっきりと理解できたのは、異常なほどに吠えたてて何かを伝えようとする犬の声だけだった。
「父上!父上!」
泰時が、義時の体を強くゆすぶっても、義時は、焦点の揃わぬ両目で空の闇をぼんやりと見つめて何の反応も示そうとしない。泰時は、父に代わって、逃亡した公暁一味を追うようにとの指示を飛ばした。
義時は、いつの間にか自分の屋敷に戻っていたが、どうやってここまで戻って来たのかまるで記憶がなかった。
左大将の直衣始めの儀での失態と息子の暴行事件の責任を取って、このたびの儀式の参列を遠慮して自分の屋敷にとどまっていた三浦義村のもとに、突然公暁の使者だと名乗る僧兵が、公暁が将軍を討ったことと、公暁が東国の大将軍であるから、三浦はそれに従うようにと言って来た。
義村は、我が耳を疑った。心を閉ざし、精神状態が不安定だった養い子が、まさか本当にこのような恐ろしいことをしでかしてしまったというのか。
(嘘だろう!嘘に違いない!)
そう思った義村は、公暁の使者だという僧兵をその場で直ちに切り捨てた。同時に、切り捨てた僧兵の言ったことが本当だったらどうするのか。義村は、もたらされた報告が嘘であってほしいと願いながら、北条義時の屋敷に使いを出した。
義時は、自分の屋敷に戻っても、相変わらずぼんやりと虚空を見つめているだけだった。衝撃が大きすぎて、現実を受け入れるのを心が拒否しているに違いなかった。
やがて、義時の屋敷に三浦義村からの報告がもたらされた。使者を寄越した主人の動揺そのままに、三浦の使者もまた相当動揺していた。
思考が止まった義時は、一言も発せない状態のままだった。やっとのことで、何か重大事が起こったらしいと認識した義時は、ぽつりと言った。
「御所様にお伝えしなければ」
「父上!父上!しっかりしてください!その御所様が、謀反人公暁に討たれて亡くなられたのです!」
義時は、息子が何を言っているのか分からないと言った表情をしていたが、やがて、暗闇の空を見上げて泣き叫んだ。
「儂が御所様を殺したようなものだ!あの方は、儂の罪をすべて一人で背負って逝かれてしまった!」
目を真っ赤にして涙を堪えている泰時は、気力を振り絞って父に言った。
「父上、今は泣いている場合ではありません。謀反人公暁を討つように、直ちに三浦に指示を出されますよう!」
義時は、ぎゅっと固く目を閉じて開けた後、意を決したように、謀反人公暁を討つべしとの命を発した。
三浦に送った使者がなかなか戻ってこないことに痺れを切らした公暁は、実朝の首を抱えたまま、少数の僧兵を従えて、三浦の屋敷に向かった。その途中で、義村の兵が公暁らを出迎えた。三浦の追手を全力で蹴散らした公暁だったが、多勢に無勢だった。
「御所様は、あなた様の叔父君は、皆の希望だった!そのお方を討った謀反人に、まことに皆が従うと思われたのですか!若君!」
耐えられないといった悲痛の表情で養い子に問いかける義村に対し、公暁は叫んだ。
「俺は、叔父上とは違っていつもずっと一人だった!叔父上のようになりたくてもなれぬのに、叔父上のような立派な人間になれと言われ続けた俺にとって、それがどれだけ苦しいものだったか。お前には決して分かるまい!壊れた俺には、こうすることしかできなかった!」
義村は、養い子のことを何一つ分かっていなかったことを心から悔いた。せめて、最期は自分がと思った義村は、「若君、御免!」そう言って、公暁を自ら討とうとしたが、どうしてもできなかった。
その様子を見た公暁は、狂ったように笑いながら、「俺こそが、将軍、源実朝だ!」そういって、公暁を押さえつけていた義村の家来たちを渾身の力で押しのけて、再び反撃を開始し始めた。
「情に流されますな!三浦殿!」
公暁は、そう叫んだ長尾定景によって討たれた。義村は、公暁の討たれた首を抱きしめ、長い間泣き続けた。
降り積もる闇夜の雪の中、三つか四つくらいの幼児(おさなご)がうずくまって一人で泣いていた。
「ととさま、ととさま」
幼子は必死で父の名を呼ぶが、父は幼子をなかなか迎えに来てくれなかった。
そこに、一人の若い貴公子がやってきた。
「ととさまが、いないよう」
貴公子は、目に涙をいっぱいためて泣きじゃくる幼児に視線を合わせ、その手を握って、涙をぬぐってやってから、ぎゅっと懐に抱き留めた。
「寒い中、一人で寂しかったであろう。善哉」
善哉は、小さな手で縋りつくように叔父に抱きつき返した。
実朝は、幼い甥を抱き上げて闇夜の中を進んで行く。そこに、善哉と面影の似通った別の若い貴公子が現れた。実朝の兄で、善哉の父頼家だった。
実朝に抱かれている善哉が「ととさま!」と小さく呟いた。
頼家は、善哉の方をぎろっと睨んだ。それを見た幼い善哉はびくっとなって、叔父の腕の中で再び泣き出してしまった。
幼い甥を優しくあやしながら、実朝は、兄の方に近づいて行く。
「一人で立ち上がれぬ軟弱者は、我が子にあらず!勝手に朽ち果ててしまえ!」
頼家は、善哉に向かって怒ったように叫んだ。
「善哉が弱虫だから!ととさまは、善哉のことが嫌いなんだ!」
容赦ない実父の言葉に善哉はますます泣きじゃくった。
「相変わらず、天邪鬼の意地っ張りであられる。可愛い我が子に、心にもないことをおっしゃいますな、兄上」
そう言って、実朝は、善哉を抱き上げたまま、そっと頼家の腕に手渡した。頼家は、不貞腐れたような顔で、実朝から善哉を受け取って抱き上げた。
「心配させおってからに!」
善哉を懐に抱いた頼家は、ぼろぼろと涙を流した。
「ととさま!ととさま!」
善哉はやっと探し求めていた父の腕の中で初めての安らぎを感じていた。
その姿を実朝は慈愛に満ちた顔で見つめていた。
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