第四章賢君への道(五)

 建保六年、西暦一二一八年。

 その年に入って間もなく、実朝は権大納言に任官。院の皇子を実朝の次の後継者として迎える策を実現するため、計画が実行に移されようとしていた。

 二月四日。尼御台政子は、弟の時房を供に、表向きは熊野詣という触れ込みで、院の乳母で、頼仁親王を養育している卿二位兼子との交渉のため、京へ向かった。

「母上、お気をつけて。五郎叔父、いろいろと頼んだぞ」

「お任せください!御所様!」

 実朝の言葉に、時房ははりきっていたが、政子の方は、皇子推戴の交渉という自分に課された任務の重さ、あまりの恐れ多さに、緊張した面持ちを隠せなかった。

 その頃、朝廷である面倒な事件が起きた。西園寺公経と大炊御門師経との間に、官職を巡る争いが起き、公経が院に官職をせがんだが、院がこれを断ったので、公経が縁戚関係にある実朝に仲介を頼むといった趣旨のことを言ったため、公経は院の怒りを買って謹慎させられたのである。実朝は、院と公経との間に入って取りなしをしたが、このことで、叔父の義時らは、院と実朝との間に隙間風が吹き、交渉に悪影響をもたらすのではないかとひどく心配した。

「母上と五郎叔父の苦労を無駄にするわけには行かない。弱気な姿勢を見せてはならぬ」

 実朝は、自分自身の大将の任官につき、広元を使者に立てたが、数日後、右大将ではなく、必ず左大将に任命してくれるようにと、念押しするかのように再度使者を立てた。あくまで、朝廷に対して強気な姿勢を崩そうとしない実朝に対し、広元と義時はますます心配になった。

「図々しすぎではありませんか。院様を怒らせたらどうするのですか」

 怖い者知らずな若い甥を案じた義時の発言に、実朝は笑って言った。

「いや、これくらいがちょうどいいのだ。五郎叔父の図々しさと抜け目のなさは大いに見習わなければな。院様は、豪気なお方だ。ささいなことを根に持つようなお方ではなかろう」

 義時らの心配をよそに、院と実朝との間には、今のところ、それほど大きな波風は立っていないようだ。

 母政子と時房は無事重大任務を終えて鎌倉に帰ってきた。

 政子は、院の格別のはからいで従三位の位を授かり、この時正式に「政子」と名乗ることになる。鎌倉では、将軍の母として大変敬われ重きを置かれていた政子であるが、出家した無位の女性に、公卿に相当する位を授けられるのは破格のことだった。

 時房もまた、得意な蹴鞠を通じて院から格別のお言葉を賜った。

 これらは、卿二位兼子と尼御台政子との間でなされた親王を鎌倉へ迎える話を院が内諾したことを意味していた。交渉は成功に終わったのである。

「母上、本当にお疲れさまでした。都人は、一見優しいように見えて、底意地の悪い人が多いと聞いておりましたから。心配しておりましたよ」

 母を気遣う実朝に対し、政子は勝気な笑みを見せて答えた。

「この母とて、御所の父上の上洛の際に、それなりに経験しておりますからね。恐れ多くも院様からご体面のお許しがありましたが、『私のような田舎の尼が院様にお会いするなど恐れ多い』と言ってご遠慮したのですよ。おかげで、立ち振る舞いについて、田舎者よと馬鹿にされずにすみました」

「母上も、なかなか強かなお方だ」

 母子は笑い合った。

 実朝は、御台所倫子も呼んで、時房に都の様子を話すよう促した。

「しきたりも何も分からないので困っていましたが、そのことを御台様のおいとこの尾張中将様にご相談申し上げたら、何かとご親切にしてくださいました」

 倫子も、京の縁者の者達の話を嬉しそうに聞いていた。

 時房は、興奮しながら、実朝に対して、自慢話を続けていく。

「何と、院様が、私の蹴鞠をご覧になりたいと内々におっしゃって、梅宮大社で私の蹴鞠をご覧に入れたのです!院様は、宮中でも、御簾をお上げになって、何度も私と息子の蹴鞠を御覧くださったのです!『呑み込みがうまくてたいしたものだ』とお褒めの言葉までいただいたのです!」

「それは何とも羨ましいことだ。五郎叔父の蹴鞠が大いに役に立ったな」

 上機嫌の時房に対して、実朝もまたひどく喜んで答えた。


 実朝は左大将に任じられ、六月に鶴岡八幡宮での左大将の直衣始めの儀が行われた。

 この時、三浦義村が、同僚との席次を巡ってちょっとした騒動を起こした。席次は、義村の方が上席の左で、長江明義の方が下座で右となっていた。長幼の序を重んじ、年配者を立てようとした義村はこれに異を唱えた。

「長江殿は、一族の御長老です。私が上席となるわけには参りません」

「何を言われる。三浦殿は、官職をいただいており、三浦殿こそが左に並ぶべきです」

 長江明義は、義村の義理堅さに恐縮しながらも、あらかじめ決められていたことを覆すわけには行かないとこちらも譲らなかった。三浦と長江がどちらも引かなかったため、出発の時間は大幅に遅れてしまった。

「どちらも頑固で、引こうとせず、大事な儀式に支障が生じてしまいます!」

 呆れた二階堂行村が、実朝に事態を報告した。実朝は、二階堂、三浦、長江それぞれの顔を立てた。

「自分の方が先にと争ったわけではないのだ。互いに譲り合う心は美しい。ただ、大事な儀式の進行をこれ以上遅らせるわけにはいかない。三浦はまだ若いが、長江は年配者なのでその機会もないかもしれない。ここは、長江が上席で、子孫への誉れとするがよい」

 実朝のいうとおり、長江が上席となり、儀式は無事進められた。

 

 実朝にとって、院は敬愛すべき人ではあったが、根が単純な坂東の者達とは違って、やはり油断のできない部分があり、警戒を怠るわけにはいかなかった。

 八月。広元の息子時広が、朝廷に仕えるために京へ上りたいと二階堂行村を取次ぎとして、実朝に申し入れてきた。せっかく皇子を鎌倉に迎えるための交渉がうまく行っているこの時期に、重臣の子息が今京に出向いては、朝廷に取り込まれることになりはしないか、逆に広元親子に何か裏があるのではないか、そこまで勘ぐった実朝は、時広の申し入れに不機嫌を隠せなかった。

「鎌倉では出世できないと思って、京へ上りたいと思っているのであろう。鎌倉のことを蔑ろにするとは、何という不忠者か!」

 二階堂行村が、いらだった様子の実朝の言葉を伝えると、時広は行村に必死に弁明した。

「私は、京のことばかりを考えて鎌倉を蔑ろにしているわけでは決してありません。朝廷での務めを終えたならば、必ず鎌倉に戻って来て日夜忠勤に励みますから。そう御所様にお取次ぎください」

 しかし、行村もまた、実朝の剣幕に恐れをなし、そのまま引き下がってしまった。時広は、将軍の叔父である義時に何とかしてくれと泣きついた。

(何が原因かは分からぬが、御所様の雷がさく裂したな)

 普段は温厚な実朝であるが、意外と怒りの沸点が低い面があり、実朝を本気で怒らせたら父頼朝並みに恐ろしいことをよく知っている義時は、時広のことをあわれに思い、実朝に取りついでやった。

 義時が、時広の事情を伝えたところ、実朝は、時広の京行きを許した。

「言い過ぎた私も悪かったが。時広も、事情があれば、直接私に言えばよいではないか。何故、そんなにびくびくするのか。あのような様子で、伏魔殿のような朝廷でやっていけるのか」

 実朝の言葉に、義時は苦笑した。


 九月。

 実朝が、泰時ら近習達と夜間、御所で和歌の会を開いていたときのこと。

 鶴岡八幡宮である騒ぎが起きた。ある若い僧と少年が月を楽しみながら歩いていて、それを見とがめて見張りの者が注意をしたところ、その見張りの者は、その若い連中に暴行を受けてしまったのだ。詳しく調べると、その若い者達の中には、公暁付きの近侍の少年で、公暁のめのとをつとめる三浦義村の息子駒若丸が含まれていた。

 息子の不祥事を知った義村は、すっ飛んできた。

「このたびは、不祥の息子がとんでもないことを。お詫びの申し上げようもございません」

 恐縮しながら、ひたすら頭を下げて謝罪する義村に対して、実朝は言った。

「駒若丸はまだ子どもだ。この一件は、主人である公暁の責任も大きい。公暁の心の乱れが、下の者にも良からぬ影響を与えたのだ。あの子の心情を慮ってあまりうるさく言わぬようにしていたが、上に立つ者の心構えについて、厳しく申し渡さねばなるまい」

「仰せはごもっともなことなれど。今の若君は、お心がひどく弱っておられるように思われます。どうか、今少しのご宥恕のほどを」

 義村は、このたびの駒若丸の不祥事に加えて、精神的に不安定な状態にある公暁の様子に、保護者としての責任を感じずにはいられなかった。義村の心痛を察した実朝は、ひどく心配気な様子で、義村に今の公暁の様子を尋ねた。

「大丈夫なのか、あの子は。引き籠って、人と会うことも話をすることも拒否していると聞いているが」

「今の若君は、誰にもお心を開こうとなさいません。中には、恐れ多くも、若君が御所様を呪詛しているのだと噂する者までおります。私も、どうしたらいいのか……」

「そなたも、あまり思い詰めるでないぞ。恐れ多くもやんごとなきあたりが、官打ちで私に呪詛をかけていると噂する者さえいるが。私はこのとおり、何ともない。呪詛それ自体が直接の原因で、本当に人がどうこうなるはずもない。あの子が、仮に私を呪っていたとしても、それであの子の気が済むのなら、それでいい。そっとしておいてやろう」

 悲痛な面持ちで答える義村を気遣うように実朝は言った。


 十月。実朝は、内大臣に昇進し、母政子には従二位が授けられた。いずれも、親王を次の後継者として迎えるに際して格式を整えるための院の気遣いであり、実朝への院の信頼の証でもあった。

 十一月。実朝の和歌仲間で、東重胤の息子胤行が、領地に帰ってなかなか帰って来なかった。実朝は、まだ少年だった時代に、父重胤の振る舞いに癇癪を起こして、叔父義時に諫められたことを懐かしく思い出した。

 恋しとも思はで言はばひさかたの天照る神も空に知るらむ

 そなたのことを恋しいと思ってもいないと言ったならば、天照大神も空で嘘を御知りになって天罰を下されるだろうよ。

 そう言って、実朝は、恋の歌になぞらえて、父親と同じようにうっかりして連絡を寄越すのを忘れるなよと言った趣旨の文を胤行に送った。

 恐縮した胤行は、さすがに父と同じ二の舞は踏まず、きちんと文を寄越した。

 また、その頃、昨年座礁してしまった大船の修理が完了した。

「修理したら、当初より随分と小回りなものになってしまったが。私は、諦めたわけではないぞ」

 力説して言う主君に対し、近習の葛山五郎景倫も笑って頷いた。

「存じております。私も、この時をどれほど楽しみにしていたことか」

「親王様をお迎えして、私が大御所になって少し身軽な身になったならば、御台と一緒に京へ行って、様々な方々とお会いして和歌の話などをしてみたいものだ。それどころか、私自身が宋の国へ行くことも本当にかなうかもしれぬ。そなたは、一足先に博多に行って、かの国をじっくりと見て来てくれ」

 そう言って、実朝は、景倫を旅立たせた。


 十二月二日、九条良輔の薨去により、実朝は、ついに右大臣となった。摂関家の出身でもないまだ二十代の若い武家の棟梁が、京に在住することなく、坂東にいたまま右大臣という貴職につくのは、異例のことであったといってもよい。院の皇子を後継者に迎えるため、そして何より院の実朝への深い信頼の表れに他ならなかった。咲き誇る花のように、実朝の権勢は今ここに極まっていた。

 一方で、引き篭もり、荒んだ生活を続けている公暁の良くない噂は広がっていくばかりだった。鎌倉が、朝廷の重要な使者を迎えようとしている大事な時期でもあった。保護者として、もはやこれ以上黙っているわけにはいかないと考えた三浦義村は、無理やり公暁に面会して、厳しく諫言した。

「いい加減になさってください。若君はいつまで、このような荒んだ生活を続けるおつもりなのですか。中には、若君が、御所様を呪詛しているなどと、心ないことを申す者さえいるのです。これらはすべて、若君の普段の生活態度が原因ではありませんか」

 義村の言葉に、公暁は、ぼんやりと虚空を見つめながら、乾いたような笑いを浮かべて言った。

「それが本当だったら、叔父上はどうされるのだろうなあ」

「御所様は、『呪詛されたことが直接の原因で、私が死んだりすることはないよ。あの子の気が済むのなら、それでよいではないか。そっとしておいてやれ』とおっしゃっておられます。若君は、一体、いつまで、叔父君のお優しさに甘え続けるおつもりなのですか」

 義村の言葉を聞いて、公暁の心は完全に壊れた。

(やはり、叔父上は、何もかもお見通しなのだ。叔父上は、誰よりも強く、恐ろしい。俺が呪ったくらいで、それを恐れて衰弱して死ぬような人じゃない)

 このとき、公暁は、今度こそ、確実にやれる方法で、己自身の手によって叔父を葬ろうと決心した。

 叔父は若くしてついに右大臣という地位にまで上り詰め、親王を鎌倉に呼び寄せる準備が着々と進んでいる。そうなれば、自分の出る幕などどこにもない。もはや、自分の居場所はどこにもなく、捨て去られるのみ。

 多くの者に慕われ、自分が決して手に入れることのできないすべての物を手にし、華やかな場所で眩しいばかりに輝いている叔父。その叔父をこの手で抹殺して初めて、自分は全てを手に入れて、解放されるのだ、公暁はそう思った。

 翌年には、実朝の右大臣昇進を祝う鶴岡八幡宮での拝賀の儀式が控えており、院から、装束や車などの豪華な贈り物が届けられた。

 それに合わせて、式次第などの具体的な調整が進められていく。その際に、左大将の直衣始めの儀で儀式を遅らせるという失態に加え、息子の暴行事件という不祥事に対する責任から、このたびの儀式に、三浦を参列させることが問題視された。

 実朝は、義村にすまなさそうに詫びた。

「長男の朝村を代理とする参列は認めるが。そなたにはまことにすまないことになった」

「もったいないお言葉にございます」

 義村は、主君の気遣いに頭を垂れた。

 

 年の暮れる日の夜、実朝は、愛する妻の柔肌の温もりの中で眠りについた。

「待ちなさい!千幡!」

「男のくせに、逃げるな!千幡!」

「ととさま、ととさま!助けて!怖いよう!」

 おっかない兄頼家と次姉三幡に追いかけられて、幼い千幡は泣きながら御所中を逃げ回り、必死で大好きな父の名を呼ぶ。そうすると、父は、いつだって、頬ずりをして頭を撫で、千幡を優しく抱き上げてくれる。

 千幡が、梅の一枝をもって御所の庭を歩いていると、千幡よりもまだ小さい男の子が泣いていた。

「ととさま!ととさま!」

 幼い男の子は、千幡と同じように、必死に父の名を呼んでいるが、その子の父はなかなかその子を迎えには来てくれない。

「ねえ、泣かないで」

 千幡が、梅の一枝をその子にあげて、その子の涙を拭いてやろうとしたとき。その子の父がやって来た。

「余計なことをするな!そのような軟弱者は、朽ち果てていくが定めよ!」

 声の主は、兄頼家だった。

「ひどいよ!にいさま!善哉は、まだこんなにちっちゃいのに!」

 兄の言い方が悲しくて、泣き止まない善哉と一緒に千幡も泣き出してしまった。

 夢から覚めた実朝は、泣いていた。

「御所様?何か、怖い夢でもご覧になられましたか?」

 ひどく心配気に、妻の倫子が実朝をぎゅっと抱きしめる。実朝は、その温かさに安堵しながらも、涙が止まらなかった。

 公暁には、実朝のように、無条件に己を抱きしめてくれる優しい父も妻もいなかった。慶賀を祝う雰囲気の中、一人孤独な公暁だけが闇を抱えたまま、年が明けていった。

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