第四章賢君への道(二)

 建保三年、西暦一二一五年。

 年が明けて、実朝の祖父北条時政が伊豆で静かに息を引き取った。実朝の中で、もはや時政に対するわだかまりは残っていなかった。己の過去を悔いるかのように仏道に励み、穏やかな余生を過ごした末の最期だったことを聞いた実朝は、心から安堵した。

 その年の六月には、禅僧栄西が亡くなっている。渡宋の話、昨年酒で失敗した際に茶を献上してくれたことなど、実朝の脳裏には、偉大な高僧との様々な思い出が蘇った。

 人の生死は世の常とはいえ、実朝は、一抹の寂しさを覚えずにはいられなかった。

 旅人の負担となる関錢の廃止。京在住の御家人達がさぼりがちな宮中警護について、勤務態度によって賞罰を与えるとの決定。鎌倉の経済発展のため、鎌倉の町人や様々な種類の商人の人数を決めて座を設けさせることなど。徐々に穏やかさを取り戻していく日常の中で、実朝は、その後も、まつりごとにおいて、地道な努力を続けていく。

 朝廷との対応も気を抜くわけには行かなかった。京の院から、仙洞御所で行われた和歌の会の様子を詳しく記した巻物が贈られてきた。和歌の世界の美しさに心惹かれる実朝であったが、和歌は同時に院との間を取り持つための重要な手段の一つであり、まつりごとの一環でもあった。

 実朝は、和田合戦以来塞ぎがちで、父である前内大臣坊門信清が病がちで出家したとの報を聞いて一層沈みがちになった御台所倫子への配慮も忘れなかった。

「女の子もいいものだなあ。久米、お前は本当に可愛いなあ」

 実朝が愛しそうに抱き上げて頬ずりしているのは、実朝が倫子のために新たに飼うことにした雌の子犬の久米である。

 久米は始め、下総局という実朝が生まれた時から仕えている千葉一族出身の古女房のところにいた。可愛がっていた幼い孫娘が亡くなり、ひどく落ち込んでいた下総局を慰めようと、縁戚にあたる東重胤が雌の子犬を贈り、下総局はその子犬に亡き孫娘と同じ名をつけた。その愛らしさが評判となり、将軍夫妻の愛犬となったのである。

 しかし、飛梅は背中としっぽを実朝の方に向け、すっかり不貞腐れた様子を見せている。

「御所様が、新しい女子(おなご)をお召しになって可愛がっていらっしゃるせいで、飛梅は御寵愛を奪われたと思ってすっかりご機嫌斜めですよ」

 そう言ってからかう時房に対して、実朝は苦笑した。

「ずいぶんと酷い言い草だなあ、五郎叔父。私も御台も、久米は飛梅にお似合いだと思っているのだがなあ」

 その御台所倫子の側に仕える者の順番を実朝は決めたのだが。これに選ばれなかった北条朝時が文句を言ってきた。

 朝時は、三年ほど前に、倫子に仕える佐渡という女房に不埒なことをしでかして、実朝と父の義時を激怒させ、一時鎌倉を追われていたが、和田合戦での奮闘ぶりが認められて、再び御所への出仕が許されていた。

「何で、五郎叔父ばっかり!儂だって、御台様のお側にお仕えしたいのに!」

 洗練された美男で人当たりの良い時房は、御台所付きの女房達に大変人気があったが。朝時は、過去の醜聞事件が災いして、女性陣に大層嫌われており、御所への出仕が許されるようになっても、御台所の近くに寄ることを厳禁されていた。

「過去の悪行を忘れて何を抜かすか!この大馬鹿者が!」

 朝時に対して、父義時の雷が落ちた。

(相変わらず、懲りない奴だ)

 兄の泰時と叔父の時房は、その様子を呆れながら傍観していた。


 地震だの鷺の出現だの気味の悪いことが続くので、実朝は、方違えも兼ねて、しばらくの間、御台所倫子らを伴って、叔父の義時の屋敷に移ることになった。

「面倒をかけてすまないな、叔父御」

「何をおっしゃいますか。我が家と思って、存分にお寛ぎください」

 実朝の言葉に、義時は笑って言った。

 御台所らが父の屋敷に移って来たことを知った朝時は、浮かれまくっていた。三年前の一件で、御台所付きの女房佐渡に不埒なことをしでかした朝時は、山賊を撃退した武勇伝を持つこの女房に手痛い反撃をされていた。

(まさか、あんなおっかなくて恐ろしい女だとは思わなかったな。都の人間だからといって人は見かけによらんな)

 朝時は、そんなことを思いながら、勝手知ったる実家の父の屋敷に、隙を見つけては入り込み、御台所の様子をこそこそと覗き見していた。

(だが、やはり御台様だけは別格だな。淑やかで、可憐で、まさにこれぞ高貴な姫君って感じで、たまわんわい!御所様が羨ましすぎる!)

 とうとう我慢できなくなった朝時は、周りに人がいない時に、御台所の側に姿を表してしまった。

 朝時は、ぼうっとなったり、うっとりしたりしながら、倫子の可憐な姿をしばらく見つめていたが、やがて何かの気配に気づいた倫子が声を発した。

「そこに、どなたかいらっしゃるのですか?」

(くう!声も可愛くてたまらんわ!)

 朝時は、ニヤニヤヘラヘラした気持ちの悪い助平面を倫子に向けながら、言った。

「どうも、お久しぶりです、次郎です。御台様。へへへへへ」

 朝時の姿と声を認識した倫子は、朝時が佐渡にしでかそうとしたことを思い出し、自分のことのように恐怖を感じた。

「いやあ!御所様、御所様!」

 実朝、泰時は実朝の番犬飛梅を連れて外を散策中だったのだが。倫子の声に反応して、飛梅は大声で吠えたてながら倫子のいる殿舎の方に走って行った。実朝と泰時も、何かを感じて飛梅を追いかけて行った。

 そこには、ヘラヘラニヤニヤした朝時が、恐怖のあまり震えている倫子と向かい合っていた。飛梅は、女主人を守るべく、大きく吠えたてて朝時に噛みついた。

「いってえ!何しやがる!犬の分際で!」

 飛梅に噛みつかれた朝時は悲鳴を上げた。

「大事ないか?御台」

 実朝は、朝時の目にこれ以上倫子の姿をさらさせないようにして、恐怖で震える倫子を強く抱きしめた。

「何をやっている!この不埒者が!」

 泰時は、そのまま弟を引っ張って御前を退出した。

 実朝と二人きりになってからも、倫子の震えは止まらない。

「御台、御台。私の方を見ておくれ。」

 そう言って、実朝は、倫子の頬を優しく挟んで倫子を見つめた。

「私のことも怖い?」

 夫の問いかけに倫子は首をゆっくりと横に振る。

 泣き出しそうな妻の顔を見つめながら、実朝は困ったように言った。

「私も人のことは言えないな。いつも、御台に対しては不埒なことを考えて、実行しているのだから」

「私に不埒なことをしてよいのも、私が不埒なことをされたいと思うのも、御所様だけですわ」

 恥ずかし気に、けれども潤んだような瞳で倫子は実朝を見つめてはっきりと言った。

「そんな可愛いことを言われると、止められなくなるよ?」

 そう言って、実朝は、妻の唇にかすめ取るような軽い口付けをした。

「嫌だったり、怖かったら言っておくれ。できるだけ善処する」

 夫に優しく抱かれながら、倫子の恐怖はやがて甘い疼きに変わっていった。

(叔父御の屋敷には随分と長居してしまったが。さすがにもういいだろう。警備の問題もあるし、やはりそろそろ御所に戻って御台を安心させたい)

 かれこれ二月半ものあいだ叔父の義時邸で過ごした将軍夫妻は、ようやく御所に戻った。

 初めて夫婦の契りを交わしてから随分と経つのに、実朝と倫子との間にはなかなか子どもができない。周りの者達の中には、側室を持つように言う者もいたが、実朝には全くその気がない。

「私に遠慮なさらないで」

 悲し気に言う妻に対して、実朝は妻を気遣うように言った。

「私は、もともと体が弱いから。子どもができないのは、きっと私に原因があるのだよ」

「けれど……」

 実朝は、妻の唇を塞いで、それ以上言わせずに、妻を抱く腕に力を込めた。

「私だって、不埒なことをしたいと思うのは、御台だけだから」

 中には、将軍夫妻に子ができないのは、和田一族の祟りだという者さえいる。和田一族とて、己の誇りをかけて戦った末の最期だったのだ。そんな馬鹿なことがあるわけがない。実朝はそう思ってはいたが、心のどこかで気にしていたのかもしれない。夢で和田一族の亡霊にうなされる日々が続いた。

 実朝は、改めて、和田一族の法要を、行勇の指導のもと行った。

 実朝も倫子もまだ若いが、もし、このまま夫婦の間に実子が生まれなければ、後継者問題が生じるのは必須である。実朝に一番近い血筋の者と言えば、兄頼家の子ども達ということになる。頼家の次男公暁と四男禅暁がいるが、二人とも仏門に入っており、実朝が兄と兄の長男一幡を廃して将軍に就いた経緯と、三男の千寿が謀反の旗頭とされた末の最期を迎えたことを考えれば、彼らを後継者とするのは支障がある。

 だが、女児だったら問題はない。頼家には、竹姫と呼ばれる娘が一人いた。実朝と倫子との間に子が生まれなかった場合の備えとして、竹姫に婿を迎えて、その系統に後を継がせるという手も考えられる。

 しかし、関東の有力御家人の中から竹姫の婿を選べば、御家人間の均衡が崩れ、新たな問題が生じることになる。

 ならば、いっそ、京のやんごとなきあたりに、竹姫を嫁がせて、その子をもらい受けるというのはどうだろうか。御台所倫子の姉は、院の後宮として冷泉宮頼仁親王をもうけている。頼仁親王と竹姫は年も近い。竹姫を頼仁親王の御息所として京に嫁がせ、その子を後継者候補として確保する。

(これなら、源氏の血も北条の血も残り、御台や院とも縁繋がりになって、申し分ないのではないか)

 実朝は、まだ若く、愛する妻との間に実子を持つことを諦めてはいない。

 その一方で、実朝は、実子ができなかった場合に備えて、後継者の確保を模索し始めていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る