第三章成長する将軍(八)
建暦三年、西暦一二一三年、二月十六日。
安念という僧の自白から、泉親衡が、先代頼家の遺児千寿を擁立し、執権北条義時を誅殺しようとする計画が発覚した。
現将軍実朝を廃して、千寿を擁立しようというのであるから、将軍に対する明らかな謀反でもあったが、謀殺の対象は実朝自身というよりも、義時だったと言ってもいい。多数の武士たちが名を連ねており、その中には、和田義盛の息子の義直と義重、甥の胤長も含まれていた。
実朝は、どの一族の者達もできるだけ公平に扱おうとしていたし、叔父の義時もまた、時政の独断的な行為が遠因となって、様々な事件につながった反省から、将軍や他の重臣達との協調を重視して、独断的で横柄な態度にならぬよう心がけていた。
それでも、北条は将軍の親族として、実朝とは何かと近い関係にあった。実朝自身、武よりも文を重んじ、まつりごと自体が武から文への転換期を迎えようとしていた時期でもあったから、実朝は、文官達や文治的な才に優れた北条の者たちと行動を共にすることが多かった。
和田一族のような武勇を誇る典型的な坂東武者達の中には、活躍の場がない者も少なくなかった。これらの者達から見れば、現将軍の叔父であり、後見人である義時が、権勢を誇っているように思われ、妬み、不満、非難などの矛先が義時に向けられるのは、ある意味仕方のない面もあった。わざわざ先代頼家の遺児が擁立されたのは、北条によって滅ぼされた者の残党達の不満が高まっていたからかもしれない。義時自身も、父時政の時代からの負の部分を受け継がざるを得ない立場にあったのだ。
「叔父御がどれだけ私や皆を助け、尽力してくれているか、私はよく分かっているつもりだ。じい様の時代の行き過ぎが人々の恨みを買う結果となったことを思えば、甘いと思われるかもしれぬが、できるだけ寛大な処置を頼みたいのだ。叔父御にも、いずれ息子の太郎達、若い新しい世代に任せる時が来る。その時に再び禍根を残すようなことはしたくはない」
澄んだ瞳で静かに語る実朝の姿を見た義時は、牧氏事件の前に聞いた、実朝の遺言のような言葉を思い出した。
「私は、それほど長くは生きられまい。私が、母上よりも先に逝くことになったら、叔父御が母上を守ってさしあげてほしい」
(このお方は、とうの昔から、覚悟を決めておられたのだ)
実朝が言った若い新しい世代、その中に実朝自身が含まれていないことに気づいた義時もまた、静かに答えた。
「御所様の仰せのとおりにいたしましょう」
謀反の旗印に挙げられた頼家の遺児千寿は、その後、周囲によって再び運命を狂わされた末、悲しい最期を迎えることになるが。それでも、祖母政子の嘆願もあり、この事件に関しては、出家を条件に助命されている。
渋川兼盛、薗田成朝ら、事件に名を連ねていた者に対しても、恩赦の決定がなされた。和田義盛の二人の子息も、義盛の永年の勲功に免じて赦免され、義盛の面目は施された。ただ、義盛の甥の胤長は、事件の主犯格であったため、赦免は許されなかった。それでも、命は助けられ、陸奥への配流にとどまっていた。
だが、血気盛んな和田一族に、実朝の心遣いは通じなかった。
三月九日。和田義盛は、甥の胤長も赦免してくれるようにと、一族九十八名を連れて御所の庭に列座し、将軍実朝に対して強訴のような振る舞いに及んだのである。
「調子に乗りおって!身の程を弁えぬ慮外者が!」
将軍の威光を蔑ろにする振る舞いに、義時もいつもの冷静さを失った。義時は、後ろ手に縛り上げた和田胤長を一族が列座する前で曝し者のようにして二階堂行村に引き渡した。
(義盛も、これがぎりぎりの妥協だということが何故分からぬのだ。力による見せしめを、和田は北条による挑発と受け取るだろう。誇り高い義盛は、これを決して許すまい。いずれ、血の雨が降るかもしれぬ)
実朝は、その後に起こるであろう出来事を予測して顔色を失った。
実朝の予想したとおり、和田一族の怒りは増していくばかりだった。和田一族は、横山時兼が、和田義盛のところへ来るなど不穏な動きを見せるようになった。実朝は、和田に使者を送ってこれをやめさせるように伝えたが、一度着いた火を消すことはそう容易いことではなかった。
流罪となった胤長の屋敷につき、実朝は、慣例どおり和田義盛が拝領することを許し、義盛の面目は施されたかに見えた。
だが、義時は、実朝に対し、胤長の屋敷を自分に引き渡してほしいと申し出た。
(叔父御は焦っている。御所の東門に近い胤長の屋敷が義盛のものとなれば、和田の動きが前よりも活発化することは分かり切っている)
叔父の意図を察した実朝は、叔父の要求を承諾せざるをえなかった。
和田胤長の幼い娘が、死の床で必死に父の名を呼び、父に会うことがかなわぬことを憐れに思った朝盛が、父のように振る舞って娘の最期を看取ったという話を聞いた実朝は、必死に父頼朝を求めていた幼い頃の自分の姿と重ねて、涙を流した。
(罪人とはいえ、人が子を思い、親を思う心に変わりはない。まして、幼い娘にいかなる罪があるというのだ)
義時が胤長の屋敷を占拠したことに激怒した和田一族は、抗議の意を示すかのように、御所への出仕を止めた。朝盛もまた、一族の決定に従って、御所への出仕を止めざるをえなかった。
(私に、主君と一族とのどちらかを選べというのか!ああ、御所様に一目会いたい!)
四月十五日。月が澄み切った明るい夜のことだった。将軍の気鬱を慰めるために開かれた和歌の会の後、忍ぶように朝盛が現れた。
「どうしているのか、心配していたのだよ。よく顔を見せてくれた」
優しく微笑む実朝を、朝盛はたまりかねたようにきつく抱きしめた。
「御所様!御所様!」
いつもとは違う、ひどく思い詰めた朝盛の様子に、実朝は異変を察知し、本能的に朝盛の腕の中から逃れようとしたが、朝盛は実朝を強く抱きしめたまま離そうとしなかった。
朝盛は、熱っぽい潤んだ瞳で、ある古歌をささやいた。
「紫の帯の結びも解きもみずもとなや妹に恋ひわたりなむ」
実朝は、その時初めて朝盛の自分に対する本当の想いを理解した。
紫色の紐で髻を結わえていたまだ少年だった朝盛は、実朝の兄頼家の寵愛を受けていた。
だが、朝盛は、実朝とは帯を解く機会もなく、しきりに恋し続けることになるのだろうと自分の想いを告白したのだった。
「どうしても思い出がほしいのです。御所様」
しかし、どんなに朝盛が懇願しても、実朝は朝盛の想いを受け入れることはできなかった。
「すまぬ。私は御台でなければだめなのだ」
「分かっております。そのような御所様であればこそ、私は……」
朝盛は、実朝の温もりを確かめるように実朝を抱きしめ返した後そっと離し、泣き笑いのような顔を浮かべて去っていった。
「主君へ弓をひくことも、一族と戦うこともできない。この苦しみから私は逃げることしかできない」
そのような意味の置手紙を残して、朝盛は出家して姿をくらました。
しかし、朝盛は、弓矢に優れ一族の期待を担っていた青年であったことから、祖父やおじたちによって無理やり連れ戻されてしまった。
四月十八日。
朝盛は、黒染めの坊主姿のまま、御所に参内した。実朝は、朝盛の出家姿を見て、あふれる涙を止めることができなかった。
「朝盛、よう無事でいてくれた。それだけで私は……」
なんとか、言葉を紡ぎ出した実朝だったが、朝盛の出家の原因が他ならぬ実朝自身であることにひどく心が痛んだ。
「このような姿で、御所様にお目にかかることになろうとは……」
朝盛もまた泣いていた。
実朝は、遠く離れて行こうとする朝盛に、別れの歌を渡した。
結いそめてなれし髻(たぶさ)の濃むらさき思はずいまも浅かりきとは
濃紫色の紐で髻を初めて結んだ頃の朝盛は、実朝の兄頼家と縁を結んだ。そして、実朝に仕えるようになった朝盛は、いつも実朝の髻を結う際には紫色の紐を用意していた。朝盛自身が今度は実朝に深い想いを抱くようになるなど、思ってもいなかったことだけれども。朝盛と自分は浅くはない縁があったということなのであろうと実朝は感じずにはいられなかった。
「すまない。結局、私は、そなたを傷つけることしかできなかった」
朝盛は、実朝の言葉に首を横に振って、あの泣き笑いのような顔を浮かべて言った。
「これで、本当にお別れでございます、御所様」
和田義盛が、戦を起こすとの噂が流れ、もはやどうにもならないところにまで来ていた。
四月二十七日。それでも、戦だけはどうしても避けたい実朝は、使者を送って、義盛を諫めた。
「御所様に恨みはございません。ただ、相州の傍若無人が許せないがゆえに、用意をしているのです」
それが、義盛の返答だった。血気盛んな和田一族の者達の怒りは爆発寸前だった。面倒見がよく、人情家だった義盛は、一族の者達を見捨てることができず、一族の長として、一族の者達のそれ以上の暴発を抑えるためにも、自分が旗頭とならざるをえなかった。
和田義盛の決意を知った実朝もまた、将軍として断腸の思いで覚悟を決めざるをえなかった。実朝は、祖父時政に代わって叔父義時が実朝の後見人となったときに約束したとおり、北条と運命を共にすることを選んだ。北条に非があるのであれば、それは、将軍である実朝自身が背負わねばならない罪業でもあった。
五月二日申の刻(午後四時頃)。御所が手薄だった隙をついて、将軍実朝の身柄を確保するべく、和田方が突如として挙兵した。間もなく、その報が三浦義村からもたらされた。
義村は、当初同族である和田方と行動を共にするよう起請文を書いていたが、同族への裏切者という汚名を着ることを覚悟の上で、御所方へ味方することを決意したのだった。義盛と同じく、義と情に厚い義村にとっても、それは、将軍への忠義と三浦一族の生き残りを賭けた苦渋の決断だった。
義盛との約束で御所の北門を固めるはずだった義村は、実朝に一刻も早く避難するように促した。
実朝は、先に、鶴岡八幡宮に、母政子と妻倫子を避難させることにした。実朝は、手に握っていた翡翠の数珠を倫子に渡し、倫子の手を強く握りしめた。
「これは、あなたにお返ししようと思う」
実朝の行為が永遠の別れを意味するように倫子には感じられた。倫子は、懐から、紫水晶の数珠を取り出し、実朝にそれを渡して、実朝の手を握り返した。
「では、御所様にはこれを。必ず、ご無事でいらして。そして、もう一度取りかえっこいたしましょう」
倫子の言葉に実朝は頷いて、倫子を強くその腕に抱きしめた。
義村は、実朝の指示に従い、先に御台所倫子と尼御台政子ら女性達を北門から鶴岡八幡宮へと急いで避難させた。
「御所様も、ここは危のうございます!お早く!」
叔父義時の誘導で、実朝も直ちに北門から脱出し、法華堂に避難した。
酉の刻(午後六時頃)、和田方が猛攻撃をかけて来て御所に乱入した。
「御所様のお姿がどこにも見えぬ!」
「御所様は北門から既に姿を消してしまわれた!おのれ!三浦義村の奴が約諾を反故にしおった!」
実朝の身柄を確保できず、同族の義村の裏切りに憤慨した和田勢は、御所内の建物に火をかけて回った。
実朝は、御所が燃える様を遠くから眺めていた。
炎のみ虚空に満てる阿鼻地獄ゆくへもなしといふもはかなし
炎が高く燃え上がり、空を真っ赤に染めている。火だけにとどまらず、真っ赤な血があたりを埋め尽くしている。まさに、地獄そのものの光景だった。だが、もはやそれをどうすることもできないのだ。
武勇を誇る和田勢の攻撃はすさまじかったが、小雨が降り出し、人も馬も疲れ果て矢も尽き果てたので、態勢を整えるべく、和田勢は一旦由比ガ浜まで退却した。
五月三日寅の刻(午前四時頃)。横山時兼らが一族を率いて、和田方の援軍として腰越浦までやって来て、勢いを盛り返しそうな状況となった。
同日辰の刻(午前八時頃)。多くの御家人達がはせ参じたが、和田方か御所方か、どちらに味方すればよいのか迷っていた。実朝が、法華堂から、将軍として、北条側について和田方を討ち取るようにとの御教書を出したため、彼らは皆これに従った。
さらに同日巳の刻(午前十時頃)。義時、広元が連署して実朝が花押を記した御教書が、近隣の国々にまで発せられ、和田方の逃亡者の掃討が命じられた。
自らの命令一つで、多くの兵が動き、多くの命が犠牲となる。実朝は、自らの持つ権力の大きさをこの時ほど恐ろしいと感じたことはなかった。
午後になっても和田方の激しい抵抗は続いた。
その頃、鶴岡八幡宮に避難していた御台所倫子は、夫の身を案じながら、翡翠の数珠をぎゅっと握りしめていた。共に避難していた実朝の愛犬飛梅が外に出て行こうとするのを倫子は見咎めて言った。
「どこへ行くの、飛梅。外は危ないから、出てはいけないわ」
政子は、飛梅の頭をそっと撫でながら静かに言った。
「きっと、御所のもとへ行きたいのでしょう。行かせてやりましょう」
義母の言葉を受けた倫子は、飛梅を見つめて強く頷いた。
「お前も、御所様と一緒に、必ず無事に戻ってくるのですよ」
飛梅は、それに答えるかのようにワンと大きく鳴いて主人を探しにその場を去った。
「なあ、あれは、御所様の犬じゃないか?」
泰時の部下たちがひそひそと囁く声が聞こえたが、酒で酔っぱらって赤い顔をしている泰時はそれに気づかない。
「ワンワン!ワンワン!」
主君の一大事だと言うのに、現場の指揮官が酒に酔っているのを咎めるかのように、飛梅は泰時に大声で吠えたてた。それを認識した泰時は、驚いたように言った。
「お前、御台様達と一緒に避難したんじゃなかったのか」
飛梅の顔をじっと見ていた泰時は、やがて何かを悟ったように言った。
「そうか。お前、御所様のことが心配で戻って来たのか」
泰時の問いに答えるように、飛梅は、「ワン!」と大きく返事をした。
「全く、お前は大した忠犬だよ。敵の攻撃は凄まじくて油断はできない。何か作戦を考えるべきだろうとちょうど戦況報告を伝えに使者を向かわせようとしていたところだ。御所様は法華堂におられる。お前も一緒に行くといい」
泰時は、飛梅の頭を撫でて、使者と共に送り出した。
実朝は、疲れた様子だったが、泰時の使者とともに姿を現した愛犬の姿を見て驚いた。
「来てくれたのか、飛梅」
一目散に主人の元へ走って行く飛梅を実朝はぎゅっと抱きしめた。
実朝は、作戦を義時広元らと練り直した後、広元に戦勝祈願書を書かせ、二首の和歌を添えて、鶴岡八幡宮に奉納させた。
世の中は押して放ちの相違なく思ふ矢筋よ神もたがふな
押し放った矢筋が間違いなく思うとおりに飛んでいくように、世の中もそうなるよう神も間違ってくださるな。
鶴岡の神の教えし鎧こそ家の弓矢のまもりなりけれ
鶴岡八幡宮の神の与えられた鎧は、我が源氏の弓矢の守りでありました。
それは、実朝の武家の棟梁としての覚悟の現れであった。
同日酉の刻(午後六時頃)。実朝は、和田方の残党が西国に逃れてさらなる騒動を起こすのを防ぐため、在京御家人らに対し、和田方の残党を掃討するようにとの命を発した。
二日に渡る激闘は、双方に多くの犠牲者を出し、御所方の勝利に終わった。
ぼろぼろな心で帰ってきた実朝に、倫子は、ふわりと抱きついて実朝の胸の中で泣きじゃくった。
「心配をかけた御台」
実朝は、そう言って懐から紫水晶の数珠を取り出し、妻の手にかけ直した。
「ほら、とりかえっこ」
弱弱しい笑みを浮かべて妻を気遣おうとする実朝に、倫子も懐から翡翠の数珠を取り出し、夫の手にかけ直した。
「お帰りなさいませ、御所様」
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