第二章引き継ぎしもの(九)

 実朝が、御台所倫子との穏やかな時間をいつまでも楽しんでいることはできなかった。実朝が恐れていた、祖父時政の後妻牧の方の身勝手な野望が現実化する事件が起こった。

 きっかけは、実朝の御台所倫子の輿入れのために京へ赴いた牧の方の子息政範が亡くなったという情報と、牧の方の娘婿平賀朝雅と畠山重忠の息子の重保が激しい言い合いをしたとの情報がほぼ同時に鎌倉に届いたことにある。

 政範の死に畠山氏が関わっていたという讒訴が平賀朝雅から牧の方になされ、それを聞いた牧の方の憎しみが畠山一族に向かったのか。平賀朝雅と畠山重忠との間に、武蔵の国の覇権を巡る確執があり、武蔵の国に対する権益を手にしようと企んでいた北条時政が、それに乗じたのか。

 いずれにしろ、元久二年、西暦一二〇五年六月。畠山親子は、北条時政の意を受けた稲毛重成から、鎌倉に出頭するようにとの連絡を受けた。百数十騎というわずかな手勢で鎌倉に向かっていた重忠は、先に息子重忠が殺害されたことを知って初めて自分が謀反人とされていることに気づいた。覚悟を決めた重忠は、そのまま、僅かな手勢で、一万を超す討伐軍と激戦の上、命を落とした。重忠の清廉な人柄と僅かな手勢しか率いていなかったことから、重忠に謀反の意思がなかったことは明らかであった。

 自らの力のなさゆえに、将軍である実朝の名を祖父時政に利用され、無実の者が殺されてしまった。叔父義時から報告を受けて事実を知った実朝は、何よりも無力の自分自身に激しい怒りを覚えた。

 畠山重忠が無実であるとはいえ、それでも討伐軍として参加した者への論功行賞を行わなければならない。まだ少年の実朝を矢面に立たせないために、母政子が、実朝に代わって論功行賞を行った。

 しかし、政子が将軍の母として、重い政治的判断を下すさまを見た牧の方の憎悪は増すばかりだった。

 実朝の慶事のために向かった京で我が子が亡くなったにもかかわらず、実朝は生きて華燭の典を挙げて、御台所となった倫子との交流を楽しんでいる。その姿を見た牧の方が、実朝のことを憎むのはある意味、仕方のないことなのかもしれない。子を泣くした母の悲しみというのは、何物にも耐えがたいものであろうとも実朝は思う。実朝の兄姉をすべて亡くした母政子がそうだったのだから。

 だが、母政子は、牧の方とは違う。母は、子を失った悲しみを一度として己一人のための野心へと転化させたことなどなかった。政範は病で亡くなったのであって、戦や謀略などで誰かによって殺されたわけではない。牧の方は、果たして本当に政範のことを慈しみ、その死を悲しんだのだろうか。子を失って悲しみにくれる母が、野心を隠そうともせず、己が権力を持つためだけに、多くの者の血を流させたりするだろうか。

 この時の実朝は、祖父時政の監視下にその身柄を置かれていた。牧の方は、実朝を廃し、自らの野心を満たしてくれる者を次の将軍にしようとするであろう。実朝は、牧の方の憎悪が今度こそ、実朝自身に直接向けられるであろうことをはっきりと自覚し、覚悟を決めた。実朝は、倫子との短くも楽しかった日々を思い出し、心の中で先に逝くことを詫びた。

 

 最初に、牧の方に畠山への讒訴を行ったのは、平賀朝雅であったか。牧の方と朝雅の目的は、何なのか。考えを巡らせている義時の脳裏に、月食の夜の実朝の遺言のような言葉が浮かんだ。

「私は、体があまり丈夫ではないから、それほど長生きはできないと思う。私が、母上よりも先に逝くことになったら、その時は、叔父御、あなたが母上を守ってさしあげてほしい」

 牧の方の目的は、将軍実朝の抹殺か!義時は、今までにない戦慄を覚えた。まだ少年の実朝は、多くを語らなかったが、やはり、牧の方の野望を見抜いていたのだ。将軍は今、父時政の屋敷にいる。事は一刻を争う。義時は、甥を助け出すため、父と継母に歯向かうことを決心した。

 時政の屋敷に、義時の意を受けた兵が大勢押しかけた。

「尼御台様の御命令です!将軍家のお身柄をお引き取りに参った!相州殿の屋敷にお移しする!」

 だが、時政と牧の方の命を受けた者達は、実朝の身柄を渡そうとはしなかった。

 一族の確執と怨恨から、畠山重保殺害に手を染め、義時と共に畠山討伐に加わった三浦義村だったが、無実だった畠山重忠の武士の誇りをかけた壮絶な最期を思い出し、義村は、時政の意を信じた己を恥じた。

(牧の方に、鎌倉を思う気持ちも、誠に母親として子を思う気持ちも存在しない。あの女の愚かで醜い自分勝手な野心のためだけに、多くの血が流れたのだ。そのことにあの女が心を寄せることもない。結果として、あの女の専横を許した時政も同罪だ。これ以上、時政と牧の方の勝手を許すわけには行かない。ここは、強行突破するしかない)

 義村はそう思った。

 実朝がいる場所の見当をつけた義村は、実朝に聞こえるような大音声で言った。

「御所様!聞こえますか!母君のお迎えが来ております!出てきてください!」

 義村の声に反応した実朝は、先を行かせまいとする時政邸の兵達に、「私は将軍である!私が行く道を阻む者は、今ここで謀反人になったものと心得よ!」と一喝した。大人しいばかりの操り人形だと思っていた少年の威厳に満ちた姿に動揺した兵達は、次々と道を開けた。姿を現した将軍に対し、義村は、「ご無礼つかまつります!」と一礼して、将軍を体ごと担ぎ上げて輿が待つ場所まで一目散に走った。

 実朝を乗せた輿は、多くの屈強の兵達に守られながら、義時の邸に向かった。

 勝敗は決した。時政と牧の方は、鎌倉を追放され、伊豆に流罪となることが決まった。

 だが、牧の方にだけは、どうしても言わねばならないことがあると実朝は思った。時政と牧の方が伊豆に護送される日、牧の方の前に突如として現れた実朝の姿を見て、牧の方は、憎しみに満ちた目で実朝を睨みつけた。

 実朝は、牧の方に向けて厳かに語った。

「牧の方よ。故右幕下と尼御台の子である鎌倉の主の言葉として、心して聞け。大罪を犯したそなたが、今こうして命を助けられたのは、すべて我が母上、尼御台の存在があればこそである。罪人とはいえ、時政は尼御台の父であり、そなたは、血がつながらぬとはいえ、尼御台の義母に当たる。尼御台に親不孝者の汚名を着せるのは、あまりに恐れ多いことゆえ、そなたは助かったのだ」

 実朝は、牧の方への怒りで、感情が高ぶっていった。

「母上が父上と共に、どれほどの苦しみを抱えて大きな道を歩み、この東国を守ろうとしたか、そなたには決して分かるまい。そなたは息子を亡くしたが、母上はわが子を三人亡くされた。だが、母上は、そなたのように、一度たりとも我が子を己の野望のためだけに利用しようとしたことはない。母上がどれだけ慈愛深いお方であるかは、子の私が一番よく知っている。人として大切な者を忘れたそなたに、母上に代わって万人の上に立つ資格などあろうはずがない!いい加減身の程を知れ!」

 実朝の姿は、すべての坂東武者達に畏怖された父頼朝そのものだった。大人しくひ弱な操り人形だとばかり思っていた少年将軍の威厳と迫力に満ちた怒気に、牧の方は、この時初めて心の底から恐怖を覚えて、震えが止まらなかった。

 実朝の言葉を静かに聞いていた祖父の時政は、実朝に対して深々と頭を下げた。

「儂らの負けです、御所様」

 そして、時政は、牧の方の肩をそっと抱きしめた。

「この愚かな女には、愚かな儂しかおらんのです」

 牧の方は、時政の腕の中で赤子のように泣きじゃくった。実朝の中に、敗者への怒りはもはやなく、あるのは哀れみだけだった。

「じじ殿、ばば殿。達者で穏やかに余生を過ごされよ」

 実朝は、そう言って祖父母を送り出した。

 牧氏事件の後、事件に関わったとして娘婿の平賀朝雅は京で誅殺された。

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