第二章引き継ぎしもの(二)

 頼家は、死の床に臥した妹を励ますように、必死の笑顔で言った。

「喜べ。そなたの院様への入内が内定したぞ。もうじき女御の宣旨が発せられるはずだ」

 兄の気遣いを感じた三幡は、苦しい息の中でも気丈さを崩そうとはせず、病床の中から、誇らしげな笑みを返した。

 しかし、千幡は、翡翠の数珠をぎゅっと握りしめながら、あふれる涙を堪えきれないでいた。

「泣かないの。男の子でしょ」

 いつもと変わらない様子で幼い弟を叱る三幡に、母の政子もまた、泣きながら三幡の髪を撫でている。

「千幡は、まだ小さいの。許してやってね」

 千幡は、涙を袖で拭って、姉に向かって精いっぱいの笑顔を見せて言った。

「三幡姉上。私はもう、泣き虫は終わりにします」

 千幡の大人びた様子に、三幡は満足しながら頷いた。

 正治元年、西暦一一九九年、六月三十日、三幡は、家族に看取られながら、父頼朝の後を追うように息を引き取った。


 七月になって、三河国で、室重広という男が強盗まがいの行為をして庶民が大いに迷惑しているとの報告が頼家のもとにもたらされた。

「そなたの父は三河守護であったな。様子を見て参れ」

 頼家は、安達景盛に命じたが、景盛はこれを辞退した。景盛は、この春、京から連れ帰って妾とした舞女と一時も離れたくないからだろうと近習達は噂しあっていた。

(馬鹿馬鹿しい。女一人のことで、職務怠慢もいいところだ)

 腹が立った頼家が、自分の家の領地の問題でもあるのだから、さっさと行くように命じると、景盛は不服そうな顔を残してしぶしぶながら鎌倉を出発した。

 そうは言っても、父譲りの色好みの若き貴公子頼家は好奇心が抑えられなかった。

(それほどのいい女なのか)

 頼家は、女に艶書を送ってみたが、一向に靡く様子を見せない。坂東一の若い権力者を頑なに拒む女の態度が憎らしくもあり、新鮮でもあり、ますます頼家の女に対する征服欲は高まって行った。とうとう、頼家は、近習に命じて、景盛の妾を無理やり盗み出させてしまった。

 若い権力者の無体な振る舞いに、顔を合わせた女は酷く震えて怯えてばかりいる。その様子が、一層いじらしくも哀れにも見えて男の本能をくすぐる。

「怖い思いをさせてすまなかった。だが、これも前世の縁だと思って諦めて儂のものになってはくれぬか」

 そう言って、頼家はそっと後ろから女の肩を抱きしめて耳元で甘くささやく。

 武骨で荒々しいだけの典型的な坂東武者である景盛とは違い、強引さの中にも優しさを感じさせる若い美貌の貴公子に、女は一瞬で堕ちた。その様子に満足した頼家は、更に女に優しく振舞った。

「こちらへおいで。可愛い人」

 心身ともに蕩けさせるかのような激しくも優しい頼家の愛撫に身をゆだねていくうちに、女は景盛のことなどすっかり忘れてしまった。

「お前をこれから何と呼ぼうか」

 生まれながらの貴人らしく、取ってつけた様子のない自然な感じで優しく語り掛ける頼家に対し、女はうっとりとしつつも、か細い声で言った。

「空蝉(うつせみ)と呼んで下さいまし。私の光る君様」

 身分が低いとはいえ、京の出の女であるだけに、それなりの教養はあるのだろう。光源氏に略奪された人妻に自分を例えてそう言った女の言葉に、頼家は笑いながら答えた。

「儂は源氏には違いないが、京とは違ってここは田舎だからなあ。儂は田舎源氏の中将じゃ。ははは」

 屈託のない頼家の笑みに、女の方もすっかり打ち解けた様子で笑い返した。

 空蝉が気に入った頼家は、そのまま御所にこっそり連れ帰ってますます可愛がった。

 

 事件の捜査を終えて鎌倉に戻って見れば、家に女の姿が見えない。これはどうしたことかと景盛が使用人達を問いただすと、あろうことか、自分が鎌倉を離れている隙に、女は主君に盗まれてしまっていた。

 大概の坂東武者というのは、自分が力づくで手に入れた土地への執着がものすごく、面子というものに異常に拘る。それは女に関しても同様だった。頼家にとっては貴人の風流事にすぎないが、坂東武者にその理屈は通用しない。粗野で短気な性格で典型的な坂東武者である景盛もまたその例に漏れず。

「よくも儂の女を盗りやがったな!御所様だからといって容赦しねえぞ!」

 外見をはばかることなく、景盛は声高に騒ぎ始めた。

 これを聞いた頼家の近習達も、「安達弥九郎があのようなことを言っております!これは謀反です!」と大袈裟に言い立て。それがあっという間に広まって、気づいた時には、「安達が謀反!御所様の御為にいざ鎌倉!」と言わんばかりに武者達が続々と集まり、鎌倉中はすわ合戦かという大騒ぎとなった。

 

 事態を聞きつけた母の尼御台政子が血相を変えてすっ飛んできた。

「これは一体どういうことですか!御所!」

(たかが女絡みでこんな大騒ぎになるなんて思ってもいなかったんだよ!)

 言いたいことはいろいろあるが、そのようなことを口にすれば火に油を注ぐだけだということが分かっているから、頼家は黙っていた。

「まあまあ。都のやんごとなきお方にも似たような例があり、そう珍しいことでもございません。そう、目くじらを立てることもありますまい」

 広元はそう言って頼家を庇ってくれたが。頼家を懐妊中に父の頼朝が浮気をした際、浮気相手の女の家を壊して鎌倉中に知れ渡る大喧嘩を繰り広げたこともある気の強い母が、広元の言葉に納得するはずがない。

「ここは京ではありませんよ!もともとは、他人のものに手を出すという御所の不行状が招いたことではありませんか!三幡が亡くなったばかりだというのに、さらにこの母を泣かせるおつもりですか!」

 母にこっぴどく叱られて、さすがにガックリと来た頼家は、いつにない気弱な様子で景時に愚痴った。

「馬鹿なことをしたとそなたも思っているのであろうな」

 景時は、首を横に振って至って冷静な様子で答えた。

「馬鹿なのは御所様ではなく、坂東の男達の方です。奴らは、実に小さなものに執着し、欲望の赴くままに動く獣(けだもの)と同じです。しかし、獣ゆえに、何をしでかすか分からず、一旦暴れ出したら抑えようがない。それゆえに、油断がならないのです。今後、くれぐれもお気を付けください」

 父頼朝の右腕として辣腕を振るってきた景時の言葉だけに、重みが感じられ、頼家は深く頷いた。


 兄の艶聞を噂で聞いた千幡は、感情的に母の味方をしたい気になった。父頼朝の果敢な姿を見ながら期待された嫡男として育てられた兄頼家と、年の離れた末っ子として周囲に慈しまれ純粋培養な環境で育てられた千幡とでは、物事の感じ方が全く異なる。

 千幡は、ある時、子猫を追いかけて、頼家が空蝉の女を住まわせているあたりに近づいてしまった。

 頼家は、髻を紫色の紐で結わえた千幡よりも三つか四つくらい年上の美少年と戯れていた。

「三郎、可愛い奴だ」

「ああ、御所様、お許しください」

 頼家と三郎と呼ばれた美少年は服がはだけて乱れかかっていた。頼家は三郎少年を後ろから抱きすくめ、唇と唇を突き合わせていた。

 幼い千幡には、まだ性的な詳しい知識はない。

 だが、何か見てはいけないものを見てしまったと直感した千幡は、急いでその場を立ち去った。

 兄頼家には既に多くの女人が側におり、長男一番が誕生している。そのうえ、他人の恋人まで奪い、少年とも戯れていた。

(三幡姉上が亡くなったばかりなのに!兄上は、何て不実な人なんだろう!)

 千幡の中で、兄への反抗心が湧いてきた。

 自分だったら、きっと、縁があって一緒になったたった一人の妻を大事にして、いつまでも仲良く暮らすのに。

 仏さまのお使いからもらった翡翠の数珠をぎゅっと握りしめて、千幡はそう思った。


 一方で、いつまでもくよくよするような性格でもない頼家は、気を取り直して、自分の務めを果たすべく邁進していく。

 高野山領である備後国大田荘は、宿老三善康信が地頭を務めていたが、領家側が地頭改補を要求してきた。その際にも、頼家は、大田荘が平家没官領(平家が没落・滅亡した際に没収された領地)であり、父頼朝によって三善康信は謀反人の跡に補任された正当な由緒を持っていることを理由として、領家側の主張を退けた。父頼朝の決定をもとにした、筋の通った判断である。

 また、頼家は、父頼朝と同様、朝廷とも良好な関係を維持しようと努めた。その一環として、怠慢になりがちな京都大番役の務めをきちんと果たすよう、諸国の守護らに厳命を下した。

 頼家は、鎌倉殿としての威厳と強さを印象づけるよう振舞うことが多かったが、他方で、身体能力が高く、活発で気さくで親しみやすく、若い者達の間でも人気が高かった。

 永福寺に出かけた際のこと。蹴鞠をしようと計画していたが、残念ながら雨がひどく降り出してしまい、蹴鞠をする際の晴れやかな装束が台無しになってしまうため、中止することになった。その代わり、頼家は宿老の一人和田義盛邸に立ち寄り、勇敢な若者たちを集めて、泥んこになるのも構わず、相撲の勝負をみんなと楽しんだ。

 それが、これから起こる大嵐の前の束の間の穏やかな時間であることを、まだ誰も知る由もなかった。


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