第二章引き継ぎしもの(一)

「千幡は千幡のまま、大きゅうなっておくれ」

 頼朝にとって幼い末っ子の千幡は、残していくのが気がかりな可愛い子であり、千幡にとっても父は偉大な為政者というよりも、慈愛深い大好きなととさまだった。

 だが、後を継ぐ頼家にとっては事情が全く異なる。

「さすが我が自慢の嫡男じゃ。頼もしいのう。後は頼んだぞ」

 父からそう託された時から、頼家は、いかなる時も武家の棟梁として強くあり続けよう、そう心に誓った。

 父頼朝の死は、遠い京の地においても、大きな影響を及ぼした。

 鎌倉将軍家と縁戚関係にある一条能保・高能は頼朝が亡くなる少し前に世を去っていたが、一条家の遺臣達が一条家の後ろ盾であった頼朝が亡くなったことで、主家が冷遇されることを恐れ、形勢挽回のために、今上帝(土御門天皇)の外祖父であり、当時朝廷で絶大な力を持っていた土御門通親を襲撃する事件が起きたのである。捕えられた後藤基清、中原政経、小野義成の三人がいずれも左衛門尉であったことから、三左衛門事件とも言われる。

 三左衛門は一旦鎌倉に護送されたが、鎌倉方は三左衛門の身柄を受け取らず、京に送り返した。三左衛門は、院(後鳥羽上皇)の御所に連行され、関係者と共に京方で処罰された。

「朝廷の処分に対応した措置をとるならば、後藤基清の相模の守護職は罷免すべきだと思うが。それで間違いないか」

 若き鎌倉殿頼家の適切な判断と問いに、中原広元(後の大江広元)は、満足そうに頷いた。

 それから間を置かずして、頼家は、広元の助言のもと、伊勢神宮領六箇所の地頭職を停止するとの命を発した。これは、伊勢神宮側に犯人逮捕権を認め、同神宮側に配慮した判断であった。

 しかし、その六箇所のうちの尾張国の一柳神宮荘園側の方から地頭を追い出し、地頭の取り分を押さえるという暴挙を起こした。

「父上が亡くなったことに乗じて、こうも次々と問題ばかりが起きるとは……」

 頼家は、深いため息をついた。

「右幕下が亡くなられたとたん、新たな利権を求めての濫訴が頻発しておりますな。些細な争い事で、お父君の後を継がれたばかりの若い御所様の負担にならぬよう、重臣達で予め案件の重要度を選別して御所様にお取次ぎするというのはいかがでございましょうか」

 広元の進言に頼家は深く頷いた。

「儂が父上の後を継いで立派な鎌倉殿になるには、父上を支え続けてきてくれた皆の力が必要だ。よろしく頼む」

「家臣一同、一丸となってお父君の時と同様、御所様の御世をお支えいたす所存」

 父頼朝の右腕であった梶原景時も若い主君に頭を垂れた。

 こうして、新しい鎌倉殿を支え、その訴訟取次の窓口となるための重臣達十三人が選出された。

 ただ、それに関連して、いくつかの懸念事項もあった。

 頼家には、未だ確固とした立場の正妻はいなかったが、事実上頼家の妻としての待遇を受けている者がおり、その中で辻殿と若狭局と呼ばれる二人の女性は比較的高い地位にあった。

 若狭局は、父頼朝と頼家のめのとである比企氏出身で、昨年に頼家の長男一幡を産んでいた。十三人の重臣の一人、比企能員は、この若狭局の実父である。

 辻殿は、父方母方ともに源氏の血を引いており、若狭局よりも血筋はよかったが、実父足助重長は既に亡くなっていて後見の力が弱く、先に男子を産んだ若狭局の勢力に押されがちであった。頼家の父頼朝が存命であったならば、今後辻殿が男子を産めば、その子どもが頼家の跡取りとなり、辻殿が正妻となる可能性はあったであろう。

 だが、後見や出生の順序など現在の状況から、よほどのことがない限り、若狭局が生んだ一幡が頼家の次の後継者となるであろうことは確実である。それほどに、当時比企氏は強い勢力を持っていた。

 十三人の重臣の一人梶原景時もまた頼家のめのとであり、父頼朝の信頼が厚い人物だったが、同じめのと同士でも、景時と能員は仲が悪かった。頼家は、何かと外戚としての権勢を誇って勝手なことをしでかすおそれの高い能員よりも、教養が高く実務に優れた忠臣である景時の方を頼りにしていた。

 頼家の後見を巡る争いのおそれは、梶原氏と比企氏だけにとどまらなかった。父頼朝の異母弟の阿野全成は、頼家の母方の祖父北条時政の娘阿波局を妻としており、全成夫婦が千幡のめのととなり、北条氏が千幡の後見となっていた。

 景時の妻は頼家の母尼御台政子の信頼が厚かったから、頼家の後をゆくゆくは一幡が継ぐ流れとなったとしても、景時が比企の独断化を牽制しつつうまく均衡を保って父頼朝の路線を継承してゆくことができるならば、母政子もそれを了承するはずであった。

 しかし、何かと母政子に対抗しようと躍起になって分不相応な振る舞いを隠そうともしない祖父時政の後妻牧の方と、その影響を受けつつ自分自身も野心の強い時政が、それに納得するはずがなかった。

 十三人の重臣達の中には、一人だけ三十代後半で他の者達よりも若い、母政子の弟義時が入っていた。これは、比企一族の女性姫の前を正妻に迎えており、柔軟な穏健派の義時を通じて、比企氏との争いを防止しつつ、暴走するおそれのある時政と牧の方を抑止することを期待した母政子の意をくんでのことだった。

(若手を使っての宿老達に対する儂の対抗措置だと思われはしないか。だが、まだ若い小四郎叔父ならばじじ殿よりは話が分かるやもしれぬ)

 そう思った頼家は、思い切って自分の意見を義時に話してみることにした。

「父上の後を継いだ鎌倉殿としての儂の威光を下々にまで行き渡らせたいのだ。下々の者が儂の近習に礼を尽くすよう触れを出したいのだが」

 義時は、鎌倉殿としての気概をみせようとする若い甥の姿に目を細めながら言葉を返した。

「御所様の堂々としたお姿をお示しになるのは良きことと思いますよ」

「逆に、御所様の御威光を笠に着て、無法な振る舞いをする者がいないか、近習の者達の性質を見極める良き機会ともなりましょう」

 そう言って、臨席していた景時も賛意を示した。

 また、頼家は世代交代をきっかけとして、東国の荒野の開発についても意欲的な姿勢を見せた。

「土地が荒れて不作となり、年貢が減少しているなどと不満を申しているようだが。その原因は、領主の方が、荒野を水利のよい土地となるように開発する務めを怠ったからではないのか」

 若い鎌倉殿の鋭い指摘に、この件についての奉行を務める広元は感心した。

 それから間を置かずして、宿老達によって、更なる案件が頼家のもとに取り次がれた。父頼朝を奉る法華堂領の美濃国富永荘の領家が、地頭側の中条家長の不当性を訴えてきたのである。

 中条家長は、宿老の一人である八田知家の養子であったが、父頼朝の許可を得ずに任官したり、尊大な態度が原因で諍いを起こすなど過去に何かと問題行動を起こした人物でもあった。案の定、どう見ても領家側の主張に理があった。頼家は、宿老らの縁者であろうとも、それに肩入れすることなく、公平な態度を崩さなかった。

 若い鎌倉殿の果敢で堂々とした姿を目の当たりにしたある者は感嘆し、ある者は一種の恐れを抱くようになっていく。

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