第一章愛し子(五)
建久九年、西暦一一九八年。千幡は、従兄の頼時(義時の長男金剛。元服して名を改めた。後の北条泰時)に、純真無垢な瞳をきらきらさせながら尋ねた。
「にいさまに、ややこが生まれたんだって!ねえ、太郎、ややこはどうやって生まれてくるの?」
生真面目な頼時は答えに窮した。
頼時よりも一つ年上の頼家は、すでに元服前から父頼朝に唆されて色の道を覚えてしまい、父親譲りの色好みの貴公子ぶりを発揮していた。
頼家のめのと比企能員の娘若狭局は、頼家の乳姉妹で、幼馴染の延長で気安い関係もあってか、いつのまにか頼家とそういう関係になって、この年頼家には長男一幡が誕生し、頼家は数え十七歳で父親になっていた。
他にも、最近頼朝の勧めで御所に仕えるようになった足助重長の娘辻殿ともいい仲になっていた。辻殿は、頼家よりも二つ年上で、父方母方共に源氏の血を色濃く引いており、若狭局よりも血筋はよかったのだが、実父が他界しており、後見や家の勢力は弱かった。
「気心が知れているという点では若狭だが。辻は控えめで芯が強いところがよいのだ」
惚気たように自慢しながら、頼家は、さらに別の女性への恋文の歌を考えるように頼時に促した。
「木曽義仲の息子の清水冠者が亡き姉上の許婚だったのは知っているだろう?その妹姫が引き取られて姉上に仕えていたんだが、今は母上のもとにいる。これが、何とも儚げな風情の美女でなあ。頑ななところがまたたまらんのだ。何とかして振り向かせたい」
「そんなの知りませんよ!他の誰かに代筆でも頼んだらいいじゃありませんか!」
生母を早くに亡くし、物心ついた時には、冴えない子持ちやもめの父義時が、今の義母姫の前にしつこく恋文を贈っている姿を目の当たりにしてきた頼時は、この手の話を聞かされるのは正直うんざりしていた。
頼時と一緒に大根の種を蒔いている千幡は、期待に満ちた目で頼時の答えを待っていた。
(嘘はいけないし。千幡様には父君や兄君のような色好みにはなってほしくないし)
考えに考え抜いた頼時は、ごまかすように当り障りのないことを言った。
「畑に大根の種を蒔くと、やがて大きな大根ができるでしょう?夜、父君と母君が大根から取れた種を畑に一緒に植えると、ほど良い頃に御仏のお使いであるコウノトリがやってきてややこを授けて下さり、それから十月十日ほどすると、母君のお体に赤子が通る道が開かれて、愛らしいややこがその道を通ってやってくるのです。けれど、このことは千幡様と太郎だけの秘密です。千幡様が大きくなって、奥方様をお迎えになってしかるべき時が来るまで誰にも聞いたり言ったりしてはいけませんよ」
「うん。分かったよ。千幡と太郎だけの秘密だね!」
幼い千幡は、頼時の言葉を疑問に思うこともなく、素直にうなずいた。
後日、千幡は、父頼朝と一緒に一幡のもとを訪れた。他の兄弟と年の離れた末っ子の千幡は、初めての弟ができたようで、無邪気にはしゃいでいた。
「儂も孫ができる歳になったか。ついこの間赤子だった千幡をこの腕に抱いたばかりと思うていたが」
頼朝は、初孫を抱きながら感慨深げに言った。
「ととさま!千幡にも一幡を抱っこさせて!」
千幡は、嬉しそうに甥っ子の顔を覗き込む。
「千幡一人では、ちと無理ではないかのう」
頼朝は、千幡の腕を支えてやりながら、そっと一幡を千幡の腕の中に移していく。
祖父とまだ幼い叔父に抱かれた一幡は、にこにこと機嫌よく笑っていたが、やがて寝入ってしまった。
「あーあ、寝ちゃった。ちょっとつまんないな」
「起こさんようにな、そっと寝かせてやろう、な」
頼朝と千幡は、そっと一幡を柔らかく厚みのある敷布の上に置いてやった。
「千幡、こちらへおいで」
頼朝は、優しく千幡を手招きした。
「おお、また重とうなったな、千幡」
父の方に近寄った千幡を、頼朝は、可愛くてたまらないと言った様子で、何度も高い高いをした。
「ととさま。千幡は、一幡のような赤子ではありません!」
千幡は、大好きな父に抱き上げられて嬉しいが、ちょっぴり恥ずかしいようなくすぐったいような気がして、抗議の声をあげた。
「大姫が逝ってしもうて、寂しゅうなったなあ」
頼朝は、しんみりとした様子で話し始めた。千幡は、ちゃっかりと父の膝に座ったまま、静かに話を聞いている。頼朝は、大姫が亡くなって以来、前にもまして幼い末っ子を側に置いて共に時を過ごすことが多くなった。
「おおねえさまは、大きなお船にのって、仏さまのお国にいかれたのでしょう?ととさま」
「うん、そうだな」
「おおねえさまがよく言っていました。お船で、鎌倉からずっと南、菅原道真公を追いかけて梅が飛んでいったあたりまで行って。そこで、またお船を乗り換えて北に行きながら西へ行って唐の国(からのくに)に行って。そこから、さらにずっとずっと西へたくさんたくさん歩いたら、天竺という仏さまがお生まれになった国があるんだって」
「そりゃまた、大変な旅じゃなあ」
「千幡は、くたびれちゃうよ。でも、千幡は、ととさまと一緒に、大きなお船で、いつか天竺まで行ってみたいなあ」
「そうか。では、今からととと一緒に、船に乗って出かけてみるか」
頼朝は、女房らに一幡を任せ、千幡を抱き上げて御所を出た。
「あまり大きな船でなくてすまんのう、千幡」
頼朝は愛児と手をつないだまま、船に乗り込んだ。船には、千幡の母方の叔父の小四郎義時、五郎時連(後の北条時房)、従兄の太郎頼時(後の北条泰時)が同乗していた。
「儂はもうヘトヘトじゃ。太郎、交替してくれ」
「兄上、自分だけずるいですよ。私だってもう限界なんですから」
懸命に船を漕いでいる義時と時連に向かって、頼朝は偉そうに言った。
「何じゃ、お主ら、情けないのう」
「儂が、こういう力仕事は昔から苦手だということは、御所様も御存じでしょう!」
「そうですよ!ご自分だけ、ふんぞりかえって、何をおっしゃいますか!」
義時と時連は、頼朝に対して一斉に抗議の声をあげた。
「じゃあ、千幡がやる!」
目をきらきらさせながらはりきった様子を見せた千幡に対して、従兄の頼時が優しく言った。
「私と御所様が代わりますから。千幡様は、そこで、応援していてください」
頼朝は、義時と時連と交替し、しぶしぶながら、一番若い頼時とともに船を漕ぎだした。
千幡は、叔父の義時の膝の上に座ったまま、父と頼時に声援の声をかける。
「ととさま、太郎、頑張って!」
「千幡様、この船はどこまで行くのでしょうか?」
隣に座っている時連の言葉に、千幡は元気よく答えた。
「仏さまがいらっしゃる天竺までだよ!」
「そりゃ、無茶ですぞ、千幡君。勘弁してくだされ」
義時は、げっそりとした疲れた顔で言った。
「じゃあ、お船を乗り換える九州まででいいよ。みんなで道真公の梅に会いに行こう!」
「それなら、なんとかなるんじゃないですか、兄上」
調子に乗った時連が兄を茶化す。
「やれやれ。千幡君は、なかなか怖いもの知らずでいらっしゃることだ」
義時は、小さな甥の頭を撫でながら笑った。
それから一時ほどして、千幡たちが乗った船は由比ガ浜に戻っていった。浜辺に戻ってからも、千幡は、きらきらと光る海の向こうの世界について思いをはせていた。
相模川の橋を渡る途中で意識を失って倒れて以来、頼朝の容態は悪化の一途をたどっていく。
建久十年、西暦一一九九年正月。頼朝は、死の床に臥していた。頼朝の周りには、家族が集まっている。
「御台。後のことは頼んだぞ」
「はい、必ず」
政子は、涙を堪えながら、強くうなずいている。
「三幡や。そなたがお妃になる姿を見たかったなあ」
気丈な性格の三幡もまた涙を我慢している。
「お任せください。三幡の入内は必ず儂が実現させて見せます」
「そうか、さすが儂の嫡男じゃ。頼もしいのう」
跡取りとしての力強い頼家の態度に、頼朝は安心したように微笑んだ。
まだ幼い千幡だけが、翡翠の数珠を握りしめながら、大姫の時と同じように、泣きじゃくっていた。
「ととさま!」
「父上の御前で涙を見せて泣くとは、何事か!それでも、将軍家の子か、千幡!」
泣いて父に縋りつく千幡を、兄の頼家は大声で叱り飛ばした。
床から、千幡の方に手を差し出しながら、頼朝は穏やかに言った。
「よいのだ、頼家。泣いてもよいのだよ、千幡。千幡は千幡のままでよいのじゃ」
政子の力を借りて頼朝は何とか起き上がろうとする。
「千幡や、千幡や。もそっと、ととの近くに来ておくれ」
側に寄った千幡の頬や髪を頼朝は愛おし気に撫でる。
「千幡のためにも、もっと長生きしたいのだがなあ。ととは、小さい千幡を残していくのが心残りでならないよ。なあ、千幡や。ととに会いとうなったら、ととが一番大好きな梅の木を見てごらん。ととも千幡が大好きじゃから、道真公の飛梅(とびうめ)のように、ととはきっと梅の精となって、千幡といつでも一緒におるはずじゃ」
千幡は、大好きな父に抱きついて、何度も何度も頷いた。
やがて、頼朝は家族に看取られ、その偉大な生涯を閉じた。
雪が降る中、千幡は、父に言われたとおり、御所の梅を眺めていた。そこへ、叔父の義時がやってきた。
「ここにおられましたか、千幡君。春とはいえ、雪が降っており、外は冷えますぞ」
義時は、そっと千幡の両手を握り、懐から布でくるんだ温石を手渡した。
「梅が艶やかに咲いておりますなあ」
穏やかな叔父の言葉に、千幡は頷いて言った。
「おおねえさまとととさまは梅が一番お好きだったから。ととさまは、お船で仏さまのお国に行って、それから梅の精となって千幡のもとに戻って来て下さるの」
義時は、亡き父頼朝がそうしたように、千幡を高く抱き上げ、千幡の髪を優しく撫でた。
「お父君は、船を一生懸命漕ぎながら、仏さまの国と千幡君のもとを行ったり来たりしておられるのでしょうなあ」
千幡は、叔父の腕の中で、父の温かさを思い出しながら、叔父と共に梅の花を見つめていた。
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