第一章愛し子(四)
「逃げるのか、千幡!」
「千幡、出てきなさい!まだ勝負は終わっていないんだから!」
千幡は、似た者同士の兄頼家と次姉三幡の魔の手から逃れようと必死に御所中を逃げ回っていた。
大人しく部屋で手習いをしていた千幡のもとに、二人の天敵が現れた。
「相撲をするわよ、千幡!」
「付き合え!千幡!」
千幡に拒否権はなく、千幡は、兄と次姉に首根っこを掴まれて問答無用で連れて行かれた。
お転婆な三幡に、幼い千幡は容赦なく一方的に吹っ飛ばされた。
「ようやった!三幡!帝は、武芸を殊の外好まれるからな!入内して御寵愛を勝ち取るためには、鍛錬あるのみじゃ!」
「はい、兄上!」
帝が武芸を嗜まれるからと言って、自ら相撲を取るお妃なんて、物語にも出て来ない。絶対に何かが違うと千幡は思ったが、口に出せば火に油を注ぐだけであることを幼いながらも経験上分かっているから、黙っている。
「次は、弓の稽古がしたいです、兄上!」
「儂に任せろ!みっちり鍛えてやる!」
冗談じゃない。これ以上、この二人に付き合わされたら、確実に寿命が縮む。本能でそれを悟った千幡は、兄と姉が二人で盛り上がっている隙をついて一目散に逃げ出した。
「千幡、こっちじゃ。ここなら、かくれんぼをするのにちょうどいいぞ」
はあはあと息を切らせて逃げ回っている千幡を見つけた父が、千幡を手招きした。大好きな父のもとで、千幡はやっと一息つくことができた。
千幡は、涙をこぼしながら父に言った。
「千幡は、相撲でいつも三幡ねえさまに負けてばかりで。にいさまみたいに弓矢だって上手になれないし。にいさまと三幡ねえさまは、千幡のことを男の子のくせに弱虫だって言うんです。千幡は、将軍の子失格です!」
頼朝は、幼い末っ子の小さな手をそっと自分の両の手で包んで言った。
「千幡は、まだ小さいのに、難しい字がたくさん読めて、とても賢い。立派な将軍の子じゃ。それにな、千幡は我慢強く、弓矢で射抜かれる獣(けだもの)たちにまで心を寄せる優しさを持っておる。強さとは武の力のことだけを言うのではない。広く強く優しい心、それもまた強さの証であると、ととは思うぞ。千幡は、千幡のまま大きくなっておくれ」
父の優しさに、千幡は思わず父にぎゅっと抱きつく。それから、頼朝は幼い愛し子を抱きあげて、奥の方に進んで行く。そこには、梅が艶やかに咲き誇っていた。
「こちふかば、においおこせよ、うめのはな、主なしとて、春をわするな」
千幡は、父と一緒に梅を見ながらふと覚えたばかりの和歌を口ずさんだ。
「菅原道真公の歌じゃな。よう知っておるなあ、千幡。本当にそなたは賢い子じゃなあ」
父に褒められた千幡は、恥ずかしそうに答えた。
「おおねえさまが教えてくださいました。梅の花は、寂しくなっても、忘れないで追いかけてきてくれるのだって。だから、おおねえさまは、梅が一番お好きなんですって。千幡も梅が一番好きです!」
頼朝は、末っ子の頭を愛おし気に撫でながら言った。
「そうか。なら、ととも梅の花が一番ぞ。おおねえさまのところに、これから、ととと一緒に梅の花を持って行ってあげようか」
「はい!」
京への家族旅行から戻って以来、もともと体の弱かった大姫は床に臥すことが多くなった。それでも、しばらくは小康状態を保っていたが、建久八年、西暦一一九七年七月に入ってから、大姫の容態は急速に悪化した。
大姫の枕元に家族全員が集まっている。千幡は、翡翠の数珠をぎゅっと握りしめたまま、しゃくりあげて泣いている。
「泣くな、千幡」
「そうよ、男の子でしょ」
そういう兄頼家と次姉三幡も、目を真っ赤に腫らしながら、涙を必死で堪えている。
大姫は、苦しげな息の中、家族一人一人に最期の言葉をかける。
「母上、私を産んで下さり、ありがとうございました。わがままで心配ばかりかけたうえに、先に逝く不孝をお許しください」
「何を言うの。親が子を心配するのは当たり前のことですよ」
「そうじゃ。わがままどころか、大姫は儂の自慢の娘じゃ」
「父上、幼かった私は、父上のお苦しさ、お立場も分かっておらず。父上を憎んで、お恨みしたこともございました。ごめんなさい」
「儂は、大事な娘を傷つけることしかできなかった。許せるものではないであろうが、ほんにすまないことをした」
涙を流す父の顔を見つめながら、大姫は首をゆっくりと横にふる。
「頼家殿。あなたは、将軍家の自慢の後継ぎだわ。父上と母上と、みんなを守ってあげてね」
姉の言葉に、頼家は深くうなずいて言った。
「はい、姉上。必ず」
「三幡。あなたなら、きっと、立派な帝のお妃になれるわ。頑張ってね。それと、お妃になる人が、いつまでも小さい弟に意地悪をするようではいけませんよ」
「もう、姉上ったら」
三幡は、茶化すような姉の言葉に、泣き笑いの顔で答えた。
「千幡、千幡。顔をよく見せてちょうだい」
「千幡、こちらへおいで」と父に手招きをされた千幡は、大姫に最も近い父の隣に座った。
大姫は、千幡がぎゅっと握りしめている翡翠の数珠にそっと触れながら、言った。
「千幡、私は、小さいあなたが本当に可愛くて仕方がなかった。いつか、また仏さまのお使いの女の子に会えるといいわね。おおねえさまは、あなたより少し先に仏さまに会いに行くわ」
大姫の言葉に、千幡は首を大きく振って泣きじゃくった。
「いやだ、いやだ!千幡は、おおねえさまとみんなと一緒に、大きなお船に乗るんだ!おおねえさまだけ一人でずるいよ!」
頼朝は、幼い末っ子を抱きしめながら、自らも流れる涙を堪えることができなかった。
大姫は、家族に看取られ、短いながらも誇り高い将軍家の総領姫としての人生を全うした。
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