第一章愛し子(三)

 建久五年、西暦一一九四年、頼朝の甥に当たる一条高能が京からやって来た。都からやってきた貴公子を歓迎して、家族で三浦に遊びに行くことが予定されているという話を聞いた次女の三幡は、いつになく興奮していた。

「姉上様、先ほどちらりと拝見したのですけど、本当に素敵な方でしたわ。やはり、都の殿方は違いますわね」

 大姫は、末っ子の千幡の遊び相手をしてやりながらも、姉らしい威厳を見せて妹姫をたしなめた。

「はしたないことはおやめなさいな」

 千幡は、兄姉とは年が離れて生まれた末っ子だったこともあってか、両親や長姉の大姫、叔父や叔母など周囲の人間に秘蔵っ子として溺愛されていた。三幡はそれが面白くないらしく、千幡は、三幡にからかわれておもちゃにされることがしょっちゅうである。三幡は、千幡のすぐ上の姉であるが、それでも千幡とは六歳も歳が離れており、姉弟の力の差は歴然としている。

 このたびも姉姫に叱られて面白くない三幡は、大人しく機嫌よく絵巻物を見ていた千幡からそれを奪った。たちまち、千幡は、火が付いたように大声をあげて泣き出した。

 大姫は、千幡を抱いてあやしながら、さらに妹姫を叱りつけた。

「幼い弟をいじめるなんて、何てことをするの!」

 それでも、懲りない三幡は、千幡の頬をつねりながら言った。

「母上様と私たちは三浦に遊びに行くの、いいでしょう。千幡、小さいお前は一人で留守番よ。残念だったわね」

 大姫にあやされてやっと泣くのが納まったかに見えた千幡は、次姉のいじわるな振る舞いと物言いに、さらに激しく泣きだした。

「おやめなさいと言っているでしょう!」

 大姫が三幡の手をぴしゃりと叩き、それに腹をたてた三幡は、「何よ。いつも千幡ばっかり!」と騒ぎ出し。姉たちの喧嘩で、千幡はますます大声を出して泣きだした。

 そこへ、両親がやって来た。

「これは何の騒ぎですか!」

 政子は娘達を叱り飛ばした。

「おお、これはまた、派手にやられてしもうて。おいで千幡」

 頼朝は、泣き止まない千幡を抱き上げてあやした。

 女房達から事の次第を聞いた政子は、三幡に対して言った。

「三幡、どう見ても非はあなたにあります!あなたの三浦行きはなしです!」

「うわーん」

 千幡がようやく泣き止んだと思いきや、今度は三幡が大泣きをし出した。

 子に甘い頼朝は、政子をまあまあと宥めた。

「三幡も反省しておるようだしのう。これくらいにしてやってはどうかのう」

 大泣きをしている次姉の様子を見た千幡は、父の腕の中で、今度は目に涙をためてしくしくと泣きだした。

「さんまんねえさまも、いっしょじゃなきゃいやだ」

 その様子を見た政子はやれやれと言った様子で三幡を見て言った。

「分かりました。三幡も、千幡も、みんなで一緒に行きましょうね」

 許してもらった三幡は、泣いた烏はどこへやら。何やら、頬をおさえて痛みを我慢しているような父を茶化すように言った。

「父上、頬を撫でて痛そうにしているけれど。母上と喧嘩して、父上も母上にぶたれたの?」

「また、この子は」

 政子は、次女の物言いに呆れたような顔をして見せた。

「いや、そうじゃないよ。実は、歯が痛くてなあ」

 頼朝は、苦笑しながら答えた。頼朝は、この頃歯痛で苦しんでおり、京の医者から痛み止めの薬などをもらって服用していたのだった。

「だから、言っているじゃありませんか、あなた。痛み止めなど飲んでも一時しのぎにすぎません。いっそ抜いておしまいなさいって」

 気丈な政子の物言いに頼朝はうろたえたように言葉を返した。

「馬鹿を申すな!そのような恐ろしいことできるはずがなかろう!」

 大姫は、意地の悪そうな顔で、千幡に語りかけた。

「父上は、臆病者ね。武家の棟梁たる将軍のくせに、歯を抜くのが怖いんですって」

 三幡も調子に乗って毒づく。

「ぱっと抜いたらすぐなのにねえ」

 姉達が仲直りした様子が嬉しいのか、千幡もにこにこしながら言う。

「ととさま、いたくないよ」

 妻と子ども達にからかわれた頼朝は叫んだ。

「痛いに決まっておる!絶対に嫌じゃ!」


 三浦に浮かぶ船の上。千幡が生まれて以来、家族総出のお出かけは初めてのことだった。

「おおねえさま、早く、早く」

「危ないから、走り回ってはいけませんよ、千幡」

 幼い千幡は、家族みんなでのお出かけが楽しくて仕方がないのと、初めて見る海に感激して、いつになく興奮している。

 息切れしながら千幡を追いかけていく大姫は、ふと考える。

 今は、おぼろげになった、かつて兄のように慕った許婚、木曽義高。その最期を受け止めるには、あの頃の大姫はあまりに幼過ぎた。湯水が通らぬほどにまで衰弱し、父を恨み、心を閉ざし、母を困らせた。心の傷が完全に癒えることはなかった。

 だが、成長して、将軍家の嫡女としての立場を自覚するようになり、為政者としての父親の決断の意味も、父親として娘を思う心もだんだんと分かるようになってくる。

 もはや、父を恨み、憎む気持ちはない。もともと子煩悩で、歳を取ってから生まれた末っ子の千幡を秘蔵っ子のように、手放しで可愛がっている父の姿を見ると、大姫は、父が自分に対してもどれだけ深い愛情を注いでいるかを感じずにはいられない。

 それでも、幼い末っ子を見るたびに、つい感じてしまう寂寥感。あのまま、義高の妻として平穏な生活を送っていたなら、今頃、自分は子の一人でも授かっていたであろうか。幼い千幡は、大姫にとって、義高との間に叶えることのできなかった幻影のようなところがあった。

 大姫と手をつなぎながら、千幡は、目をきらきらさせて、海を見つめている。

「おおねえさま、このままずっとお船に乗っていったら、どこまで行くのかなあ」

 大姫は、愛し気に幼い弟の髪を撫でながら答える。

「そうねえ。ずっと南に行って、菅原道真公が最期を迎えられたあたりまで行って。そこで、またお船を乗りかえて、北に行きながら西へ行くと、宋という国があるそうよ。そこからずっとずっと西に向かって、たくさんたくさん歩いたら、仏さまのいらっしゃる天竺という国に行けるのですってよ」

 大姫は、幼い頃、かつての許婚と話したことを千幡に聞かせてやる。

 だが、あの頃の大姫よりもさらに幼い千幡には、難しすぎたようだ。千幡は、うーんと首をかしげながら、それでも、仏さまの国に行けるという姉の言葉を聞いて、さらに目を輝かせた。

「いいなあ。千幡も、仏さまのお国に行ってみたい!ととさまと、かかさまと、おおねえさまと千幡とで、大きなお船で、いつか仏さまのお国に行くんだ!」

「あらあら。にいさまと三幡ねえさまは仲間外れかしら?かわいそうに」

 大姫の言葉に、千幡はちょっぴり頬を膨らませて答える。

「だって、にいさまと三幡ねえさまは、ときどき千幡にいじわるをするんだもの」

 大姫は、千幡の答えにくすくすと笑っている。

 三幡は、千幡のすぐ上の姉だが、千幡とは六歳年が離れている。頼家は、大姫のすぐ下の弟であるが、千幡とは十歳年上ですでに元服して大人の仲間入りを果たしている。

 三幡は、大姫とは違って気が強く活発な性格であることもあってか、すぐ上の頼家とも馬が合うらしく、二人は仲がよい。末っ子の千幡は、中の二人の兄姉から、しばしば、からかわれ、おもちゃにされていた。

 歳の離れた長姉と幼い弟の楽し気な様子を、遠くからそっと優しい瞳で見つめている都の貴公子がいた。いとこの一条高能である。

 大姫に好意を抱いた一条高能は、大姫の母政子を通じて、大姫に結婚を申し込んできた。政子は、湧いてきた娘の良縁に胸を躍らせていた。

「お身内だから安心だし。歳も近いわ。何より、お人柄がとてもよい方だし。本当によいお話だと思うのよ」

 親として娘の幸せを思う気持ちは同じなのだが、愛娘を手放したくない父親の方は、やや複雑な顔をしている。

「嫌だったら、無理をすることはないのだからな。断ってもいいのだぞ。全く。大姫には、帝でさえ物足りぬくらいだというのに!」

 頼朝のあまりの親馬鹿ぶりに、政子は呆れ返っている。

「まあ、帝に対して、何て恐れ多い」

 両親の会話に三幡が口を挟む。

「姉上ばかりずるい!帝のお妃には三幡がなるんだから!」

「話がややこしくなるから、お前は少し黙っていろよ、三幡」

 いつもは妹をけしかけることの多い頼家が、珍しく兄らしく、妹を嗜める。

 一条高能。穏やかで優しい青年だ。この人となら、一生穏やかに暮らしていけるかもしれない。自分に向ける想いが真摯なものであることも、それを嬉しいと思う自分もいる。

 けれど、体が弱く、自分はおそらくそれほど長く生きることはできないであろうことも、大姫には分かっている。

 そして、幼い頃の想いを忘れることはできないし、忘れたくない。将軍家の娘として、犠牲となった命を偲ぶという意味でも忘れてはならないことだとも思う。それが、どれだけ、あの優しい青年を傷つけることになるとしても。

 大姫は、やがて決心したように言った。

「お断りしてください」

 大姫は、父の方に向かい直し、にっこりと笑った。

「父上が帝ですらもったいないと言われるほどの将軍家の総領姫に対して、並の貴族が僭越な振る舞いではありませんか」

 普段物静かな大姫の高飛車な言い方に、頼家と政子は驚いている。

「本気ですか、姉上。こんないい話を何で」

「そうですよ。もう一度よく考えてみて」

 だが頼朝は、何も言わなくても分かっていると言った様子で娘を見つめて言った。

「そうよな。大姫がそう言うのなら、この話はなしにしよう」

 末っ子の千幡は、首をかしげながら父を見つめる。

「おおねえさまは、およめさまにならないの?」

 頼朝は、千幡を抱き上げて大姫に向かって笑いながら言った。

「そうじゃ。おおねえさまは、ずっと、ととさまと千幡と一緒じゃ。どこにも行かんとも」

 

 その年の暮れには、家族皆で永福寺の薬師堂に参詣した。

「ねえ、父上。姉上と兄上だけずるい!私も連れて行ってちょうだい!」

 頼朝は来年、京へ上洛することになっていたが、その中に自分が入っていないことを知った三幡がごねりだした。

「遊びに行くんじゃないんだぞ」

 頼家は兄らしく妹を嗜めたが、三幡の機嫌は直らない。

「まあ、よいではないか」

 子に甘い頼朝は、三幡のおねだりをかなえてやることにした。

「ふふん。いいでしょ。千幡、お前は乳母と留守番よ」

 またもや三幡の意地悪な物言いに、千幡はしくしくと泣き出した。頼朝は、慌てて末っ子を抱き上げて宥めた。

「千幡も一緒じゃ。みんなで行こうな」


 翌建久六年、西暦一一九五年、頼朝は、家族を連れて上洛した。

 絵巻物で見た京の都に、家族みんなでお出かけに行くのだと聞いた千幡は、わくわく感がとまらない。

 鎌倉殿である父頼朝はもちろんのこと、その御台所である母政子、嫡子である兄頼家、将軍家の総領姫である大姫には、それぞれ公務が割り当てられている。

 しかし、下二人の三幡と千幡は、いわばおまけのようなもので、その出番はまだなかった。

 大姫は、母政子と共に、亡き後白河院の寵姫で、未だ権勢劣らぬ丹後局に面会している。その時の様子を、頼朝は、これでもかというほどの親馬鹿ぶり全開で、家族の前で自慢していた。

「京の都でも、これほど優れた姫君はおらぬであろうと言われてのう。大姫は、帝のお妃にふさわしいとまで言われたのだぞ!そうであろうとも、そうであろうとも。儂の自慢の総領姫だからのう」

 これには、妹の三幡がむくれた。

「ずるい!姉上ばかり!帝のお妃には、三幡がなるんだっていつも言っているでしょう!」

 政子は、はあとため息をつきながら言った。

「姉を差しおいて、お作法も何もあったものじゃない妹を人様の前に出すなんて、できるわけないでしょう。三幡の場合、帝のお妃になるどころか、これではお嫁の貰い手すらありませんよ」

 頼家は、慣れぬ儀式に疲れた顔をして、適当に妹をあしらっている。

「滞在は長い。着物でも寺参りでも、好きなことをすればよいではないか」

 千幡は、兄の寺参りという言葉を聞いて、顔を輝かせた。

「仏さまに会いに行くの?」

 千幡の問いに大姫は優しく答える。

「ええそうよ。今度、母上たちと一緒に、千幡も行きましょうね」

「わあ、楽しみだなあ」

 

 数日後、千幡は、母や姉達女性陣と一緒に、ある古刹に出かけた。みながお参りをしている間、千幡は、手に持つには長すぎる大姫がくれた紫水晶の数珠を首にかけたまま、わくわくしながら、境内を探検していた。

 木の影から、何かがきらきらと光っている。それに目を奪われて、千幡が近づいてみると、千幡と同じくらいの小さい女の子が座っていた。格好からして、お忍びで女房達とお参りに来た身分ある都の貴族の姫君であろうが。都人をほとんど見たことがない幼い千幡にはそんなことは分からない。

 童女と目が合った。童女は、きらきらとした目をしながら、千幡に近づいていき、千幡が首からかけている紫水晶の数珠にそっと触れた。

「きれいねえ」

 童女は、きらきらと光る細工がされた高価な翡翠の数珠を、千幡と同じように首からかけていた。千幡もまた、眩しそうに童女を見返して言った。

「そっちもきれいだねえ」

 千幡と童女はお互いにこにこと笑い合う。初めて出会った同志に、千幡は嬉しくなり、首にかけている紫水晶の数珠を外して童女の首にかけた。

「じゃあ、あげるよ」

 童女の方も、自分の翡翠を指さして、言った。

「あげる」

 千幡と童女は、互いの数珠を交換して別れた。

「こんなところにいたの、探したのよ、千幡」

 千幡に近づいた大姫は、千幡が首にかけている数珠がいつの間にか変わっているのに気がついた。

「千幡、それはどうしたの?紫の数珠は?」

「とりかえっこしたの」

 千幡は、にこにこしながら答える。

「誰と?」

「千幡と同じくらいの女の子」

 大姫は、千幡が首にかけている数珠を手に取ってみる。翡翠に細かい細工がなされた明らかに高価なものだと分かる品である。このような品物を身につけられる幼子など限られる。千幡が出会ったという童女は、女房達とお忍びでお参りに来た財力のある都の貴族の姫君に違いなかった。将軍家の力をもってすれば、その童女の正体を調べることは可能だろう。

 だが、嬉しそうに喜んでいる幼い弟に、あえて夢の正体をばらすのも野暮な気がした。

「その子はきっと、仏さまのお使いだったのよ。これは、きっと千幡を守ってくれるわ。大事にしなさい」

 そう言って、大姫は、千幡が首からかけている翡翠の数珠を手に取って、千幡を優しく抱きしめた。

 今度は、次姉の三幡が羨ましそうに言った。

「わー、きれい。それどうしたの?」

 千幡は自慢げに答える。

「仏さまのお使いにもらったの」

「いいなあ。それ、私にちょうだいよ」

 普段次姉にいいようにされている幼い千幡は、本能的に警戒態勢をとった。

 その様子を見た母政子が言った。

「三幡、あなたはいつも人のものを欲しがろうとする。悪い癖ですよ」

 母に叱られた三幡は、不貞腐れたように言い返した。

「何よ、いいもん。父上にお願いして、もっといいものをもらうんだから!」

 宿所に戻ってから、千幡は、すぐに人のものを欲しがり、欲しいものは力ずくで手に入れようとする、三幡よりももっと質の悪い天敵に遭遇してしまった。

「ほう、よいものを持っているではないか。ちょっと貸せ」

 兄頼家は、無遠慮に千幡が首からかけている翡翠の数珠に触れてきた。仏さまのお使いとの大事な想い出の品を汚されたような気がした千幡は、兄の手を小さな手でパシンと叩いて後ずさりした。

「や!これは千幡の!触らないで!」

 思ってもいなかった幼い弟の反抗的な態度に、頼家はますますむきになった。

「弟の分際で、兄に逆らうとは、生意気だぞ!」

 頼家は、翡翠の数珠を千幡から無理やり奪おうとする。

「よこせ!」

「いやだ!」

 千幡は必死に抵抗したが、十歳も年上の兄にかなうわけがない。兄ともみ合っているうちに、ブチっと糸が切れて翡翠がパラパラと音を立てて床に転がっていった。

 それを見た瞬間、宿所中に千幡の大声が響き渡った。

「うわーん!!」

 何が起きたのか、詳細な説明をするまでもなく、どちらに非があるのかは誰が見ても明らかだった。

「おお、よしよし。珠は全てねえさまたちが拾って集めてくれたからな。後で、かかさまに直してもらおうな。だから、そんなに泣かないでおくれ」

 頼朝は、なかなか泣き止まない末っ子を抱いて一生懸命にあやしている。

「幼い弟になんてことをするの!」

「手をついて詫びなさい!」

「私だって我慢したのに。兄上、最低!」

 一方の頼家は、母と姉と妹、気の強い女三人に責められ、行き場をなくしていた。助けを求めるかのように、頼家は、千幡を抱いている父の方に目を向けた。

 頼朝は、やれやれと言った様子で、千幡を抱いたまま頼家に近づいていった。

「にいさまも、悪かったとよく反省しておるからな。許してやろう。な?ほれ、仲直りじゃ」

「儂が悪かった」 

 頼朝は、抱っこしている末っ子の手と、謝罪の言葉を口にした頼家の手を握らせた。慈愛に満ちた瞳で、父は、兄弟の仲直りの様子を見つめていた。

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