第35話 マイナスからの脱出

 アインは胎児になった気分でいた。

 煌々と燃える白鯨の心臓。アインはその中をずっと漂っていた。


『私と混ざるのが少し遅いようですね』

 白鯨の声。アインは心で聞いていた。放っておけば無限の優しさに包まれて溶解しそうな心を、アインは精神力で耐えていた。


『なぜです? 他の者たちは運命を受け入れ、私と同化しました。彼らはやがて、フューネスとして新たな生を得るでしょう。あなたも私と一緒になりませんか? 私のもとに還れば、もう辛い思いをしなくて済むのに』

「確かに一人は辛かったよ。でも、一人じゃなくなった。一緒に進んでくれる友達ができたんだ」

『その友達と一緒にいることと一つになることと、何が違うのです?』

「全然違うよ。彼女には彼女の考えがあって、ボクにはボクの考えがある。全部ごちゃまぜにしちゃえばいいって思ってるあなたにはわからないだろうね」

『ええ、わかりません。自らを苦境に追いやるなど、生物の理に反している。真の意味で別の個体と感覚を共有することはできない。あなたはまた一人で、苦しみを背負っていくつもりですか』

「一人じゃないって言ったじゃないか。ボクには仲間がいる。ちょっと変でそそっかしい子だけど、ボクの抱えているものを一緒に背負ってくれる。そしてボクも、彼女に翼を与えられる。一人ぼっちで完結しているあなたとは違うんだ」

『そう……そういうものでしょうか』

 白鯨は考え込むように言った。


「人間の形をした『個』じゃないと気づけないこともある。ボクはかけがえのないものを知った。だから、あなたには還れない」

 それからアインは、やおら言った。


「ボクは、誰かが自分の存在する意味を教えてくれると思ってた。でもそうじゃなかったんだ。自分が自分である意味は、自分で見つけるものだったんだ。自分の足で立って、自分で色んなものを見聞きして。そうしながら自己を作っていくんだ。ボクはボクのままでいたい。ボクという個人の身体で、世界を旅したいんだ。だからあなたとは、一緒になれない」

 白鯨はため息をついたようだった。


『あなたはもう、私と根本的に違うものになってしまった。今しがた、外部からアクセスしてきた何かを感じました。それは、あなたを求めているようです』

 アインは直感的にそれが誰か悟った。そして助けを求めるようにつぶやく。

「ドリィ……」


『その方ともどもマイナス空間で押しつぶされなさい』

 白鯨が宣告した瞬間、アインの意識全体に重い圧がかかった。ないはずの頭がきりきりと痛む。どうにか耐えていたアインの精神は、そのまますりつぶされるかと思われた。


   ・


 白鯨が無人のカラドリウスを張り付けたまま雲海を浮上したのは同時だった。

 その様は海面からクジラが浮かび上がるのと似た光景だ。

 しっかりと白鯨の身体に組み付いたカラドリウスは、コクピットが開いていながらも引きはがされることはなかった。

 赤い海の中で、ドリィは何者かの意思を感じる。と同時に、全身が押しつぶされるような水圧に包まれる。侵入を阻もうとして、この空間を収縮させようとしているのか。

 頭が万力で締め付けられるような痛みが走る。その圧は海に潜るほど強まった。それでもドリィは引き返すわけにはいかない。

 漂っている少女にドリィは叫び、手を伸ばす。

「アインちゃんっ!」

 球体関節がむき出しになった、裸のアインはドリィに顔を向けた。アインの身体は不定形な形を取っており、かつての彼女の姿は陽炎のように揺らめいていた。

「ドリィ!」

 アインもまた叫ぶ。


「ドリィ、ボクはドリィが必要だ!」

「私もアインちゃん、あなたと一緒にいたい! あなたがいてこそ、私は私を見つめられるの!」

「ドリィの瞳に映るボクが、もう一人のボクだ! 君を見つめながら、ボクはボクと向き合っている! だから、これからもその目にボクを宿してほしい……!」

 ドリィは胸が苦しくなる。精神への圧だけではない。相手に焦がれる想いをドリィは胸いっぱいに感じ取っていた。

「帰ろう! 一緒に!」

 ドリィは身体がバラバラになりそうな圧に耐えながら、必死でアインの手を握ろうとする。

 アインはためらいなくドリィに手を伸ばした。

 二人の手が、ひしと繋がり合う。

 千切れて拡散しそうだったアインの身体が個体の姿を取り戻していく。

 アインの精神が、白鯨に打ち勝った瞬間だった。

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