第24話 神鯨

 それは『神』としか言いようのない存在だった。


 一言で表すなら、胸鰭の代わりに大天使の羽が生えた白鯨、といったところだった。

 しかし大きさはクジラの比ではない。三百メートルを超す巨体が、空中に浮かんでいる。

 クジラと大きく違う点は、胸のあたりで『く』の字に折れていることだった。悠然とした雰囲気を放つそれはまるで竜のようにも見えた。

 優しげにも、逆に無感動にも見える目が周囲を見渡している。体の大部分はフューネスと同じ質感の、銀色の機械でできている。半分が哺乳類、半分が機械の生物だ。常識を揺るがすその存在は誰かによって造られたのか、元々そういった生物だったのか、皆目見当がつかない。

 もしこのようなものを造った者がいるとしたら、それがどれほどの脅威なのか、スケアは考えたくもなかった。


 カラドリウスもコルニクスも、空中でその何かを見上げていた。彼らは白鯨の前では小鳥も同然の大きさだ。

 白鯨はそんな二機を、敵意のない目で見つめ返した。


「……ふっざけんな……」

 呆然とした状態から、徐々に腹の底から怒りが沸き上がってくる。

 スケアは完全に逆上していた。

 今まで散々、いろんなものに振り回されてきた。ようやくカラドリウスを仕留められると思った時、こんなわけのわからない巨大なクジラに邪魔されて、切れないわけがなかった。

 今までどんな理不尽もぶちのめして、クソのような現実を這いながら進んできた。それが今まさに、どうにもならないことの象徴が現れて、彼女を否定するかのように見下ろしている。

 しかし、スケアにはやるべきことがある。近くにいるカラドリウスを仕留めること。それさえできれば、あんなクジラ関係ない。

 

 スケアはコルニクスの機首をカラドリウスに向けた。じゃきん、とコルニクスの爪が鳴る。

 ブースターを全開にして、スケアはカラドリウスに躍りかかった。

「死ねよやぁー!」

 カラドリウスはそこで初めて、コルニクスの存在を思い出したようだった。ブレードで防御姿勢を取る。しかしもう遅い。コルニクスの爪は、カラドリウスの首を捉えんとしていた。


 勝った……! 

 そうスケアが確信した時だった。


 モニター前面に、通信が入ったとの知らせが大画面で表示される。メールの文面が目の前を覆った。

「んだよ、こんな時に!」

 スケアは舌打ちする。しかしそのメールの内容に、彼女は目を見開いた。思わず操縦桿から手を放し、コルニクスの動きが完全に止まった。


 そこに示されたのは、『契約解除』の文字だった。

 送り主はガルシア・ドレイクと出ていた。


 文面には雇用契約を解消する旨が延々と記されていた。なぜ、この場で。ガルシアはドロシーを取り戻すのではなかったのか。

 まるで役目は終わった、と言われたかのようだった。


「嘘……嘘だろ? 何だよこれ……」

 スケアは狼狽した。

 戦う理由が、一瞬にして掻き消えてしまった。すべての努力が、費やした時間が、水の泡となる。何が何だか理解できない。理解したくない。

 こんなこと、未だかつて傭兵業で出会ったことがない。意味の分からない事象の連続に、彼女は正気を失っていた。目が泳ぎ、どうすればいいか、ぐちゃぐちゃの頭で必死に考えた。今まで通り彼女に誰も、何をすべきかを教えてくれなかった。


   ・


 謎のクジラが現れて驚いたのは言うまでもない。

 ドリィはその存在に得も言われぬ神々しさを感じていた。神様が目の前に現れた……そう思えてならなかった。


 あまりの美しさに目を奪われ、コルニクスの接近を知らせるアラートにしばらく気づかなかった。ハッとして視界に迫ってくるものを見、ブースターの速度を上げて離脱しようとした。しかし急な動きは機体に負荷をかけ、すぐには反映されない。

 苦し紛れにブレードを構える。しかし時すでに遅く、頭部をガードしきれなかった。

 だがその瞬間、カラドリウスに肉薄したコルニクスの動きが鈍る。

 機体のトラブルだろうか? 理由はわからなかったが、ドリィは好機だと思った。


「ええいっ!」

 カラドリウスはブレードでコルニクスの左腕を狙う。

「これでも食らえええええっ!」

 じゃりぃぃん、とチェンソーのような振動がコルニクスの装甲を貫通した。

 コルニクスの左腕が断ち切れ、宙に舞う。そのままコルニクスはバランスを崩し、真っ逆さまに海に落ちていった。


『嘘だろぉぉぉぉ……!』

 落下していくコルニクスから、スケアの無念そうな声が聞こえる。声は次第に遠ざかり、消えていった。

 海面にしぶきが立つ。それきり、コルニクスの機影は視界からロストした。モニターからもアイコンが消える。


 ドリィの目は見開かれ、しぶきの後に残った波紋を見つめていた。

 わなわなとドリィの手が震える。初めて飛甲機を倒してしまった。それは、中のパイロットも傷つけたことを意味する……。


「まさか……やっちゃった? でも、メインエンジンを傷つけてはいないはずだから……。避難用の浮き輪だって、どの飛甲機にもあるはずよね……」

 スケアは生きているはずだ、と自分に言い聞かせ、ドリィは落ち着こうとした。


 きぃん、と何かに呼び掛けられる。はっとドリィは気配のした先を見た。白鯨がじっとこちらを見ていた。


 戦闘中も、白鯨は特にこちらに対して働きかけようとはしなかった。深淵のような目は、何を考えているのか伺い知ることはできない。

 眼下の遺跡は完全に崩落し、ドーム状の天井は無残な瓦礫になっていた。あの遺跡に封印されていたのだろうか? だとしたら自分たちは、神ではなく怪物を解き放ってしまったのか? ドリィの背筋がぞくりとした。


 白鯨はモニターを覆い尽くすほどの巨体で、その場から動こうとしない。しかし白鯨の目は、今はカラドリウスに向けられていた。

 白鯨がぐぐっと首をこちらに向ける。攻撃してくる気か……? ドリィはカラドリウスにブレードを構えさせた。だがあの髭の生えた口ならば、カラドリウスを飲み込むのは一瞬だろう。


 勝てるはずがない。それでも、食われるわけにはいかない。ドリィは身体が極限までこわばるのを感じた。

 しかし次の瞬間、ドリィは緊張を解くことになる。


『ドリィ』

 白鯨から聞こえてきたのは、アインの声だった。正しくは、頭の中に直接語り掛けてきている。その声に、ドリィは力が抜けるのを感じた。

「アイン……ちゃん……なの?」

 白鯨の目はじっとカラドリウスを見つめている。その目は、アインがドリィにいつも向けていた視線と同じだ、と気が付いた。

 無表情ではあるが、決して敵意のない目……。

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