第2話

 子供の頃の自分が、メガネを持って浮かれていた。

『うひょー!これさえあれば、世界中の女の子からモテモテになってバラ色の人生が始まるんだろうなー!』

 そうやって浮かれている自分を、俺は後ろから眺めていた。

 そんな昔の自分に向かって、もしも声をかけられるならこう言うだろう。

「やめとけ。絶対後悔するぞ」

 そこで目が覚めた。

 そしたら、目と鼻の先にエマがいた。

「…………」

 高校生になった妹が、瞬きもせずに、こちらをじっと見つめている。

 常人なら暗黒の底のようなエマの瞳に、心臓から搾り出したような悲鳴を上げるところかもしれないが、こんなホラー展開は俺にとって慣れたものだった。

 にこりと笑って、エマを抱き寄せる。

「あっ……」

 エマの頬がさっと赤くなる。瞳の色が元に戻った。どうやら正気に戻ったようだ。

「あ、あれ……?私どうしてここに……?」

 どうやら無意識の間に俺の部屋まで来ていたようだ。

 ふふ、これも好感度9億2千……あっ、今見たら3千になってる。

 まあいいか。

 もうここまできたら数千万の変化なんて誤差だよ誤差。気にしたら負けだ。

 とりあえず、俺はエマにいつもの言葉を言った。

「おはようエマ」

 エマは花が咲くような笑顔でいつものように返してきた。

「おはようございます、兄さん」

 その手に鈍く光る鎖は見なかったことにして、今日もいい一日が始まりそうだと思ったのだった。


「はー……、やれやれ。朝っぱらから監禁されそうになるとは、なかなか刺激的だなー」

『マスター……。そんな言葉で片付けていいことじゃないと思うんですが……』

 洗面所で顔を洗ってさっぱりしたところに、先ほどの感想を言ったら半透明のノエインが呆れたように呟いた。薄紫の髪が、ふわふわと浮いている体に合わせてさらさらと揺れている。窓から差し込む太陽の光が、真っ白な肌を通り抜けてそのまま地面に落ちている。影はない。

 姿は人間なのに、ノエインの実体はとある事情から無くなっていた。


――好感度100


 こうして見ている姿は幻のようなものではあるが、好感度を持って間違いなく存在している女の子だ。

「まあまあ、他の女の子に比べたら監禁なんて可愛いものだよ」

『それはそうかもしれませんが、マスターはもっと危機感を持ってください!ノエインは心配してるんですよ!もしもエマさんがマスターの心臓を抉り出して監禁しちゃったら、ノエインとマスターはもう二度と会えなくなるかもしれないんですよ!』

「うん。それはもう会える会えないとかの問題じゃないからな」

 それにエマがそんな俺の死体をベッドに縛り付けて監禁だなんて……。やばい、想像したらちょっとだけありえなくもないとか思えてしまった。俺の死体に頬を寄せてうっとりしているエマとか、成長によって磨かれた美貌のおかげですんごく様になりそうだ。

 いかんいかん、子供の頃と比べてエマの心変わりがすごすぎるせいで、そんなヤンデレみたいな想像をしてしまうんだ。そう考えると、出会った時のエマの塩対応からずいぶんと変わったものだ。

『ノエインはマスターとお別れなんて嫌です……』

「大丈夫。俺のこの心臓が動いている間は、絶対にノエインと離れたりなんてしないよ。ノエインが愛想をつかして出ていったりしない限り、俺は死ぬまでノエインと一緒にいるよ」

『マスター……』

 ノエインは嬉しそうな顔をして、体に抱き着いてきた。

 触れ合っている感触はない。

 それでも、ここにノエインがいることは紛れもない事実だった。

『はい!ずっとノエインはそばにいます。だって、私はマスターのハートですから!』

「兄さんいますか?」

 エマが洗面所に入ってきたとき、そこには俺しかいなくなっていた。

「ああ。ここにいるけど、どうかした?」

「おかしいですね……。誰か女の声が聞こえていた気がしたんですが……」

「ははは!まっさかー!」

「ふふふっ。そうですよね、変なことを言ってすみません」

 笑いながら、俺の服の下にはじっとりと冷や汗が出ていた。

 あ、危ない。ノエインとの会話は、他人に聞かれることはほぼないはずなのだが、本当に聞こえていたとしたら、ちょっとしたホラーである。

「それより、私の準備はできました。いつでも出かけることはできます」

「よし、それじゃあ行こうか。今日は久しぶりにエマと一緒に過ごせるのが楽しみだよ」

 そう言うと、エマは花が咲くように笑った。

「はい!私も兄さんと一緒にいられることが楽しみです!」


「兄さんこっちに行きましょう!」

「ああわかったよエマ」

 エマに手を引かれて、俺は近所の公園に来ていた。

 自然が多く様々な人が訪れるこの場所は、子供の頃からエマとよく来た場所だった。

「久しぶりに来たけど、こんな普通の公園でよかったの?」

 せっかくのデートだというのに、エマが選んだ場所は子供の頃からなじみのある公園だった。

「はい。ここが一番いいんです。

 だって、人が多いところや有名なところに行ったら、何かの事件に巻き込まれたり女が寄ってきたりしてデートどころじゃなくなりますから。

 ……私だけの兄さんなのに」

 少しだけエマの目が濁り始めた。

 やばい。最近かまってあげられなかった反動か、エマの自制心が著しく低くなってる気がする。

「い、いやー!こういう自然豊かな公園って落ち着いていいよね!それにここに二人で来ると、昔を思い出して懐かしい気持ちになるなー!」

「あっ……、そうですね。兄さんと初めて会ったときから、何度も二人でここに来ましたね」

 よし!昔の話題でエマの気をそらすことができたぞ!

 エマの瞳の色も戻って、懐かしい思い出を探すように辺りを見回している。

「あそこの滑り台覚えてる?よく二人で滑って、どっちのほうがうまく滑れるか競争してたよね」

「兄さんがバク転しながら滑り台に突っ込んでいって、地面に頭から落ちたことなら覚えてますよ」

「はうっ!」

 カッコつけようとして思いっきり失敗したことを思い出してしまった。

 あの時は盛大に頭から血が出て病院送りになり、ママから初めてガチ説教をくらってしまったのだ。あの時のエマの冷めた目は、今でも鮮明に記憶に残っている。

「いやー。なんというか、新しくできた妹にかっこいいところを見せたくて、ついつい」

「もう……。そんな無茶しなくても、兄さんのかっこいいところなんていくらでも知っていますよ」

 そう言ってエマは優しく微笑んで、そっと俺の腕に抱きついてきた。

 その微笑みを見た瞬間、自分の心が暖かくなっていくのを感じた。

「兄さんはお人好しでバカですけど、色々な人を助けたりできる、私の素敵な兄さんです」

「エ、エマ……!」

「まあ、その優しさが女性にばかり向けられているのは、かなり許せない所ではありますけど」

「ぐっ……!」

 エマはいたずらっぽく笑って言った。

「でも、今は言わないであげます。その代わり、今日は私だけを大事にして、一緒にいてくださいね」

「しょ、承知しました」

「ならばいいです。さあ、一緒にお弁当を食べましょう。今日は兄さんに食べてもらおうと、頑張って美味しく作ってきたんですからね」

 足取りも軽く、俺を引っ張るエマは、本当に嬉しそうだった。その様子から、どれだけ今日という日を待ち望んで楽しみにしていたかが、切なくなるほど伝わってきた。


――好感度9億3千600  愛してる、兄さん。


 メガネで見えることに、嘘はない。

「俺も愛してるよ、エマ」

 小さく呟いた声は、しっかりと届いていたようだった。

 エマは驚いた顔をしながら、頬を赤く染めてとても綺麗に笑った。

「私も愛してますよ、兄さん」


――好感度9億5千万


 あっ、好感度がすごい上がりかたした。

 天井知らずに上がっていく好感度から、そっと目をそらして、俺は今日のデートに現実逃避することにした。


 それから、俺たち二人は景色の良い丘の上にレジャーシートを広げて、エマが作ってきてくれたお弁当を広げた。その中身はたいそう豪華なもので、少なくとも昨日から準備をしていないと作れないようなものがあった。

「昨日はほとんどキッチンにこもっていたけど、こんなすごいものを作っていたのか」

「はい。今日のデートが楽しみで一週間前から準備してたんです」

「ははは。それは心して食べないとね」

 華やかなお弁当が、エマの執念のようにも思えて、一瞬にして重みを増したように見えた。絶対にどれも美味しいだろうけど、ここでこんなもの食えるかとかお弁当をひっくり返したら、エマは世を儚んで自死してしまうのではなかろうか。

『兄さんに嫌われたら生きていけません!介錯をお願いします!』

 まあ、絶対にそんなことはしないだろうけど。

「よし、それじゃあ」

「あっ、待ってください兄さん」

「ん?どうしたのエマ?」

 エマは恥ずかしそうに俯きながらも、ためらいがちにおかずを自分の箸でつまむと、こちらに向けて差し出してきたではないか!

「ど、どうぞ。丹精込めて作りましたので、食べて、兄さん」

 雷に打たれたような衝撃が俺に走った!

 あのエマが!男女共にクールビューティーとか言われているあのエマが!内心のクソでか感情を滅多に表に出そうとしないようにしているエマが!顔を真っ赤にして、俺にあーんとかいう恋人同士がやるような、べたべたに甘えたことをしてくるなんて!

 ひょー!この顔をずっと見ていられるなら、空気を食べていたってお腹いっぱいになるぜ!

 あー。本当に来てよかった。

 今日は最高の休日だ!

「じゃあ、いただきます!」

「はい。どうぞ召し上がれ」

 俺は大喜びで、エマのお弁当を食べようと口を開け。

「よう!遊ぼうぜ真人ー!」

「ぐええええ!!」

 そのままおかずを口に入れる前に、横合いからぶっ飛んできた何かに、俺は吹っ飛ばされた。

 驚いたエマの顔が最後に見えたとき、俺は素敵な休日が台無しになることを悟った。

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