第6話

 陽くんは一度職場に寄ってからカウンセリングセンターに向かうらしいので、現地集合することになった。土曜日なのに大変だ。前の会社はおもしろいプロジェクトがたくさんあったし、みんないい人たちだったけれど残業がものすごく多かったから、転職してよかったと思う。


 初めて降りる駅で下車して、住宅街を歩いていく。ずっとここにある感じの、古くて大きい家が建ち並んでいる。家を買うってすごいなあ。想像できない。日当たりのいい軒先で多肉植物がプランターから溢れかえっている。一軒家だと、ガーデニングが捗りそう。でも、引っ越したくなったりしたらどうするんだろう。


 カウンセリングセンターの住所に着くと、バブル時代に建てられた雰囲気の、エントランスホールにどっしりとした柱が並ぶマンションがあった。エントランスで待っていると、陽くんがカウンセリングの予約時間ぎりぎりに到着した。スーツ姿だ。わたしもワンピースでも着てくればよかった。なにも考えずに、ニットにジーンズで来てしまった。


 カウンセリングセンターのドアを開ける。本当に普通のマンションの部屋なので、ここであっているのかな、とちょっと不安になる。中に入ると、ちゃんと受付があったので、安心した。ふかふかのカーペットが敷かれている。スリッパもふわふわだ。陽くんが受付を済ませると、女の人がカウンセリングルームに案内してくれた。センターの奥には、下の階に行く螺旋階段があってびっくりした。何人家族用の間取りなんだろう。階段を降りて通された部屋には、一人掛けのソファが四脚、向き合うように置いてある。陽くんが入口から一番奥のソファに座る。その隣にわたしも座った。


 緊張して喉が渇く。駅からここに来るまでに自販機で買った麦茶をトートバッグか

ら取り出して、ペットボトルのラベルを剥いで飲む。ラベルがついていると、書いてある文字で気が散ってたまらないから、いつも剝いている。


「俺も喉渇いたなあ」


 ボトルを渡してあげると、陽くんは麦茶をほとんど飲み干した。


 すこし待って、男女二人が部屋に入ってきた。この人たちがカウンセラーさんみたいだ。どちらも細身で、大学教授みたいな雰囲気だ。やさしそうでよかった。


「今日は、山口さんと香川さんお二人が話しやすいように、わたしたちも男女二人でお話を聞かせていただきます」


 お互いに簡単な自己紹介をした後に、男性カウンセラーの田丸さんが言った。女性カウンセラーの佐々木さんがわたしの方を見て、微笑んだ。どういうトレーニングを受けたら、こんなに物腰がやわらかくなるんだろう。


「今日、お二人から話したいことはありますか」


 佐々木さんが言った。


「僕はもちろんあるんですが、もし香川さんが話したいことがあれば、聞きたいです」


 陽くんがわたしの方を見ながら言った。ひさしぶりに名字で呼ばれた。前の会社の会議室で陽くんがこんな感じで話しているのを、遠目に見ているとすごく笑えたのを思い出した。


 話したいこと。いろいろある気もするけれど、全然ない気もする。陽くんが満足するなら、なんでもいい。


「わたしからは、話したいことは特にないです」


 陽くんはうなずいているけど、ちょっとがっかりしたように見えた。


「じゃあ、自分が話しますね。二人だけで話していると、どうにも話し合いが進まなくて、第三者の方を交えて話したいと思ったので、本日はよろしくお願いいたします」


 陽くんは仕事用のかばんからクリアファイルを取り出した。罫線が細かく引かれたコピー紙が挟んである。エクセルファイルを印刷したものみたいだ。陽くんがそれを田丸さんと佐々木さんに手渡す。わたしにはくれない。


「話したいことが多すぎるので、表にまとめさせていただきました。上から順にちょっと読ませていただきます。セックスレス。三ヶ月ほど前から性交渉がありません。道具を使おうとしてみたり、ラブホテルに行ってみたり、セックスの予定を立ててみたりしたのですが、香川さんはどうしても気が進まないみたいで、正直途方に暮れています。誕生日プレゼントをくれなかった。香川さんは僕の誕生日を忘れていて、プレゼントをくれませんでした。僕は香川さんの誕生日を祝ってあげたので、大事にされていない感じがして、とても悲しかったです。なんで怒っているのかちゃんと話してくれない。よく質問に対して黙り込んで、なにも答えてくれなくなる。なにが嫌なのか聞いても黙り込んで答えを教えてくれないので、問題がわからずに過ごしていると、突然とんでもないことを言ってきて、いつもすごく傷つきます。それが原因かはわかりませんが、今年になって不眠症のような状態になってしまって、睡眠外来に通っています」


 陽くん、これ練習してきたのかな。田丸さんと佐々木さんは、陽くんの話をゆっくりうなずきながら聞いている。


「ちょっと、今日は一時間しかないので、このくらいで一旦止めようと思うのですが、一番香川さんに聞きたいのは、なんで出会ったころは普通に話せていたのか、ということです。自分たちは以前同じ職場に勤めていて、そのときに出会ったのですが、そのときの香川さんはすごく明るくて、かわいいし、仕事もがんばっているし、すぐに大好きになりました。そのころは自分の意見もちゃんと言ってくれていた気がします」


 仕事だからだよ。


「付き合い始めてからも、とても楽しかったです。話も合うし、なにをしても楽しかったし、すぐに結婚したいと思いました。でもだんだん、質問に答えてくれなくなって、黙り込むことが増えていって、自分ではどうしたらいいのかわからなくなりました。なので、今日は香川さんがなにを考えているのかを教えてほしいです」


 陽くんの顔を見る。なんだかすっきりしたような顔をしている。わたしの顔はどんな風になっているんだろう。右手が震える。今震えてほしくない。ぎゅっと握りこぶしをつくる。


「山口さん、ありがとうございます。香川さん、山口さんのお話を聞いて、どう思いますか?」


 佐々木さんが聞いてくれた。


 どう思ったか。


 なにも言えなくて、涙が出てきた。どうにか止めようと思っても、涙が下瞼を乗り越えて、もう止まらない。佐々木さんがティッシュの箱を渡してくれる。


 陽くんはそうやって、自分の考えを筋立てて誰にでも話せるんだろう。コミュニケーションがとれるんだろう。わたしにはできない。わたしには、陽くんにちゃんと教えてあげられるわたしの考えみたいなものはなくて、なんとなくの感覚しかないんじゃないかと思う。それはとらえどころがなくて、言葉で表そうとするにはかたちがなさすぎるように感じる。でもちゃんと話さないと陽くんには伝わらない。わたしは陽くんが大好きだけど、それは陽くんには伝わらない。


 なにか言わないと、と思って絞り出した。


 「会社では普通に話せていたのは、仕事だからです。別に、自分のことを話す必要がないじゃないですか。わたしは、自分のことを話すのに、ものすごく時間がかかるし、むずかしいんだと思います。そういう状態が、素の自分で、会社での自分は、素じゃないんです。山口さんと付き合い始めて、すごく居心地がよかったから、素の自分を出してしまったんだと思います」


 田丸さんと佐々木さんが、うなずいて聞いてくれた。陽くんは納得がいってなさそうな顔をしている。


「香川さん、ありがとうございました。山口さん、どう思いましたか?」


 田丸さんが陽くんの方を見て聞いた。


「香川さんが、そんなことを考えているのも、初めて聞いたので、驚きました」


 陽くんはさっきよりも小さい声で言った。田丸さんがにっこりしながらうなずいた。


「山口さんは、自分の考えをほかの人に伝えるのが、先ほどのようにお上手な方ですね。それに対して、香川さんは、自分のことをほかの人に話すのに、ものすごく苦手意識があるようです。さっきは、がんばってお話ししていただいて、ありがとうございました」


 涙がやっと止まっていたのに、また溢れてくる。ティッシュを使い切ってしまったけれど、佐々木さんがすぐに新しいティッシュ箱を渡してくれた。


「もし香川さんが、これからも今日のようにお話しできるときがあれば、山口さんは、香川さんのお話をゆっくり聞いてあげてください」


 心臓がバクバクしていて苦しいので、ゆっくり息をする。陽くんがカウンセラーさんにいろいろ質問しているけれど、それどころではなかった。結局なにが言いたいのかわからないことを言って、ずっと泣いているわたしを見て、カウンセラーさんはどう思ったんだろう。病院に行ったりした方がいいんだろうか。


 気づいたらカウンセリングは終了していた。


 陽くんがお会計を済ませている間に、マンションの外に出て陽くんを待っていた。


「三万三千円だったから、茉優ちゃんは一万円でいいよ」


 マンションから出てきた陽くんが、領収書を見せながら言った。

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